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ヴィーナス

 脳のネットワークが単純なうえに知識、経験のインプットもない田舎者である俺は、上京して数か月、ずっと孤独を噛みしめていた。
 そんな俺がある日の夜、たまには都会的な気分を味わってみようじゃないかとしゃれたかまえのイタリアンレストランに入ったところ。
 カウンターの向こうに、女神がいた。
 後ろで束ねた長い黒髪、澄んだ瞳、豊満な乳房、豊かな腰まわり。ふっくらとした唇。
 メニューを持って微笑む彼女を白熱光が照らす。
 ひと目で恋に落ちた。
 常連になり、彼女の大学生活の話や悩みなどをきいたりするような仲になって、自然に連絡先を交換した。
 のだが、何度デートに誘っても、予定がある、とかわされてしまう。
 あきらめかけたころ、夜勤明け、眠れなかった俺は、そういえばランチ営業もやってたなと思い、店に行った。
 俺は驚いた。
 彼女がいた。
 夏休みなので昼も入っているのだと言う。
 俺が驚いたのは昼働いていたからではない。
 ノーメイクだった。
 ノーメイクの彼女はまるで地蔵のようだった。
 いや、地蔵そのものだった。
 彼女が動揺している俺に追い打ちをかけるように続けた。
「わたしはあなたのおじいさんの代から村にまつられている地蔵です。わたしはあなたのおじいさんに、都会に出た孫が心配なので守ってほしいと頼まれ、やってきたのです」
 俺はパスタを注文し、待つ間、彼女が忙しく働く姿を目で追った。この店に来ることは、もうないだろう。

2

巨大積乱雲がふつうの積乱雲になって空はこころなしか高くなり

欄干から見下ろすと

制服姿の君が自転車を押しながら手を振っていた

本当に好きになってしまうとものにしたいという気持ちより嫌われたくないという気持ちのほうが先立ってしまうって君の言葉を思い出し

僕はなすすべなくすべすべの君の焼けてない頬に手をふれるイメージにひたった

落ちこぼれの僕は覚えようとしても覚えられないことばかりなのに忘れようとしたことは覚えている

気づいたら君は僕の後ろにいて

強い風に長い髪をなびかせてた

口に入りそうな髪を僕は指先でよけてやり

ついでに毛先から髪をすいた

髪は毛先からすくのが美容師のやりかたなんだ

うん

知ってた?

うん

ううん

僕のこと好きだろ

うん

ううん

女は生殖にコストがかかりすぎるから脳に作用するホルモンの合成が男性に比べると劣るんだって

男っぽい女性でも男性に比べると不安が大きいのは男性よりもセロトニンが不足しがちだから

不安が大きいから依存的になって結婚願望が強くなって結果的に結婚して妊娠出産という形になるわけだから上手くできてるんだって

ママが言ってた

すべてはささいなことだと

すべすべの頬を手の甲で撫でながら思った

大人になったつもりだったが

もやもやがつのってただけだった

もやもやは上昇気流に乗って

来年の積乱雲になるのだそうだ

薬飲まなきゃ

人間は記憶の生きものだから薬の効果で気分が上がったところで長続きしない

僕は彼女の手から錠剤を奪って川に捨てた

自転車のベルにはっとし

僕は鞄を肩にかけなおして

バス停に向かった

気だるそうな長い列が

バスに吸い込まれ

マフラーから吐き出された

吐き出された人たちは

上昇気流に乗って雲になり

雨を降らせた

雨に濡れながら僕は

今日は会社を休もうとスマホを取り出した

夏が終わる

1

恋に落ちて

 男がロバに乗って旅をしている。男は預言者である。なんてことはなく、腹の突き出た、ただの中年男である。
 人間はなぜ自由意思があると思い込んでしまうのだろうか。それは可能性を妄想することができるからだ。
 そんなことを考えて、にやにやしているところに、質素な身なりの、まあまあの美女が現れる。男はロバから下り、手綱を引きながら女に近づく。女が微笑む。
「乗るかい?」
「いいの?」
「そのつもりだろ」
 二人はロバに揺られながら、話を始める。
「おじさんは何の仕事してるの?」
「油を売ってる。さぼってるって意味じゃないよ」
「油商人ジョークね。……わたし、旅行が好きなの……海外行ったことある?」
「台湾とニューヨークに行ったことありますね」
「わたしはない」
「ないんかい」
 不意に女が口をつぐむ。男が振り返ると、女は懇願するような目で男を見てから口を開く。
「わたしの身体に油をかけて火をつけて」
 男は動揺して、「なぜ」と問う。女は続ける。
「この世のすべての不幸はわたし発信なの。わたしが死ねば不幸の種が消える。一人の犠牲で世界が救われるの。お願い」
 男は女を見つめて言う。
「俺は世界より目の前の愛する人間を優先する」
 表情から、女のハートに火がついたのがわかる。
 男が満足して前を向き、崖っぷちに来ていることに気づいたときにはもう手遅れ。男と女はロバとともに谷底に落ちていく。