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出席日数、逆電メーター

現在、さかた校長の出席日数245日、欠席日数1日
こもり教頭の出席日数239日(遅刻3日も含む)
欠席日数7日
在籍日数343日

今日のさかた校長とこもり教頭の逆電回数6回
さかた校長の総逆電回数691回
こもり教頭の総逆電回数676回
さかた校長の1日の平均逆電回数
2.82040816326回
こもり教頭の1日の平均逆電回数
2.82845188284回
1日の最多逆電回数15回(2020 4/22)

それでは、また明日〜

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忘れない。

今日のラジオを聞いて、10年前の生徒さん達の声そして10年後の今の生徒さん達の声を聞いて言葉を聞いて本当に考えさせられました。
人生で初めてこんなに震災と向き合ったかもしれません。
会いたいと思う人に会えること。当たり前のことじゃないと、改めて強く痛感しました。
そして東日本大震災という出来事を忘れず、そして未来に伝えていくことも私たちの使命なのではないかと思いました。
今日この授業に参加出来て本当に良かったです。
後悔しないように今を生きたい。

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企画書

授業名: 君の音を教えて。
内容: 君が好きな音、いつも聞く音、聞くと何かを思い出す音など、君の音を電話越しに伝えてもらう。
例えば……
・鉛筆削りの音を聞くと勉強したなぁって思います。
・コーラーを開ける音が世界一好きです!聞いて欲しいです。

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また明日

また明日という言葉を聞いてみんなに明日が来てほしいと思った

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ストレリチア。

正直、今日は聴こうか迷いました。
やっぱりなんかちょっと、どこか怖くて。
でも、聴いて良かったです。
校長教頭職員のみなさん、今日このような放送をしてくれてありがとうございました。

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中学2年生だった私。

あの日の私は山形県に住む中学2年生。体育館で卒業式練習をしていました。震度6強。恐怖。不安。泣いてる子もいました。家に帰ってテレビを見て、唖然としたことを覚えています。行ったことある街の信じられない様子がテレビに映っていて、信じたくなくて目を背けた。全然見れなかった。怖かった。子供だったこともあるけど、行動を起こすどころか、ただただ怖くて何も考えないようにしていました。
数ヶ月経ったある日、冬の日、ストーブの前で見ていたテレビで震災時に避難所でやっていたコミニティラジオのスタッフさんたちのドキュメンタリーをやっていました。あの日、被災者のために情報を発信していた人達も被災者だという当たり前のことに気付かされました。突然の震災、足りない情報、続く余震、不安に思いながらも、ラジオの向こう側の人達のために明るい声で優しく話しかける。裏で涙を流しながら電波に音を乗せる。避難所の人達に元気と勇気を与えるために放送していない時間もお話ししたり音楽をかけたりする。
私が怖くて目を背けていた時に、涙を堪えて勇気を振り絞って笑顔で明るく、周りの人々に、ラジオの向こうの人々に安心や日常を届け続けていた人々がいたことを知りました。それを私はぼんやりとだけど、目指す姿を見つけました。
今、私は大学を卒業して目指していた場所で社会人をしています。もうすぐ2年が経ちます。まだまだ目指す姿には程遠いです。でも、少しずつ、ひとつずつ、近づいていきたい。その気持ちだけは忘れず、変わらず、これからも生きていきたい。大好きなことを楽しみながら頑張る毎日を大切に過ごしていきたい。
これからも、ラジオと一緒にがんばる。

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さかた校長、こもり教頭、職員さんへ

今日もありがとうございました。2時間お疲れさまでした。私は、今日 先生の診察と検査受けてきました。病気が悪化してました。ほぼ 毎週 病院。また 検査があります。報告します。今、病気と戦ってる。治療がんばります。おやすみなさい。明日から5日バイト。無理しないでがんばります。さかた校長、こもり教頭、職員さんが大好き。ずっとsolの生徒でいます。メール読んでください。私の居場所。支え。よろしくお願いします。明日、話し聞いてほしい。初逆電ください。また明日 したっけね。

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3.11 あれから10年

涙の止まらない2時間でした。
今ある全てのことがあたりまえだと思わないように、精一杯全力で、一瞬も無駄にしないように生きていきます。
絶対に忘れない。ありがとうございました。

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3.11

10年前、私は4歳だったので、当時のことはよく覚えていません。ですが、もっと被災地の現状を知っておくことが大切だと思いました。少しでも早い復興を祈っています。

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つづく

10年が経っても、まだ震災は続いている。まだ行方不明の人がいる。完全に復興したわけではない。でも、確実に前に一歩ずつ踏み出している。

東日本だけではなくて、阪神・淡路の震災も、熊本地震もまだ終わったわけじゃない。

当たり前なんてすぐできて、すぐ壊れるもの。でも、わかっていてもそのありがたさに気づけないのが僕ら。だからこそ、この当たり前にある幸せに感謝しながら一日一日を生きていかなければならない。毎年春になるとそう思います。

感謝をしよう。し続けていこう。

また明日!

