私は原発のある所に住んでいます。
世間では、原発反対だの賛成だのいろいろな意見が飛び交っていますが、地元の方からするととても複雑なのです。
そもそも原発が立地する自治体には国などからの給付金が支給されます。
でも、もし仮に原発をなくしてしまうとこの給付金がなくなり、その自治体はかなりその給付金に頼っています。
自治体だけでなく、地元の経済はかなり原発の影響を受けています。
なので原発がなくなれば危機的な状況になるかもしれないです。
でも放射能漏れとか事故が怖いです。
生活しているところと原発が近いのでなんかあったら怖いです。
なので簡単に賛成や反対など言えない問題です。
あの時は小5だった。急に大きな地震が来て全てが止まったような気がした。山形だから大丈夫だって他人事だったけど停電も発生して恐怖だった
あの時火災、津波と様々な自然現象に見ているだけであった。そのあとの追悼式、黙祷では、自然に涙が出てきた。あの時の他人事だった自分を許せない
明日は絶対に忘れちゃならない日。ずっとこの先自分の子供ができたときに教えてあげて絶対記憶をとぎらせてはいけないと思う。
5年前のあの日、私は当時小学5年生。三学期最後の理科の授業を受けて理科室にいました。
友達が揺れに気づき、理科室のぶら下がった電球がブランコのように揺れ、窓がきしみ、経験したことのない恐怖が私たちを襲いました。
避難で外階段を走っていた時いつもはおちゃらけてるクラスのみんなのあんなに怯えた声は初めて聞きました。
校庭に出ても余震が続き友達のお父さんがみんなを送っていってくれました。
家に着くといつものテレビはやってなくてお母さんがケータイを握りしめて祖母と祖父に電話をかけていました。
電気でキッチンがなりたっていたのでお鍋用のガスコンロでスパゲティをお母さんが作り、薄暗い中で食べ、いつ避難してもいいように私服を着て電源の落ちたこたつに湯たんぽをいれ、そこでみんなで寝ました。目を覚ますとあれだけ非日常的な事が起こったのにまた朝がきました。
テレビをつけると私達が想像したこと以上の事が震源地の東北で起きていました。
福島では小学5年生には理解出来ないことが起こり、
岩手の方では「津波」が町を襲い、
日本で何が起こったのか理解はできませんでした。
あれから5年私は中学校を卒業しようとしています。
3月になるとテレビ番組はあの日の話になります。あれから5年復興は進んでいます。でもまだ。まだまだ。みんなが元通りになる事は不可能だとしても10年後20年後少しでも多い人が普通の幸せな生活が過ごせていたらと思います。
長文失礼しました
当たり前に生きている事が、こんなに幸せだなんて今まで思いませんでした。でも、震災が起きてからこの幸せを生きているだけでこんなに有難い事だと思うようになりました。たった一つの地震で1万人以上の命を奪ってしまった。でも、自然を憎まないで欲しいです。これからも我々人間は自然と共に暮らします。人間はずっと自然と共に生きていくのだから。
テレビなどのメディアでは風化させてはいけないって言ってるけど、被災者は忘れて欲しいことも忘れて欲しくない事もあるっていう真実を伝えるべきだと思います。そして思い出したかのように3月になるとその場その場だけの情報になっているのを感じます。 私はこういったことをSCHOOL OF LOCK!!の生徒のみなさんだけでも知っていて欲しいと思ったので投稿しました。
家族でも避難場所の確認とか非常用の食品とか今まで以上に備えて置くようになったな。
明日何があってもすぐ対応出来るように…。
私は5年前小6でした。授業を受けていた時急に揺れました。その時はすぐに揺れがおさまりました。家に帰ってニュースを見ると、車とか家が流されているのを見て、とても驚きました。今でも
覚えていて、思い出すだけで胸が苦しくなります。
私は絶対に3月11日を忘れません。忘れてはいけない日だと思います。
未来新聞読みました。
私の祖父母が福島に住んでいるので震災のことはただの他人事とは思えません。
今でも復興はまだまだすすんでいないのはこの目で見ています。
だから、小さいことでもいいから東北の復興のお手伝いがしたいです。
明日私の学校で最寄駅での募金活動のボランティアがあります。参加します。
夏休みには福島にボランティア行きます。
絶対です。これは決心です。
東北のみなさんの心の傷が少しでも癒えますように。そして復興が進みますように。
あの日から5年経ったけど、あの時は小5で学校は大掃除を始めて、机などの備品を廊下に出して教室の床にワックスを掛けようとしたら、あの大きな揺れに襲われ、校庭へ避難する時は恐怖で手が震えてた事を覚えています。
家に帰って、テレビを見たら津波の映像を見て、心が本当に痛くなり何も言えなかった事を覚えています。
