3.11の震災の授業ありがとうございました。
私は当時祖父の家に姉と一緒に居て、姉は祖父とお手洗いに行っていて、私は部屋で1人でした
あの日の記憶はあまり覚えていないけれど、立っていられないほどの大きな揺れが来たことぐらいしか覚えていません。
あの日の天候とかは覚えていないけど、すっごく怖かったのを覚えています
私はパニックになりやすい性格のため、昨年の12月の青森沖の地震で、スマホから緊急地震速報が鳴ったときはほんとにパニックになってしまってどうしよどうしよ!?となってしまい大変でした
自然災害は完全に防ぐことはできないけど、被害を最小限に抑えることはできると思っています
そのために普段から防災グッズの準備や、避難経路などを確認しておきたいです
改めてSOLは居場所なんだなあと感じることができた2時間でした
明日もよろしくお願いします
また明日。
この日を、
この時間を、
忘れてはいけないのだと思います。
歴代の校長と教頭の声をたどり、
当時の記憶に触れるこの時間を大切にしていきます。
こもり校長、
アンジー教頭、
生徒さん、
職員さん、
今夜も向き合う時間をくれて本当にありがとうございました。
こもり校長の、
「違う場所で生徒を想う」
という言葉にそばで見守ってくれているぬくもりを感じました。
この言葉を大切に、
胸に抱きしめながら歩いていきます。
明日もまた登校します!
おやすみなさい、
また明日!
3.11の日って私は山口で6歳で、直接被害に遭ってるわけでもなくて、正直あまりピンと来ずに分かりきらずに生きてきたから、話を聞いたりしてなんとも言えない気持ちにはなるんだけど、私が何かを言う資格はないんじゃないかと思って、言葉を並べても軽く感じて、SOLで聞いても何も投稿とかしなかったんです。けどこうやって今日、一重に東日本大震災の話って言っても、ふなをさんが歴代校長教頭を跨いだように時って流れていくって、一人一人に人生があるって、改めて感じました。これが風化しないようにと、遅いかもだけど初めて本気で思いました。ここからまた1年、また1年、未来に続けていけたらと思います。
2015年9月1日に宮城県仙台空港近くにある千年希望の丘に行きました
2012年頃にこの番組で紹介されてました
住宅街が公園に変わったことが信じられなかったです
津波10m地点に丘や震災の記念碑が置いてありました
曇りと防災の日と重なり寂しさをより感じました
いつかの震災特番で見守ること生き続けることが未来に繋がると話してたけど、伝える上で大事だと思います
東日本大震災以降のこの15年間でも、数々の災害が発生しており、まず来月で10年の節目となる熊本地震、そして2021年と2022年に東北を襲った震度6強の地震、2024年に発生した能登半島地震、そして2025年12月に発生した青森県東方沖地震などと、数々の災害が立て続けに起きています。
15年経ったとしても、東日本大震災での教訓を忘れずに今後の防災意識を高める上での大切な記憶材料になるので、自分の命を守るために毎日少しでもいざという時の行動を確認しておくべきであると自分は思います。
15年前の今日、私は1歳くらいで、プラス長野県に住んでいるため全く覚えていませんが、母から聞いたことを書き込みます。
当時、母は草取りをしていたそうです。すると、私の泣き声が聞こえ、慌てて戻ったときに東北で地震が起こり、長野県も揺れたそうです。テレビでは地震や津波の被害の映像が流れていて、恐怖を感じた、と言っていました。
今日、ふと思い立って調べてみると、まだ行方不明の人や、亡くなった方がたくさんいることを知りました。
自分の中で、「これは絶対風化させちゃだめだ」と感じました。亡くなった方のご遺族に、心からご冥福をお祈りします。
当時の私は中学校の卒業式終わりで、兵庫県の自宅で家族で団欒中でした。「卒業おめでとう」「来月から高校生やな」「まだ今月末までは中学生やわ」などとたわいのない話をしていました。
突如とても長くゆっくりとした揺れがあり、乗り物に乗って酔った時のような気持ち悪さが続きました。テレビのテロップの情報や酷く揺れている映像などを見て動悸が凄かったのを30歳になる今でも覚えています。
震源地から兵庫まで離れていてもこんなに揺れるなんて…と地震の恐怖がグッと身近に来た感覚がありました。
約2年後に福島県の郡山市へ行く機会があり、マイクロバスでの移動中に復興が間に合っていない瓦礫の山やアスファルトの割れを目にしてとても心が痛かったのも覚えています。
震災後からテレビもラジオも震災の情報で溢れかえっていましたが、SOLでは地震速報や緊急特番も挟みつつ普段のSOLを届けてくださったのがとても嬉しかったです。
