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15年

東北の地震が起きた時、私は、22歳でした。
ボランティア活動をしている時に、突然とても強い地震でした。北海道でもとても強い揺れでした。
周りの人がびっくりして、テレビをつけたら、地震だけではなく津波、とてつもない被害の映像が流れました。今、現実に起きている世界なのかと怖いと思いました。東北の皆様の辛い気持ちに、少しでも寄り添える事ができます様にお祈りしています。

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あの日から15年

震災当時は中学2年生。
石巻に住んでいましたが市外の学校に通っていた為1ヶ月家には帰れず。

地震発生時、友達と一緒にパニックになった私たちを先生が声をかけてくれたことを今でもはっきり覚えています。

家族に会えず不安でいっぱいだった夜
カップ麺を友達4人で分け合ったこと
遠くから見えた火事や夜のラジオで聴いた被害状況
石巻に戻り見た景色15年経つ今でもはっきりと覚えています。

当たり前だった日常が、見慣れた景色が場所が一瞬で変わってしまうんだと子供ながらに感じました。

信じたくないことも受け入れないといけない。
みんな自分のことで精一杯のはずなのに
助け合おう進んでいこうと協力して前に進もうとしていました。

絶対に忘れてはいけない。
伝えていかないといけない出来事だと思います。

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災害復興応援チャリティーイベント

自分は、和太鼓を習っていました。
毎年、災害復興応援チャリティーイベントを開催しています。
9月敬老の日には被災地への慰問活動も行っています。

自分は、東北への、訪問は行けなかったけど、3.11や阪神・淡路大震災の話をよく聞きました。他には、熊本豪雨、能登半島地震 。など、被災した地方を訪れて支援物資を持って行って、炊き出しや、瓦礫とかの掃除?を行っていました。被災地訪問をして、和太鼓を演奏したりと。被災地に訪れた先輩方は、和太鼓を一緒に叩いたりと少しでも、笑顔を見れたのが本当に嬉しかったと言っていました。 災害が多い日本。忘れてはいけない。

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東日本大震災

当時は、小学2年生で帰りの会の途中で地震が来ました。帰宅するとテレビや報道で津波によって街ごと壊されていく映像が流れていました。
震災から7年後、高校生の時に気仙沼に震災学習へ行きました。まだ整備されていない道路や荒々しく削られたままの校舎、裏山には教室用の時計が落ちていたのを覚えています。そして、昨年夏にまた同じ場所へ訪れました。道路は補正されてガードレールがあり、校舎のあった場所は記念館となっていました。
時を経て、少し思い出すのに時間を要するほどに環境や施設は綺麗に作られていましたが、現地の方のお話を聞くと鮮明に呼び起こされました。今日の授業テーマを受けて、伝え続けていくことは大切だなと改めて思いました。

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あの日から今日で15年

校長教頭こんばんは。震災当時の話。悲しくなりそうで書き込みたくなかったけど、目を通してくれると信じて書き込みしたいと思います。
あの日、自分は中学三年生で、卒業式を終えた頃でした。部屋で無くしたものを探してた時。いきなり大きな揺れを感じ、咄嗟に部屋のクローゼットへ。その後揺れが収まって家族の安否が確認できた直後に原発が爆発のニュース。高校に入学するまで余震と放射能に怯えながら家族一緒のスペースで生活してました。その時の心の拠り所はラジオでした。アナウンサーの声やみんなが知ってる楽曲で何回励まされたか分かりません。その後月日がたって、浜通りや宮城の沿岸部に行くことがあったのですが、当時の惨状を忘れることはありません。

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15年

東日本大震災から15年。
ニュースで見たあの光景が現実で起きているとは思えませんでした。怖かったです。でも、被災された方々は自分の想像以上に怖い思いをされたと思います。
自分の住んでいる地域でも、いつ大きな地震が起きてもおかしくないと言われています。命を守るために何をしなければならないか、改めて考えなければいけないと、今日感じました。
被災された皆様には心よりご冥福をお祈りいたします。