5年経って思うけど、自分ではあっという間な5年でした。
これから10年、20年、経つに連れて、あの日の事を風化させない様にみんなでこれから生まれてくる子供達に震災の事を伝えていける様にしなければいけないと思いました。
今年で5年、あの日と同じ金曜日に3/11を迎えるのかと思うと何か複雑なものを感じます。
あの日は先輩を送り出す準備をして下校している最中でした。
あの瞬間のことは今でも思い出せる、生涯忘れることはないと思います。
自分は内陸にいて、生活する環境で重大な被害はありませんでしたが、体調が悪くなったり身体には不調が出る期間が長くありました。
今は体調も回復していますが映像、写真を見たりすると揺れを思い出すこともあります。
最近はTVでもこの時期に思い出したように震災の映像が流れていますが住んでいる人にしてみれば現在進行形の地元を知ってほしい、声を聞いてほしいと思うこともあると思います。
自分は今はまだできることは少ないかもしれないけれど、いつか、自分のできることで役に立てるようになりたいです。
この時期になると震災の特集が多くなります。地震や津波の映像が流れてたりします。
正直、こういう震災の特集は嫌です。やってほしくありません。
あの時の出来事、思い、苦しみを思い出したくないんです。
その時理科の授業だった。先生が「大きい地震はいきなり揺れるから大丈夫」と言っていた。私もそう思っていた。だけどその理念は数秒後に崩れた。今まで感じたことのない大きな揺れで、揺れそのものというより建物が軋む音が怖かった記憶がある。その音は未だに忘れられない。
ここ埼玉県もあの頃は震度5強で揺れました。かなり揺れたのですが、東北では震度8で揺れていたことにゾッとしました。その上、津波の映像を見て、街が流されていることに、とても現実のものとは思えずショックを受けました。
自分はその場に居なかったので、本当の怖さを知ることは出来なかったけど、その場にいた人達の痛みは分かるような気がします。
東北の全ての痛みに黙祷を捧げます。
あの日はちょうど小4の大好きだった図工の授業だったかな?あの時の自分は宮城の気仙沼に毎年の夏に釣りに行っていたから、小5になったらまた行くと友達と話をしていたはず。その時に日本を揺れが襲い、大好きだった気仙沼の街を飲み込む津波の映像を見て涙が止まらなかった…
みんなには、他人事と思わないで被災した人にむけて手を差し伸べてほしい。まだ復興には道半ばなんだ。東北に住む10代としてのお願いです
5年前、中1だった私は、先輩の卒業式に出た後、友達と遊んでいました。
14:46、今まで感じたことのない揺れが襲い、アスファルトが割れたり、お店の駐車場では揺れる車の中に赤ちゃんを抱きかかえたお母さんがいたり、鉄塔が揺れたり…正直、その時何を思っていたのかなんて覚えていません。ただ、感じたことのない驚きと恐怖を覚えたのは間違いないと思います。
それからしばらくは揺れていなくても揺れているように感じたり、実際に大きな余震が来たり。ほんとうにこわかったのを覚えています。
私は海からは離れたところに住んでいるので、津波の被害は受けていません。でもテレビで同じ福島の海岸が津波に襲われるのを何度も見て、唖然としていました。
私は将来、福島で地域行政に携わるのが夢です。どんな形で携われるのか分かりませんが、私は地元・福島のために働きたいです。
そのために四月から4年間、大学で学んできます。
がんばろう、福島。
がんばっぺ、福島。
がんばっぺ、日本。
僕は三重県に住んでて、今でもニュースを見る度に信じられない気がします。でもさっきのトレモロ聴いてて、今止まってた景色が動き出した気がしたんだよって。まだまだ大変だけど、少しでも動きだせるように力になりたいです。大人になっていくにつれてできる事はもっと増えていくはず。その時に役に立てるような人になりたい。
明日であの日から5年
とても早く感じる
僕はあの時中1で体育館で卒業式の片付けをしていた
群馬県でもとても強い揺れだった
今でもあの揺れを覚えてる
そしてこれからもあの日のことを忘れてはならない
私は、クラブチームでソフトボールをやっていました。
私達のクラブチームには、東北からきた子がいました。
自分の育った地を離れるのは、大変だったと思う。
でも、自分達と一緒に一生懸命プレーしてくれて、ほんとにソフトボールも上手でした。
ケンカをしたりしたこともあったけど、本当に明るく素敵な女の子でした。
高校は、県外へ行ってしまいます。
高校でも、ソフトボール、がんばってほしいです。
そして、3.11を忘れません。
絶対に。日本が一つになる。気持ちも。
この世代がこの世の中を変えていかなきゃいけない。大きい小さいじゃなくてやることが大事!
