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1

…もう潔く負けを認めます

「…んも、だからさぁ!」これじゃ半ば八つ当たりだ。からみ酒だ。でも今じゃなきゃ言えないと思ったし、今なら酔った勢いだと聞き流してくれると思った。
「あたしがそうしたかっただけなの! この人なら好きになれるかなぁって、付き合ってみて、寂しさとか性欲とか満たしあってさぁ! でもこの人のためにあんたと飲むのやめようって思えなかったの! この人に時間拘束されるくらいならあんたと飲みたいって思ったの! あんたといるのが一番落ち着くんだからしょうがないでしょう!」「…あのねえ先輩」なによ、と強がる声は震えた。小さく息を吐く音が聞こえる。
「素面じゃないから何言ってもいいと思ってない? 僕が聞き流せるとでも思った?」完全に敬語が外れてるのを初めて聞いて___いや今そんな場合じゃないんだけど罪悪感めいたナニカをガツンと蹴飛ばして、胸がどくん、とときめいた。
「酔った勢いだからって聞き流してあげない」
そんな可愛い台詞、と辛うじて聞き取れた。え、と驚く間もなく形成逆転のように畳み掛けられる。「誰にでも優しくできるほど聖人じゃないよ。誰とでも飲むほど暇じゃないよ。他の誰にも可愛いなんて言わないよ。こっちは結構頑張ってるのにさらっと流されたりしてさ、」どんだけヘコんだかわかる? と睨まれて、縮こまる。___待ってそれはどうゆうことなの。
ちっと舌を打ったところを見ると、彼も相当酔っている。
「僕は先輩が好きですよ。高1の時から先輩がずっと好きですよ。電話してくれるのも甘えた声聞けるのも嬉しかったんですよ。
だからもういい加減僕のところに来てくださいよ。これだけ待ったんだから僕のものになってくださいよ。先輩だって僕のこと好きなの知ってるんですよ。あんな可愛いこと言っておいて違うなんて言わせませんよ」

4

彼もまた、嘘色のハートマークに撃ち抜かれた被害者なのだ

「猫踏んじゃった」のリズムのノック。いつもの合図だ。私は特に急ぐでもなく玄関へと向かい、扉を開ける。一欠の星も見えない夜空、と、同じ色の学生服。彼が、来た。

「ママと喧嘩でもしたの」

笑う私を押し戻すように乗り込んで来た彼は弁当屋の袋を提げているが、うちまで晩餐をしにやって来たわけではないのだろう。その証拠に、ほら、私はもう彼の腕の中だ。彼の低い声が鼓膜を揺らす。

「ね、いいですか」

何が、とは問わなかった。あんたのメシ下に落っこちたけどいいの、とも問わなかった。私は大人の女なのだ。―――大人の女の私は、それらしく、大人のキスでもって返事をしたのだった。



「うわ、フライが遠征してる」

パンツ一丁で弁当箱を開いた彼はげんなり呟いて、ソースの小袋と格闘し始めた。私はふたり分の汗を吸ったシーツを大雑把に畳みながら、先ほどまで爪を立てていた背中に言う。

「私、出掛けるね」
「仕事ですか」

さっきから貴女のスマホ、光りっぱなしですもんね。彼は視線を小袋に落としたまま、つまらなそうに了承した。それから捲し立てるように続ける。社会人は大変そうだ。働きたくねえなあ。

「つうかこのソース、全然開かないんですけど」
「ハサミで開けたら」
「それは反則でしょ、なんとなく」

―――だって「こちら側のどこからでも切れます」って、書いてあるのに。

私はたまらず吹き出す。何を面白がられているのかまるでわかっていない様子の彼はいじらしく、それでいてひどく愚かだった。そっか、そうね。君はまだ知らないままでいい、ぜえんぶ。

笑いすぎて涙の浮かんだ私の瞳をじっとりと見やりながら、彼は不貞腐れる。「まるで貴女の心みたいだ、これ」。彼の手に温められた小袋がくちゃりと鳴った。

「出掛ける前にシャワーくらい浴びたらどうですか」
「そうする」
「行ってらっしゃい」

脱衣所に向かいながら、行ってきます、とは言わなかった。ただいま、を言うつもりもなかった。私は大人の女なのだ。ソースの小袋に最初からハサミを入れてしまうような、大人の女なのだ。―――大人の女の私は、それらしく、大人の笑みでもって、光りっぱなしのスマホをタップするのだった。

今から準備するね、もう少し待ってて、ハートマーク。