早い。5年がたち、東北の方々が今どんな状況にいられるのか、テレビ等で知る機会も以前より少なくなりました。どんなに考えても、被災者でない私が、被災した方々の気持ちをわかることはできないと思うけれど、それでも決して忘れることなく、できることを考えて続けていきたいと思いました。
あの日は小学3年生で風邪を引き、熱を出して兄と兄の友達と家にいました。あの時は初めの揺れはたいした事ないも思ったけどその後大きな揺れががきてみんなと僕が寝ていたコタツに隠れました。あの時は何もかもが揺れて何が起こったのか分かりませんでした。今思うと本当にすごく大きな揺れで多くの人の命を奪った地震は起こって欲しくないと思います。
当時自分は小学校3年生だった。
自分が住んでいる岡山の北部の方は全然揺れも感じず、家に帰ってきてから地震が起こった事が分かった。あの時もそうだったけど、テレビで何度も流れる、津波の映像を見るたびに涙が出てきそうになっていた事を今でも鮮明に覚えている。あれから5年が過ぎたけど、今でも仮設住宅で生活している人がいる。確かに復興も進んでいるけど、まだまだ復興作業が追いついていない所もある。自分は募金などをして東北の人達を励ますしか出来ない。こんな自分の無力さに呆れている。
東北の皆さんの1日でも早い復興を願っています。
先ほど読み終わりました。最初は、「わ〜やった〜未来新聞更新された〜」と軽く思っていたのですが、いざ開いてみると、思っていたのと全然違い、とて
も辛くなりました。実は、ぼくの祖母や祖父も仙台市に住んでいます。地震の時は、千葉県にいましたが、千葉県にいてもその揺れはとてもすごかったので、福島、宮城、岩手の3県は特に揺れが強く、それに津波もきて千葉にいた僕以上に恐怖が止まらないと思っていて、ぼくが住んでいるところに地震や津波が来たら、ぼくはとても怖かっただろう、と思っています。その恐怖の状況でも逃げて助かったのは凄く誇らしい事だと思います。実際に津波を体験していないのに無責任な事を言ってすみません。これが未来新聞を読ませていただいた後のぼくの気持ちです。長文失礼しました。
当時小学校6年生で吹奏楽部の最後のお別れコンサート中でした。私がちょうど演奏している時、揺れを感じて後輩たちと一緒に重い楽器をもって校庭ににげました。楽しい雰囲気が一気に緊迫した雰囲気になって、泣いている子もいました。
先生は校庭にいけと大きい声で言っていて、もうみんな必死だったのを今でも覚えています。
でも落ち着いて家に帰ってテレビを見ると津波の映像が流れていて、すごい事が起こっていたんだと知りました。
辛い事だけど、当たり前の事を大切にして、未来に繋げていかないととともう
ラジオを聴いて、私も五年前の事を思い出しました。私は北海道にいたので津波などの被害は無かったものの、テレビをつければ被災地の事ばかりでした…多くの人が死亡・行方不明の事を聴いて胸が痛くなりました…私達皆が忘れてはいけないんだ!そう思いました。また、皆で助け合うことがとても大切なんだと思いました。
今1時間授業を聞いて自然災害って本当に怖いものだと改めて実感しました。
5年前はただテレビの前のニュースを見るしかなくて何も出来なくて津波の恐ろしさもわからなくて。
今でもほんとうの怖さはわからないけど「地震大国日本」で被災者になる可能性は誰にでもあるから他人事ではないと思いました。
最近「震災なんて関係ない」なんて言っている人を見かけた。
本当にそうかなと思う。確かに僕は生まれも育ちも北海道の札幌の近くだったためで震災の被害も全く受けなかった。でも揺れた記憶は残ってる。いつもの地震とは違う、気持ちの悪い揺れ。濁流が家、車、木や畑を飲み込んでいく光景を、ただテレビの前で立ち尽くして見ることしかできない無力感。震災発生後にはもう読まなくなった絵本を東北の方々に譲ったりもした。さらに今でも毎日ニュースになる原発問題・・・
これでも「関係ない」って言えるのかな。
実際北海道まで避難してきてる人もいるのに。今日すれ違った人が震災で傷を負った人かもしれないのに。
被害がなくても関係ないっていうのはやめようよ。
これは日本人全体の問題なんだから。
(この書き込みを見て気分を悪くさせてしまったらごめんなさい)
私は5年前の震災の時、中学一年生で卒業式のあとでしたね、友達と本屋の中にいました。