震災があったあの日あの時間は体育をしていて全く知らなかった。
富山県でも揺れたと後で知った。
ニュースでは変わり果てた街、津波に流される家、流れる車、逃げる人々…
映像を見ただけでは同じ日本で怒ってるとは思えなかった。
現実。
テレビでしか見れない世界だけど、やっぱり本当に起きていることだった。
小学6年生だった私たちは相談して募金を募ることにしました。
スーパー、地域の人、全校児童にたくさん呼びかけて少しでも力になれるように精一杯集めた。
あの日から5年。
きっとあまり体験をしていない人にとっては「もう5年」
大きな被害によって悩んだ方々にとっては「まだ5年」だろう。
今でも復興できていないところ、戻らない生活、心の傷……
たくさんの問題がある。
私には何ができるのだろうか。
私の小さな力で東北の明日は変わるだろうか。
明日は、必ず来るわけじゃないんだなと思った。
もしかしたら、明日大切な人を失うかもしれないし、家族を失うかもしれない。だから、今日を一生懸命に生きていきたいと思った。今ある環境に感謝すること。学校に行って、先生に会えて友達に会えて、そういう事が幸せなんだなって思った。あれから、5年なんだなと思った。とても、時の流れは速いと思った。力になりたい。
今を一生懸命に生きたい。失ってから、気づくことが多いなと自分でも感じるけど。全力で、自分に出来ることがあったら協力したい。正直、私は体験してないから、本当に気持ちは100%分からないかもしれない。それでも、私にでもできることがあったら、全力で取り組みたい。
僕はまだ6年生でした
あの日は卒業式の練習で早く学校を終わりいいとも!見ようと帰ったらテレビでは東北の地震の中継が放送していました。
福岡にいたのもあって、ぶっちゃけ他人事のように考えていましたが、同じ日本の仲間だという自覚を持ってからは募金をしたりなど微力ではありましたが、力を送りました、ですが復興はまだまだで、外交も大事だと思いますが、政府にもっともっと復興に力を入れて欲しいと思うし、税金の使い方をもっと考えて欲しい
あの時、自分は小六で、卒業制作を作ってました。いきなり大きな揺れ
男子は自分も含め、ジェットコースターの様だと笑っていましたが、プールから水が校庭に溢れて、その時ヤバイ、ということを悟りました
ニュースを見たら、東北での大きな津波によって家や人が流されてる映像を見て忘れられなくなりました
それからランドセルや、お金を寄付した
……あれから、どれだけのことが自分に出来たのだろう。まだ分からない
でも、自分に出来るのは忘れないこと、そうだと思った
あれから5年
震災や津波で亡くなった人達の御冥福を。そして未だ終わらない東北の復興が、1日も早く終わり、故郷に戻れるように、お祈りしています
長文、駄文、失礼しました
心の拠り所となる存在を失う悲しみはほんとどうにかできるものでもないし、前に進めるわけがないと思います。もし、また心の拠り所となる存在、安心できる生活っていうのが見つかったら大切にすればいいんです。自分の速度で。なぜ焦らないといけないんでしょう?