あれから15年も経ったのかと思う事が殆どになりましたが、昨日の事のように思い出す時もあります。今の私にできることは、防災グッズの見直し、ハザードマップの確認、緊急時どうするかの話し合いかなと思います。
福岡県なので被災地から離れてはいますが、あの日のことは覚えています。
僕は当時、幼稚園の年長で、祖母の家に帰ってテレビを観ていました。そのとき突然、全チャンネルが地震と津波の映像やニュースに切り替わったのを覚えています。それは初めて、「地震」と「津波」を知った瞬間でした。
今日もテレビや新聞で、関連するニュースや記事を観て、改めて、今生きていることは当たり前ではないと思いました。
掲示板を見て、当時もこのSOL!の存在が、本当に多くの人たちの心のよりどころになっていて、これからも変わらず存在してくれるのだろうと思いました。
自分にできることに取り組んで、与えられた命に感謝して、これからも生きていきます。
校長、教頭逆電ありがとうございました。
今日言ったことをいつか実現させます。
避難する子どもたちから高齢者の方々までの幅広い世代の人たちに安心してもらえるように頑張ります。
3.11、今日のニュースとかで体験された方とかのお話を聞いた後にこの曲を聞くと、涙が出てきます。
GLAY/君にあえたら
Bible
今日LINEとかヤフーで3.11と検索すると10円寄付できるみたいなので、まだの方はやってみてください。
今日東北の方のお話を聞いて、それを下の世代に伝えていきたいです。
私は当時小学2年生でした。
教室の窓が割れるそうなぐらい揺れて恐怖だった事を覚えています。
教室中恐怖で泣いている人が大勢いました。
体育館に避難し親が迎えに来ました。
私には兄弟がおり3月で卒業式でしたが学校の体育は避難所となり別の小さな町の施設を借り卒業式をしたそうです。思えば卒業式をする為に先生方が大変な思いをしながら準備して頂いていた事に感謝でしかないです。
校長、教頭こんばんは。
掲示板へ書き込みをするのは10年ぶりくらいになります。
当時の私は小学5年生でした。あと1ヶ月で学年もかわり、福島県への修学旅行を楽しみにしていたころ地震が起こりました。すぐにお家へ帰ってテレビをつけるとそこには衝撃的な映像が映っていました。今でも忘れられません。
あれから月日が経ち15年。私も結婚し1児の母になりました。東日本大震災のことは忘れてはいけないことで、娘にも伝えていかないといけないことだと思っています。
命の大切さを改めて考える日になりました。
人生一度きり、今を大切に生きていきたいと思います。
校長、教頭、初めまして。
今日で15年、当時21歳でした。関西在住でしたが、今でも当時のことをよく覚えています。
バイト前のニュースを見て、衝撃を受け、東北住みの友人の安否確認を祈りながらしたこと、何度も余震が続いていた地震速報を覚えています。
震災地の方々を思うと、眠れない日々が続くのですが、高校生で卒業したスクールオブロックを久しぶりに当時聞いて、被災された皆さんのお話を聞いて(印象に残っているのは、募っていた支援物資のお話で、バスケ部の生徒さんが、バッシュが欲しいと仰っていたことを思い出します)、出来ることをやろうと思ったこと、今でもすごく覚えています。
時は流れていきますが、あの日のことを、私は忘れません。
尊い命のご冥福をお祈り申し上げます。
わたしは東日本大震災で、
身近な人を亡くしました。
当時、
震災が起こる前にきいていたうたをきくと、
当時の本当に数少ない記憶が蘇ってきます。
そのうたは、
今でもわたしの大切なうたです。
合唱部でうたったこともあるうたで、
わたしにとっては音楽への入り口のようなうたです。
そのうたをきいていると、
そのひととずっとつながっていられるような気がします。
ずっとお守りのようなうたです。
大切にだきしめて、
歩いていきたいです。
15年前の今日、自分は3歳くらいでした。埼玉も結構揺れたと聞いて、自分の記憶は曖昧だけど、多くの人が犠牲になり、自然の理不尽さを実感したのは事実です。
今日、3年生を送る会が開催され、みんなが盛り上がって、楽しい時間を共有しました。でも、2時46分が近づくにつれ、この楽しんでいる時間は当たり前じゃないんだと1人心の中で思っていました。
その時、同じクラスの人とか、周りの友達とか、震災のことを意識したり、考えたりしてる人はどれくらいいるんだろうと思いました。周りのみんな記憶が曖昧な人も多いから、いつも通り過ごしていると震災のことをどこか他人事として考えてしまっていると思います。記憶が曖昧だからと言って忘れていいわけでは絶対ないです。これから先震災を経験した人が減っていくからこそ、あの日のことを語り継いでいく必要があると思いました。
校長・教頭はじめまして。
あの日から、15年... 長かったようで短かったような...