地震により本棚から本が落ちてきたり本棚が倒れたりととても怖かったですが、どうにか冷静を取り戻し外へ避難しました。その後は本屋の本を戻す手伝いをしてからすぐに帰りました。まさか東北で津波が起きているなんて知らなかったのですが、家に帰ってびっくりしました。ニュースを見て、どこの国の映像?って思ってしまったほどでした。
そんな当時のことを思い出しながら今日の話を聞いて
震災のこと忘れてはいけないと思った。
決して他人事だと思ってはいけない。
これから私にできることはほんの限られた小さなことでしかないけれども募金をしたりと少しでも役に立ちたいと改めて思った。
5年前の明日 3月11日 、地震があったとき
自分は小学校5年生でHRをしていました 。
地震が収まって その後に 委員会があったので各自の教室に移動しました 。
東京でもすごく揺れたしみんなパニックで 過呼吸になった人もいました。
私はたまたま ノートをとりに職員室に行った時、流れているテレビを見て衝撃をうけました。
津波の様子などがテレビで流れていて、とにかくアナウンサーの人が慌てていて その時にようやく「委員会やってるどころじゃないな」って事に気づきました。
委員会の教室に戻ってから友達に東北の状況を話して、ただひたすら怖いって思いながら委員会をやったのを覚えています。
あれから5年、わたしの周りでも 東北に対しての風評被害は多くありました。
でも、私は東北 .. いや、福島が好きだから 普通に行きつけの釣り場にも行ったし 少しでも復興になったらいいなって思いながら 行ってました。
明日は学校全員で 防災体験や黙祷などがあるので きちんと向き合いたいと思います。
さっきまで長い時間かけて文章書いてたんですが、一度全部消してまた書き直すことにします。
今日学校の道徳の授業で震災についてのビデオ見ました。
10分位の短いビデオでしたが、涙が止まりませんでした。
ビデオを見たあとに感想を書かなければならないプリントがありました。
でも一文字も書けませんでした。
毎年毎年この時期になると、テレビで特集されてたり色々してますよね。
いつもいつも見るのが辛くて目を背けていましたが、今日は最後までしっかり見ました。
少しでも震災にあった方々の気持ちを分かりたい。
そう思って見ていました。
でもそれって相当難しいですよね。言葉にするのは誰でもできることです。簡単なんです。
だから本当にわかることができるのは一生無理なんじゃないかと思います。自分が同じ経験をしない限り。
丸5年、私にとってはすごく短かった。
でも東北の人たちは?
苦しくて、辛くて、生きているのも憂鬱になったこともあったのかな?
5年なんて長すぎて思い出したくもないのかな?
わかんないけど、ほんの少しでもそんな暗い気持ちをを消すことくらいの力が自分たちにあるといいな。
というか遅いかもしれないけど、今からでもその力をつけて励ましていきたい。
最後に。
明日誕生日の人。5年前の明日ちょうどに生まれた子だっているはず。
もしかしたら、今はおめでとうって言えない状況にいる人だっているかもしれない。
今日が誕生日なんだって、胸を張って言えないかもしれない。
そんな人たちが、いつか同時に嫌なことを思い出さないで祝ってもらえるような日ができるだけ早く訪れますように。
頑張れと言う前に、私がここから頑張るから。
東日本大震災についてきちんと考えたのは今日が初めてだと思いました。中学校で学習したときは、ネットで調べ、とりあえず軽い感想を書いて自分は良いことをしたと思い込んでいました。でも今、同年代の本当の声を聞いて、申し訳なさでいっぱいになりました。自分は何も考えていませんでした。東北の人たちは本当に強い。もっとたくさんの声を聞きたいです。
まだ小学生だった僕。怖くて走って学校から帰り、家族みんなが無事だったことに安心しました。あの年の11月。被災地へのボランティアとして気仙沼市に伺いました。津波で海から何百メートルも内陸に運ばれてきた、マグロ漁船。沿岸の火災により、黒こげになっていた歩道橋。ほんとにこんなことがあったのかと信じられないような光景を見ました。それから4年半ほど経ちました。僕は高校3年生になろうとしています。もちろん、東北の同世代の人たちも同じように大人に近づいていってるんだと思います。5年目を迎えるにあたり、若者としての僕が見るべきだと思うのは、今見えてるものの先にあるもの。計画されている復興予定のその先にある日本の姿、原子力開発の未来。