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ゆめくいしょうじょ

ピースサイン三形態ともフラゲしました。三曲ともそれぞれ違った色や温度を持っていて、同じ人が作ったとは思えないほどでした。
わたしは米津さんがハチだった頃の曲も大好きで、中でも1番のお気に入りが「沙上の夢喰い少女」でした。だから今回米津さんが改めてこの曲をカバーすると知ったとき、嬉しさとわくわくで胸がいっぱいでした。しかし1番好きな曲だからこそ、「全く違う曲になっていたらどうしよう」「もうあの頃のハチさんが完全にいなくなっていたらどうしよう」とほんの少しの不安があったことも事実です。実際聞いてみて、確かに「ゆめくいしょうじょ」は「沙上の夢喰い少女」とは違う曲でした。ボーカロイドの細い声でもないし、たくさんのアレンジが施されていた。でも、最後の「君の悪い夢も私が全部食べてあげる」でふいに泣きたくなるところは全く変わっていませんでした。この曲が持つあたたかさ、ツンと鼻が痛くなるようなせつなさは、昔と何も変わりませんでした。わたしはやっぱり、この曲が大好きです。時間が経って変わっていっても、どこか変わらない温かみを感じることができるこの曲が。ハチさんも大好きですが、それ以上に今の米津玄師が大好きです。ずっと応援しています。

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わたしの高校生活

わたしがBUMP先生を好きになったきっかけは、同じ部活のある男の子を好きになったことです。その人に勧められてBUMP先生の曲を聴くようになりました。わたしがふざけて「オススメの曲30曲送って!笑」って言ったときに、本当にずらずら30個の曲名が送られてきたときは本当に嬉しかったです。一緒にカラオケに行ってBUMP先生の曲を歌ったのも思い出です。告白もしたけど振られてしまって、それでも仲良くしてくれました。でも今年受験生になって、部活も余裕もなくなり、今では話もしていません。その人のことは思い出になりましたが、高校のときに素敵な恋愛ができたのは紛れもなくBUMP先生のお陰です。
今は受験に向かって頑張っています。一度推薦で失敗していて、もうダメだって思いました。それでも涙は枯れるし、なんだかやれてる。《Hallo,world!》の主人公そのもので、まるでわたしの主題歌のようでした。一回失敗したところでメソメソすんなよ、顔を上げてって言われてるような、優しく力強い曲に何度も励まされました。BUMP先生がわたしの人生に無かったら、ほんとうに今はないと思います。たくさん助けていただいたし、いろんな感情をくれました。本当にありがとう。

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わたしの人間開花

曲と曲が間髪入れずに流れてきて、こちらに迫ってくるようなアルバムだと感じました。特に『Lights go out』から『光』のスッと入ってくる感じ、世界が開けていくような印象を受けました。

突き放したり、必死に何かを探していたり、夢見たことがなかなか現実にならなかったり、人間らしくなれなかったり、それでも光へと向かおうとする、あまりにも「人間」で、あまりにも人間臭いアルバムです。

わたしの半径5mの世界がそこにはあって、それをRAD先生が魔法をかけてキラキラにした。そんな曲ばかりで、「人間ってなんか、いいな」、これがアルバムを一通り聴き終わった感想です。

わたしは高校受験のとき楽をしてしまって、「どうせダメだ」と志望校を下げて、自分の限界を自分で設定してしまいました。「こんなもんかな」という言葉がわたしの中にいつもあって、それがわたしを守ってきました。

《どうせ消えてく僕らなんだ 大事に抱えたところでいつか ならば使い切ってやんだ》。ハッとしました。わたしは自分を大事にし過ぎて、守りすぎていた。使い切ってやんなきゃ可哀想だって、気づかされました。サビはすべて「どうせ」とネガティブな言葉始まる『ヒトボシ』。でも確かに前を向いていて、ひたすら走っている。

わたしは3日後、大学の推薦入試を受けます。倍率は高いし、面接は苦手だし、正直不安しかありません。まだ、「どうせ自分なんて」と思ってしまいます。でも『ヒトボシ』を聴いて、RAD先生に勇気をもらいました。わたしは小さくて消えゆく存在です。でもだからこそ、自分を使い切ってやろうと思えるようになりました。中学生のときのわたしが今も自分を押さえつけようとしていて、でも《それだけじゃ僕らの 未来は照らせやしないから》。わたしは3日後、思い切りわたしを開花させたい。頑丈な鎖を千切って、間違えても擦りむいたとしても、わたしなりに花を開かせてみようと思います。

『人間開花』は、『ヒトボシ』は、わたしの宝物になりました。RAD先生はわたしという種に、光をくれました。わたしの開花は、すぐそこです。

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ポケットの中の

わたしには11年歳の離れた兄がいます。物心ついたときには兄は高校生とかで、体や声は大きいし、怖いという感情しかなくて、口をきいたことはほとんどありません。そしてすぐに大学進学で家を出たため、わたしたちはほぼ他人のような兄妹でした。他の家はもっと兄妹で仲がいいのに……と、本当はもっと仲良くしたかったのです。すこし前に、わたしは母からある告白を受けました。「あんたのお兄ちゃんは、ほんとの兄ちゃんじゃない」と。母は1度離婚していて、兄とわたしは父親が違う兄妹だったのです。それを聞いてわたしは、涙がとまりませんでした。顔を合わせることは無いし、喋ったことも数えるほどしかないのに、どうして涙が出るのかわかりませんでした。母も意外に思ったようで、そんなわたしにあるアルバムを見せてくれました。それは、まだ赤ちゃんのわたしの隣で、笑顔の兄が寝そべっている写真でした。母が教えてくれました、「お兄ちゃんはあんたの面倒をずっと見ててくれてたんだよ」と。兄はきっと、心細かったと思います。お父さんが変わって、複雑な気持ちだったはずです。それなのに産まれてきたわたしを、こんなに可愛がってくれていた。他人のようだった兄との唯一の繋がりであった血が否定され、他人のような気がしていたけれど、それは違った。小さい二人には確かな絆があって、でも今、わたしたちには何もありません。『LOSER』にもあるように、《何もないならどうなったっていいだろ》。わたしは今、こんな気持ちです。何もないからこそ、ここから始めたい。そう思えるようになったのは、米津先生のお陰です。わたしがポケットに隠しているのは、「お兄ちゃんに『ありがとう』を言いたい」という気持ちです。兄に話しかけるのに勇気がいるなんて、おかしいことだと思います。でも、このまま他人のままで終わらせたくないです。米津先生、わたしに一歩を踏み出す勇気をください!