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あの日から15年

高校生の時以来なので16年ぶりくらいの投稿です。

3/11の震災当時は宮城の大学に通う大学1年生でした。震災当日は春休み中で、旅行に出ていました。東北にいた家族に携帯電話で連絡が取れず、公衆電話なら通じやすいという迷信を信じて、公衆電話の上にたくさんの10円玉を積み上げて電話していたことを覚えています。

あれから15年、大学を卒業して、飽きっぽい性格なのに同じ仕事を10年以上続けて、結婚して、子供も出来てと、震災当時は想像も出来なかった日々を送っています。

色々大変なことも多いですが、一歩一歩前に進んで行った先に、よい未来が待っていると信じて、これからも歩き続けたいと思います。

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3.11

私は、2011年の時幼稚園生でした。
幼稚園から帰り、その日は、母が体調を崩しておりソファで寝ていた時、『なんか揺れてる。』と言っていたのでテレビをつけました。そしたらその時にはもう津波の映像が流れていました。家屋や、車、船を飲み込もうとする瞬間でした。その一連の流れが頭をループします。
その頃は、小さかったけれど衝撃的な映像だったので覚えています。
私は4月から社会人になり、地域の方々やその土地に住んでいる方たちと接する仕事に就くのでその方達の事を考え、仕事をし行動していきたいです。

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記憶

当時の怖さを、
記憶を、
常日頃感じているわけではありません。
でもそれは、
わたしが当たり前に過ごせる日々が戻ってきつつあるからなんだと思います。

でもだからといって、
当時の出来事を風化させてはいけない。
美談のように語ってはいけないのだと、
実際に被災した岩手県釜石市の方から聞きました。

また大きな地震は、
本当にいつ起こるかわかりません。
毎年3月11日になると、
当時のニュースがずっとテレビで流れていて、
その怖さとうまく向き合えていない自分がどこかにいます。

どうしても目の前で起こったとは思えない現実に、
目を背けたくなってしまう自分が、
嫌なことから逃げているようで自分を好きになれません。
私自身は津波を経験していないはずなのに、
当時の津波の映像を見ると過呼吸気味になったり、
泣きたくなったりしてしまいます。

もっと東日本大地震と、
自分の記憶と向き合えるようになりたいです。
ずっと忘れないために。
被災した方々へ祈りを捧げながら、
日々歩いていきます。

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東日本大震災から15年

校長、教頭、はじめまして。奥さんが学生時代に聴いていた影響で、結婚した去年から密かに登校している「大人生徒」です。
「震災を経験した20代、30代の生徒からも」ということで、初書き込みさせていただきます。

当時は神奈川住みの中1。学年末試験もあと1日。いつもより早く帰宅し、録画していた番組を見ていたところ、急にテレビの画面が消えました。
直後、経験したことのない揺れが襲い、立つこともできませんでした。
慌ててラジオをつけると、大津波警報を知らせるチャイムの音、そして緊迫したアナウンサーの声。とんでもないことが起こってしまった、と察した瞬間でした。
停電とともに、うちのマンションは断水。母とともに、小5だった弟を迎えに行った後、小学校へ近所の公園に水を汲み、それを沸かしてペットボトルに詰めてこたつの中へ。
深夜に復旧するまで、ろうそくを灯しながらなんとか暖を取り、乗り切りました。
後日の報道によると、神奈川県は宮城県に次いで停電件数が多かったそうです。
そして、仕事に行っていた父は帰宅困難者となり、会社で一夜を明かし、帰ってきたのは翌日の夕方でした。

テスト最終日は中止となり、終業式まで実質休校。ずっと流れていた震災報道に、恐れおののく日々。
さらに、計画停電で数日おきに数時間、電気が使えなくなったり、あらゆる物資が品薄になってまとめ買いに行ったり…と、神奈川での影響も大きかったです。
そのなかでも、明るい音楽を流したり、立ち向かう被災者の様子を教えてくれたりと、ラジオは心の味方でした。

そんな経験から、神奈川出身・東京在住の自分も、今日という日に特別な想いを抱いています。
東北とはちょっと違いますが、首都圏では当時こんなだったよ、というのを10代のみんなに伝えたいです。