物理的なものだけでなく、例えば被災した方々と触れ合う機会があれば、その人だけでなく、その人の、さらにその先にいる誰かのこと。そうやって繋がっている人みんなの心の幸せこそが復興の証なのかと思います。易い言葉かもしれません。原発で作られていた電気を使っていた関東の人間です。特別な人を失ったわけでもないです。お前に何が分かるんだって言われるかもしれない。でも、東北の方々に分かってほしいのは、震災を通して日本中の国民が考え方を改めた始めたということ。それが行動として動くのは、もっと先で、僕たちの子供の世代かもしれない。それでも、僕は変わることを信じたい。そのためには、人が人を信じることが大切だと思うんです。辛くて誰も信じることができないような状況かもしれないけど、どこかの誰かを信じて生きていくしかないんだと思う。見えてるもののさらに向こう、声を届けた場所のさらに遠くの場所へ自分の思いを伝えることができる。このラジオを今日聴けて良かった。
3.11の話題だからずっとくらい感じかと思ったけど、なんか違う。下を向いているのは同じなんだけど、まえは、地面しか見えていなかったけど、今は、地面に色々な花が咲き乱れているような感じがする。
5年って速くも感じるし、長くも感じる。
僕は宮城だけど沿岸部のような大きな被害はなく、早い段階で前と同じような生活ができた。
そんな僕には 震災の日はとても昔にも思えるし、5年という年月は少ないようにも思える。
宮城に住んでるのに、震災の事は結構意識の外になってしまっている。
震災の話もあまり聞かなくなって、どんどん風化されて、忘れちゃいけないなんて言ってた僕らも忘れ始めて、
でも今でも元の生活ができなくて、それでも明るく生きている人がいるんだから、例え忘れないことが難しくても伝えていくことはやめてはいけないんじゃないかな。
今日は休みで何もなくて、何気なく友達とカラオケに行きました。昨日は学校行ってました。明日は部活です。こんな生活が物凄く幸せな事なんだなって思えます。
私のいた場所は震度5弱でしたが、私は学校で怖くて大泣きしてしました。家族は無事かなと思って、心配しました。私の家族は無事だったけれど、大切な人を亡くされた方もたくさんいる。亡くなった方と、一緒に生きる。きっと側にいて見守ってくれていると思います。私も精一杯生きていきたいと思います。
僕の好きな言葉にこんな言葉があります。「いつも当たり前に過ごしている今日は昨日誰が生きたいと願った今日」この言葉の意味を改めて気づか
されました。普段忘れかけている日々への感謝。今生きられていること感謝したいです。
こんばんは。未来新聞を読ませていただきましたが、第一に震災発生直後の悲惨な状況をとても辛く忘れたいだろうに伝えてくださった皆さんありがとうございます。
自分はとても現地に行けない場所に住んでいるのでテレビなどでしか被災地の現状を知ることができませんが被災地に住まれている方々にとってはテレビなどよりももっと悲惨な現状を今でも目の当たりにしているのでしょう。
原発が再稼働になってしまい福島の方々は政府に怒りを感じ、復興は思うように進まず被災者の方々の傷は決して癒えることは無いと思います。
自分は教員になりたいので東日本大震災を風化させないよう後世の子ども達にしっかりと伝えていこうと思います。
最後に、被災地の復興と被災者の心の復興が一日でも早くなされることを願っています。
現在中学3年生、5年前は、小学校4年生でした。当時、僕は学校にいましたが、地震が起きた時は休み時間で、僕は友達何人かだけで、特別教室にいて子どもだけだったのでかなり怖い思いをしました。まだ、当時は地震という言葉すら知りませんでした。揺れている時は、泣いていて家に帰りたいと叫んでいました。しかし、家に帰ると、もっと衝撃だったのが東北の被害です。テレビを見ていて、言葉が出てきませんでした。家や車が津波で流されているのを見て、衝撃的でした。僕は今、普通に生活していることは当たり前でないことを強く感じます。僕は、いつか東北に行って、復興支援を絶対にしたいと思っています。東北の方々に比べればその恐怖心は違うけれど、同じ震災にあった一人として、苦しんでいる人を早く助けてあげたいです。日本は3.11は絶対に忘れてはいけません。
5年前のことを思い出しました。
家に帰って見たいテレビを見ようとしたら、全てのチャンネルでニュースがあっていた。初めは何が起こっているか分からなかったけど、だんだん何が起きたのかわかってきた。