僕はあの日、小学6年生で学校にいました。あのときに体験した大きな揺れは今でも覚えています。そのとき僕は自分自身すごく怖かったし家族が心配で仕方なかったです。泣いている友達もいました。そのときのことを忘れてはいけない。体験した人が次の世代へ受け継いでいくことが大切だと思います。
5年前のあの日は小学五年生でした。私の学校の校舎は私達の目の前で傾き、ヒビが入り、壊れました。まだあの光景は忘れられません。避難した後教務主任の先生が「見てください。みんなが使っていた校舎は壊れました。でも誰一人もケガをせず避難できました。良かったです。」と言ったのを覚えています。校舎を取り壊す間、校庭にプレハブ校舎を立てて過ごしました。新校舎が出来るまで四年かかりました。東北の方々に比べたら被災なんて大層な言葉は使えないけどとても過ごしづらかったです。私達は校舎一つで済んだけど
被災地の人達はもっとツライと思うとクヨクヨすんなよと自分に思っていました。あれから五年。
早いような、遅いような
小さいころ中越地震を経験しました。
3、4歳だったのでうろ覚えですが、周りの大人が笑顔だったことと、とにかく協力を大事にしていたことは今でも思い出せます。日本は地震の多い国。3.11の出来事も他人事と思わずに、自分が出来ることやもし地震にあったらどうするべきか考えることが大事なんじゃないかな。
綺麗事じゃ生きていけないってのを思いしったな。
あの日からあまり笑わなくなったし。
皆口ばっかりだって思ってたし。
校長・教頭こんばんは。今夜もよろしくお願いします。
地震が起きるたびに「もしかしたら大きな地震が…」と考えるようになった。 忘れちゃいけない、あの日のこと。
東日本大地震から明日で5年。
TVなどたくさんのメディアでこのことが取り上げられています
しかし、皆さん忘れていませんか?
5年前の3月12日、長野県北部の栄村で大きな地震がありました。長野県北部地震です。
私は長野県に住んでいますが、県内のニュースでさえも今日になってやっと栄村の様子を放送していました
東北での大きな地震は風化してはならないと報道されることが多いです
もちろん、東北での地震やその被害は忘れてはならないことです
でも栄村の地震も忘れてはならないことだと思うのです
こんなにも風化されてしまうのか…同じ県内でもどれほど復興できているか知ることができないのか…悲しいです
皆さんにもぜひ、東北を思い出すと同時に栄村のことも思い出してほしいです。
東北も栄村も少しでも早く復興できるよう、私もできることをしていきたいと思います
私はその日学校で下校中の事でした。揺れはほとんど感じなかったのですが、家についてTVを見ると東北で大規模な地震が起きていた事を見て絶句したのを今でも鮮明に覚えてます。あれからは5年経った今でも完全に復興したとは言えないと思います
これからも完全復興目指して頑張れ東北!!
3月になった途端、テレビでも新聞でも東日本大震災のことを報道するのが不思議。3月だけ関心を向けてればいいの?
5年前、私は小6で震災を経験しました。その日はちょうど大掃除で友達が終わるのを待っていたときにあの大きい地震が来ました。あの日に友達を待っていなければ私は家に帰ろうとしている途中で大地震に遭い、今私は生きていなかったかもしれないと思うと偶然のめぐり合わせは本当に分からないものだなあと今でも感じています。生きたくても生きられなかった人の分まで頑張ろうと思えます。
東日本大震災から5年も経ったんですね。僕はあの時小2で帰りの会の途中でした、突然揺れ出して机の下に逃げ込みました。激しい揺れの中で見えたのは泣く友達とまるで木の枝のようにしなる電柱、教室、学校全体、周辺の建物がきしむ音。避難している時壁に入った大きなヒビを見てここは危ないと思いました。家に帰ると棚からは食器やガラス製のコップが割れて落ちていてスリッパでないと歩けませんでした。夜はとても寒く停電していたので真っ暗な部屋で寝て怖かったのを覚えています。
あの日から5年!
まだなにも終わってない!!
復興した部分、してない部分、報道されているのはいいところばかり!
細部にまで目を向ける姿勢を持って欲しい!
当時は中学校二年生で、六時間目が終わる間際で揺れがきたな。
皆でラジオを聴いてそれで被害の状況が分かった感じで。
0311、受験のテーマの書き込みの中すいません。
頭が痛いです……。風邪かインフルかも知れませんが、どなたか「これが効く!」というものがあればおねがいします。至急おねがいします。
明日は卒業式の指揮をやることになってるので、なんとしても行かなければ……
やっぱり早く寝ることですか?
中学の時か、まだ
あのとき自分は吹奏楽部で、その日も一日練習で合奏をしていたはず
滋賀ではそんなに大きく揺れなかったから、その時は全く気づかなかった
合奏に集中しきってたってのもある
それで家帰って郵便受け開いたら、夕刊の一面にでっかい見出しで「東北地方で大地震発生」って書いてあって
「なんやえらいことなっとる!」って家に飛び込んで、そしたら親が津波の映像テレビで見てて
嘘やろって思った
生中継の映像だったか覚えてないけど、走ってた軽トラが飲み込まれていくのとかそのまんま映ってて
これ日本で起こってることやん、他人事じゃないでこれって思ったのをよく覚えている
滋賀にもあるからなぁ、花折断層
他人事じゃすまんで、この話は
明日は卒業式です!
