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『死にたい』とは何かーワンオクの回の後記読みまして

 人は、何かがあるとその言葉に到る。そう言語化する。そして、言語化した後に、その言葉の意味する行動に近づいたり、その言葉が意味することを自分の感情だと認識したりする。
それは、まず、危ない事だと思う。
そして、その何かを解剖し、言語化し直す事が大切です。つまり『死にたい』という言語化をし終わった後から、その言葉を思い浮かべるに到った原因たる何かにまで戻る。
 死にたい気持ちを、死んでは駄目だ!みたいな言葉で丸め込まれることに抵抗感のある人もいるんじゃないだろうか。
 一つのケースとして考えられることとして、その『死にたい』は、いくつかの自分を死にたい、消したくて、ただ、他方で、生々しく生きたい他の自分が存在するだろう。
例えば、余りにも苦しい、理不尽な、絶望的な今の人生を生きる自分を死にたくて、でも他方で、生きられたかも知れない楽しい人生を生きる自分を狂おしく生きたい、というように。
彼らといる自分を死にたくて、その音楽を聴いている時、その本を読んでいるとき、そのお笑いを観ているとき、その映画を観ているとき、そのラジオを聴いているとき、その人と関わるときは死ぬまではしなくてもいいかも知れない、というように。
幾分かの人々は、生きたい・生きられるかも知れないって自分と、死にたい・生きられない・どうしてもこれは生きたくないっていう自分をもっている。
 その時は、自分を分割的に言語化して、これは死にたい、これは生きたいとなるべく正確に言語化する。だから何?、を置いておいて、まずそれはしていく価値がその当人にとってあると思う。
 そして、その後は、生きたい・生きられるかも知れないって自分で居られるようにあらゆる意味で足掻くしかないのが人生なのかもしれないとも思う。
あらゆる意味で、あらゆる方法で。
そして、その為にはその効果的な諸方法を知ることの助けになる人間が必要で。
それは誰だろう…。100%大丈夫な人はいないし言えないが、精神科医を何人か当たれば、いつかはこの人は頼りになるんじゃないか…って人に会える可能性は現実的にかなりあるのではないだろうかと個人的に思う。
皆さんの安寧を祈って。皆さんが若い内に、心身に深い傷を負わないことを祈って。
これらの言葉をここに残したいです。
チバぁあああ!!!笑久しぶりに聴いたな
飲みまくりまくりつつ

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『普通』の、『良い』人生って何だろう

 「良い」人生であり、あるべき人生であり、そういう人生を生きられてる人にとっては「普通」の人生というのは、唯一自分で自分を守れない「子供」の時期に、「崖」という言葉を比喩で使うなら、その崖に突き落とされることなく、また、崖に突き落とされてなかったとしても、その後の人生で自ら崖の方へ歩いて行ってしまうような人間にならない人生で。
つまり、崖の存在を知らない子供の時期を、周りの親などの人達のおかげで崖とは距離のあるところで過ごし、一杯遊んだりスポーツ頑張ったりして過ごして、思春期と言われるような中高生の時期に、まっだまだ崖とは距離のある状況で初めて崖の存在を認知する。そして、崖とはとても距離のある状況で、そちらに行ってしまえば最終的に崖から落ちてしまう事も認識しながら、そちらの方に行かないように勉強頑張ったり、ツラい事と戦ったり、その為に誰かと支え合ったり、支え合える他者と恋愛をしたりして、段々大人になっていく。そして、思春期を越えていくと、自分が崖に近づかないように小さい頃から頑張ってくれてた周りの人達にどんどん感謝するようにもなっていく。そして、就職したり、どんどん自立していって大人になっていって、今度は自分で自分が崖に近づかないように暮らしていき、そしてその中ではそうして暮らしていける為に家族や友人や恋人等との良い関係を築いてもいく。自然にそれらをできる人間に、自覚なくとも自分の幸せの為に生きていられる人間になる。
そして、いずれは下の世代の子どもを産み、子どもを崖に近づかないように育てていく…、そういう人生が「良い」「普通」の人生なのかなと思う。
 しかし、幼少の時に既に崖から突き落とされていた人生は存在する。しかもそれを身近な親にされた人も居るだろう。物心ついたときには崖の下にいた感覚は言葉にならない。崖を認知し、それ故に足掻いたり踏ん張ったり努力する事すら出来ずに、学区の半径数キロが世界の全てであった幼いうちに心が壊れて、そして後に気付いた時には崖の下にいた、あれからの恐怖や絶望は他の恐怖や絶望と比べられないものだろう。崖への恐怖を感じながら、そちらに行かないように足掻けた、もがけた、努力出来た人生とは全く異なる人生である。
そんな人生には、人々には言葉が、物語が必要だ。もっともっと沢山の言葉が必要なんだと思う。

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普通の、狂おしく素晴らしい人生 ワンオクの回の後記を読んで

「良い」人生であり、あるべき人生であり、そういう人生を生きられてる人にとっては「普通」の人生というのは、唯一自分で自分を守れない「子供」の時期に、「崖」という言葉を比喩で使うなら、その崖に突き落とされることなく、また、崖に突き落とされてなかったとしても、その後の人生で自ら崖の方へ歩いて行ってしまうような人間にならない人生で。
つまり、崖の存在を知らない子供の時期を、周りの親などの人達のおかげで崖とは距離のあるところで過ごし、一杯遊んだりスポーツ頑張ったりして過ごして、思春期と言われるような中高生の時期に、崖とは距離のある中で崖の存在を初めて認知して、まっだまだ崖とは距離ある状況で認知して。そして、崖とはとても距離のある中でそちらに行ってしまえば最終的に崖から落ちてしまう事も認識しながら、そちらの方に行かないように勉強頑張ったり、ツラい事と戦ったり、その為に誰かと支え合ったり、支え合える他者と恋愛をしたりして、段々大人になっていって。そして自分が崖に近づかないように頑張ってくれてた周りの人達にどんどん感謝するようにもなって、そして、どんどん自立していって大人になっていって、今度は自分で自分が崖に近づかないように暮らしていき、そしてその中ではそうして暮らしていける為に家族や友人や恋人等との良い関係を築いてもいき。そして、いずれは下の世代の子達を子供を崖に近づかないように育てていく…、そういう人生が「良い」「普通」の人生なのかな。
そして、幼少の時に既に崖から突き落とされた人生は存在する。そんな人生には言葉が、物語が必要だ。まだまだ足りない。もっともっと沢山の言葉が必要なんだ。