僕は現地に行ったことがないから現状はあまり分からないけど、今日、東北の生徒の話を聞いてずっと忘れてはいけないと思った。
当時小6で、夕方になってやっとTVで知った。
怖いなって思った。
でも、正直、他人事のように思ってた気がする。
毎年、未来新聞読んで、いろいろ感じるものがあって。
だけど、やっぱりその日が終わってしまうと、また忘れてしまっていた気がする。
いつまでもそんなんじゃダメだよ、私。
あのときはまだ何も知らない小学生だったかもしれないけど、もう高校生。
もう自分でいろいろ考えられるし行動できるはず。
あれからもう5年経つんですね。
初めてあの映像をテレビで見たとき、
本気で理解できませんでした。
ビルの3階くらいの場所を流れる水の様子を見て、
言葉が出てこなかったのを覚えてます。
そして、友達が被災地に研修に行った時の発表を聞きながら、改めて災害の酷さを知りました。
たくさんの人が亡くなって、たくさんのものを失って、たくさんの人が傷つきました。私が勝手に言っちゃいけないかもしれないけど、この地震は、みんながいろいろなことを考えるきっかけになったと思います。私も、この地震の後、周りのことについて考えたり関心を持つようになりました。今の私にできることは少ないけど、自分にできることをこれからもしていきたいと思います。
長々とすみません。
5年前、東日本大震災が起きた瞬間、僕は高校入試が終わって家で父とくつろいでいました。愛知にいるのにあれだけ身体が揺れた。もっと多くの人が、もっと大きな揺れに恐怖をしたはずで、すごく深刻なのに、今では報道も少なくなって、もう5年になるんだな。なんて思ってしまう瞬間があったりもします。この5年は、すごく長い。父が亡くなったり彼女が出来たり高校から大学へ進学したり、この5年で、本当にたくさんのことがありました。同じ長さの時間を、復興作業に費やしたり、辛い気持ちで過ごした人たちがいる。これからも、きっと。僕たちは絶対に忘れちゃいけない。手を取り合うことをやめてはいけない。僕たちは、生きなきゃいけない。と、強く、感じました。
とーやま校長やあしざわ教頭の声を通して、そしてホームページで、未来新聞の記事を読んでいます。自然と、涙。あの日のことは、私には到底わかることができません。想像しても、たぶんそれ以上のことなのだろうと思います。だけどあの日のこと、今のことを知ることができて良かったです。私は今まで、あの日のことから逃げて、知ろうとしませんでした。同じ日本人なのに。距離を置いて、他人事にしようとしていました。だけど、未来新聞は私にあの日に向き合うようにしてくれました。だから、これからは逃げない、ちゃんと向き合っていきます。書いてくださったみなさん、本当に本当にありがとう。
記事を読んでいて、毎日当たり前に過ごせていること、悩んで苦しむことができていること、ひとつひとつが奇跡なんだなって思いました。今日も1日元気に過ごせたこと、ありがとう。毎日生きられていること、ありがとう。
悩みは尽きないものだよね。だけど、悩めるというのは生きているからこそだと思うわけ。だから亡くなった方々の分まで頑張って生きましょう!!!頑張って悩み尽くす努力をして人生をより良くするように努力しよう!!!(もちろん俺も含めて。)
もう5年だけどまだ5年、5年もたったのにごみの処理とかは終わっていない。私に出来ることはないと思っていた。でも考えることはできる。そう思ったらだけど...うまく言葉にできない。でもみんなが考えればなにかしら行動はおこせるはず!そう思う気持ちがある。5年前はまだ小2、3くらいでなにもわからなくてCMがうっとうしかった。だけど今中1になって1日1日を大切にして友達、家族すべての人が大切とまた実感した。今心ガトッテもいたいでも前向きにかんがえてでもちゃんと現実も見なければいけないそう思う
安全圏のメディアは、あまりにも当事者の希望にそぐわない表現をしているのかもしれませんね。
いえ、メディアに限ったことではなく、僕たちのような個人も無神経に語っていた部分があったのかもしれない。
もっと言えば、僕がこんなことを書いていることさえ自己満足かもしれない。
もし僕の書き込みで不快な思いをされた方がいたらごめんなさい。
僕にはこのくらいのことしか思えないのです。部外者の正直な思いです。