私は現在北海道に住んでいますが、
当時の私は、まだ生まれてなかったけれど、その年に生まれました。
毎年この日にテレビで東日本大震災のことを放送しているのを見ていると、想像しただけで心が痛くなって辛い。
そして今でも、自分の家に帰れていなくて苦しんでいる人が2万人以上いるという現状があるということやこのこと全てを風化させてはいけないことを15年たった今でも改めて感じされられます。
東日本大震災からもう15年。でも、まだ15年。 震災を経験し生きた大人の私が伝えたいこと。『明日が来ることは、決して当たり前ではない』と言う事です。 だからこそ、今日を精一杯生きる。伝えたい思いは伝える。会いたいひとには会う。
普通で何もない日常が、本当は1番幸せなんだと感じてほしいです。
東日本大震災から15年。
自分は当時小学6年生でした。
卒業式を直前には控え、6年間通った学校に感謝を込めて大掃除をしている時間でした。
校庭に避難し、揺れが収まったあと荷物を取りに教室に戻る最中、図書室の前を通ったのですがふと目を向けると、人の力では動かない本棚が全て倒れ、地震の怖さを実感しました。
当時は停電で電気が使えず、唯一の情報源はラジオでした。よく地元のコミュニティ放送局を聞いていたので、ラジオをつけるといつも聞いているパーソナリティさんの声に安心しました。
3〜4日で電気が復旧し、当初はできるかわからなかった卒業式を学校の先生方・PTAの方々のご協力により、開催していただきありがたかったです。
毎年。3月11日になると心がザワザワし、落ち着かなくなります。
東北の地震が起きた時、私は、22歳でした。
ボランティア活動をしている時に、突然とても強い地震でした。北海道でもとても強い揺れでした。
周りの人がびっくりして、テレビをつけたら、地震だけではなく津波、とてつもない被害の映像が流れました。今、現実に起きている世界なのかと怖いと思いました。東北の皆様の辛い気持ちに、少しでも寄り添える事ができます様にお祈りしています。
震災当時は中学2年生。
石巻に住んでいましたが市外の学校に通っていた為1ヶ月家には帰れず。
地震発生時、友達と一緒にパニックになった私たちを先生が声をかけてくれたことを今でもはっきり覚えています。
家族に会えず不安でいっぱいだった夜
カップ麺を友達4人で分け合ったこと
遠くから見えた火事や夜のラジオで聴いた被害状況
石巻に戻り見た景色15年経つ今でもはっきりと覚えています。
当たり前だった日常が、見慣れた景色が場所が一瞬で変わってしまうんだと子供ながらに感じました。
信じたくないことも受け入れないといけない。
みんな自分のことで精一杯のはずなのに
助け合おう進んでいこうと協力して前に進もうとしていました。
絶対に忘れてはいけない。
伝えていかないといけない出来事だと思います。
自分は、和太鼓を習っていました。
毎年、災害復興応援チャリティーイベントを開催しています。
9月敬老の日には被災地への慰問活動も行っています。
自分は、東北への、訪問は行けなかったけど、3.11や阪神・淡路大震災の話をよく聞きました。他には、熊本豪雨、能登半島地震 。など、被災した地方を訪れて支援物資を持って行って、炊き出しや、瓦礫とかの掃除?を行っていました。被災地訪問をして、和太鼓を演奏したりと。被災地に訪れた先輩方は、和太鼓を一緒に叩いたりと少しでも、笑顔を見れたのが本当に嬉しかったと言っていました。 災害が多い日本。忘れてはいけない。
当時は、小学2年生で帰りの会の途中で地震が来ました。帰宅するとテレビや報道で津波によって街ごと壊されていく映像が流れていました。