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今日の授業

3.11を東北地方で受けた生徒さんが今では大人になっていて。なんか、時の流れは早いというか、長いようで短いような気がしました。今日の話を聞いていて自分も辛くなりました。それでも、一歩ずつ進めているのがとてもすごい事だと思ったし、この出来事は後世に繋いでいくものだと思いました。私も1日1日を大切にして、毎日を過ごしていきたいです。
また明日〜

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また明日

おやすみなさい。
地震のことも今日あった生徒さんのことも絶対忘れない。

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またあしたーー!!

今日もありがとうございました!
10年前に逆電した生徒さんが今こうやって繋がれるって本当にSOLは繋がりのある学校だと思いました! 皆さんの声が明るくて安心しました
私の10年前は当時4歳なのであまり鮮明に覚えてませんが、やっぱり毎年ニュースを見てると自身の怖さ、津波の怖さ、自然災害の怖さを感じます
昨日まで普通に話していた友達や、家族が明日には会えないとなるともっと話しとけばよかったと思ってしまうなと感じました。 だからこそ今を大切に!当たり前を大切にしたいと今日の授業で思いました!
この日はこれから先も忘れてはいけない

明日もよろしくお願いします!
またあしたー!!

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おやすみなさい。

今日もありがとうございました。おやすみなさい。また明日。逆電出演者の公表はありません。(明日の掲示板にて)

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まだまだ続いていく

当時僕は小学二年生、習い事が毎週金曜日にあってそれまで学校の宿題をしていました。姉がインフルエンザにかかっていた事今でも強く覚えています。
僕の家はすぐ近くに港があって海には歩いて5分程度で行ける距離です。後になって知ったのですが水門にいた従業員の方々が門を閉めてくれてつなみを防いで下さったそうです。本当に感謝しかありません。
10年経って僕も大学生になります。あの時の怖かった思い、泣きそうになっていた気持ち、絶対に忘れません。僕がもっと歳をとっても必ず次の世代に伝えます。
節目じゃなくまだまだ続いていく。そう思います。

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10年前…

色々な話を聞いてきたけど、これを聞いていなければ気づけなかったことも多かったと思った。
怖いし辛いことだけど、大切なこと。この記憶を後世に伝えるべき理由が改めてわかった気がした。

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忘れてはいけない震災

私は10年前、小学校1年生でした。その時小学校にいて、テレビで東北のことをずっと放送していたのを覚えています。福井県にいて被害はなかったけど、夜に起きた地震で家が揺れました。それで気分が悪くなって、夜ご飯が喉を通りませんでした。その時の記憶はとても心に残っています。10年経った今でも忘れてはいません。東日本大震災のことを覚えていない子が多いのがとても悲しいです。10年前、日本で何があったのか、知らない人に知って欲しいです。私はこれからも忘れることは絶対にありません。ましては絶対に忘れてはいけないと思います。

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さかた校長、こもり教頭、職員さんへ

もう授業が終わる。早い。今日もいい授業ありがとうございました。最後の言葉 ぐっときました。ありがとうございます。また、この授業してください。2時間お疲れさまでした。明日もよろしくお願いします。また、明日 したっけね。

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まーたあーしたー!!

またあした!
今日はいい授業をありがとうございました!
おやすみなさい!

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また明日

また明日。
そして、明日もまた続く。
みんなとまたこの学校で会おう!

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震災から

震災のときはまだめっちゃ小さかったけど、少し記憶があります。
お昼寝の途中か後にトイレに行きたくなって、廊下をてくてく歩いてたら、突然床が揺れました。
相当怖かったのか、先生の腰にしがみつきながら大泣きしてました。
その日はたまたま親の都合がよく、すぐ迎えに来てくれたそうです。
でも、あの日、親の都合が悪いところに津波とかがきてたらって思うと、本当にぞっとします。
亡くなった方々のためにも、この命を精一杯生きようと思います。

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風化させない

あの日あの時を
風化させない
それができるのは、私たち10代なんじゃないかな
これから20年、30年、50年もしたら、原発も廃炉が完了して、復興は無事、できたなんて状況がみえるけど、どんなになっても、みんなで受け継いでいこう

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これからずっと続く

ずっと続いていく。
あの日の出来事を思った時に。

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もう10年

私は小2で妹は幼稚園だったなあ。私の家は埼玉で、被害も全然なかったけど、地震の後ひとりでトイレ行くのも怖かったから、東北の子達はもっともっと怖かっただろうし、何で私が?って思うこともたくさんあっただろうし、癒えない傷も負っただろう。今になってやっとそう思えるようになった。
自然はどうにもできないけど、被害はおさえられるように、そして後悔のない日々を過ごせるようにしよう。

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陸前高田市

僕が中学生の頃、僕が通っていた中学校では地元で作っているお菓子を詰め合わせて陸前高田市に送ったり、陸前高田市の特産品をとあるイベントで販売したりして交流をしていました。
今でも交流は続いていると思います。
この深い関係性が長く続けば良いなと思います。