離任式は高校のオリエンテーションとかぶっていて出れないので、最後の登校日です。
絶対に成功させて、いい旅立ちがしたい!!
新掲示板になって半年経ってますが…引き継ぎしました。登録項目が変わってたりレス以外の機能が増えてたり新しい生徒さんがたくさんいたりで、すこし戸惑いもあるけど、またこうやって時々書き込ませてもらえたらと思います。
五年前の明日、小学六年生で、卒業式の練習をしていた。ちょうど退場の練習をするとき、体育館の舞台の幕が揺れた。体では揺れは感じられなかった。「たいしたことないか」って気持ちで家に帰ると、震災のニュースがやっていて、すぐ目に飛び込んできて、今でも1番記憶に残っている、泥水に浮かんだバス。あの時はやっぱり心の距離が遠すぎて「うっわ!こわっ」てぐらいにしか感じなかった。年も積み重なり毎年少しずつ心の距離が近づいて、今年も少しではあるが考えていた。みんなの書き込みを見て、現地にいた人や、被害を受けた人は何を思うだろう、その人たちと自分たちの違いは?自分は復興を願うことしか出来ないのだろうか。
出来るのは、被害を受けた人の気持ちを汲み取り、少しでも痛みを共有すること。
あの泥水に浮かんだバスの中の人は何を願っただろう。この5年間、考えたこともなかった。
3.11 あの日から5年という歳月が経とうとしている
私の友達も津波に流され亡くなっていていつもあの日が来るたびに友達の苦しいと言う声が聞こえてくる気がして涙をこぼす日。あんな思い私はもうしたくない、そういう意見もたくさん聞くけど自然が奮う恐怖は避けられない。
一刻も早く被災者が地元へ帰れる日を心待ちにしています。
そして亡くなった友達の墓参りにいつか行ってあげたいです。
Instagramに#itoshiki2016で動画を出しました。あの時のことを思い出しながら書いてて胸が苦しくなった。
当時小学5年生。何が起こったのかわからず、TVを見ながら自然と溢れ出た涙が止まらなくて、その時,自然の怖さを知った。怖さから、震災の事を考えたくもない、見たくもない、聞きたくもない。と避けてきたこともあった。でも、あれから5年経ち高校1年生になった私は、自然災害と向き合えるようになり、色んな感情を持つようになりました。自然災害の恐ろしさ。生命の大切さ。周りの人の優しさ、温かさ。大切な人が側にいることの大切さ。未だに進まない被災地の復興…。これからどうなっていくのかという不安…。
実際被災してないから、被災してない方々よりも不安や恐怖もないかもしれないけれど、これからもこの未曾有の大災害については後世に伝えていかないなと改めて思った。まだまだ進まない復興、問題が残りつづけている被災地のこれから、早くなんとかして欲しい。東北の皆さんが、またいつか愛する故郷へ帰れるようにしてあげて欲しい。
小学生の頃は、募金しかできなくて、中学,高校になっても出来ることはそれくらいしかない。でも、他にも出来ることはきっとあるあずだから、やれることを探して、東北のために何かしたい。支えていきたい。心からそう願います。
5年前の3月11日に亡くなられた方々、ご冥福申し上げます。そして、今なお被災地で大変な思いをされている方々に向けて、合掌します。
5年前亡くなられた方が生きたかった明日を私たちが全力で全身全霊で生きましょう。意志を受け継いで生きましょう。
前を向いて生きていきましょう。
そしたら、いつか、東北にも笑顔の花が咲くはずです。
まず、東北に住んでいる方々の話を聞かないと、常日頃考えているとはいえ何も言えない
被災者は何が欲しくて、何が要らなくて、どういう状況なのか、などいろいろ知りたい
そこから、自分の意見を再構築する
それが僕の今日の授業の意義
お願いします、現実を教えて下さい
校長! 乃木坂の14thシングルハルジオンが咲く頃を今日予約してきました(セブン)
でも、飛鳥ちゃんとななみんの写真がついてくるとはーーー❗️‼️
めっちゃ楽しみーーーーー笑笑笑笑笑笑
校長は予約しましたか?