震災から7年後、高校生の時に気仙沼に震災学習へ行きました。まだ整備されていない道路や荒々しく削られたままの校舎、裏山には教室用の時計が落ちていたのを覚えています。そして、昨年夏にまた同じ場所へ訪れました。道路は補正されてガードレールがあり、校舎のあった場所は記念館となっていました。
時を経て、少し思い出すのに時間を要するほどに環境や施設は綺麗に作られていましたが、現地の方のお話を聞くと鮮明に呼び起こされました。今日の授業テーマを受けて、伝え続けていくことは大切だなと改めて思いました。
校長教頭こんばんは。震災当時の話。悲しくなりそうで書き込みたくなかったけど、目を通してくれると信じて書き込みしたいと思います。
あの日、自分は中学三年生で、卒業式を終えた頃でした。部屋で無くしたものを探してた時。いきなり大きな揺れを感じ、咄嗟に部屋のクローゼットへ。その後揺れが収まって家族の安否が確認できた直後に原発が爆発のニュース。高校に入学するまで余震と放射能に怯えながら家族一緒のスペースで生活してました。その時の心の拠り所はラジオでした。アナウンサーの声やみんなが知ってる楽曲で何回励まされたか分かりません。その後月日がたって、浜通りや宮城の沿岸部に行くことがあったのですが、当時の惨状を忘れることはありません。
東日本大震災から15年。
ニュースで見たあの光景が現実で起きているとは思えませんでした。怖かったです。でも、被災された方々は自分の想像以上に怖い思いをされたと思います。
自分の住んでいる地域でも、いつ大きな地震が起きてもおかしくないと言われています。命を守るために何をしなければならないか、改めて考えなければいけないと、今日感じました。
被災された皆様には心よりご冥福をお祈りいたします。
高校生の時以来なので16年ぶりくらいの投稿です。
3/11の震災当時は宮城の大学に通う大学1年生でした。震災当日は春休み中で、旅行に出ていました。東北にいた家族に携帯電話で連絡が取れず、公衆電話なら通じやすいという迷信を信じて、公衆電話の上にたくさんの10円玉を積み上げて電話していたことを覚えています。
あれから15年、大学を卒業して、飽きっぽい性格なのに同じ仕事を10年以上続けて、結婚して、子供も出来てと、震災当時は想像も出来なかった日々を送っています。
色々大変なことも多いですが、一歩一歩前に進んで行った先に、よい未来が待っていると信じて、これからも歩き続けたいと思います。
私は、2011年の時幼稚園生でした。
幼稚園から帰り、その日は、母が体調を崩しておりソファで寝ていた時、『なんか揺れてる。』と言っていたのでテレビをつけました。そしたらその時にはもう津波の映像が流れていました。家屋や、車、船を飲み込もうとする瞬間でした。その一連の流れが頭をループします。
その頃は、小さかったけれど衝撃的な映像だったので覚えています。
私は4月から社会人になり、地域の方々やその土地に住んでいる方たちと接する仕事に就くのでその方達の事を考え、仕事をし行動していきたいです。
当時の怖さを、
記憶を、
常日頃感じているわけではありません。
でもそれは、
わたしが当たり前に過ごせる日々が戻ってきつつあるからなんだと思います。
でもだからといって、
当時の出来事を風化させてはいけない。
美談のように語ってはいけないのだと、
実際に被災した岩手県釜石市の方から聞きました。
また大きな地震は、
本当にいつ起こるかわかりません。
毎年3月11日になると、
当時のニュースがずっとテレビで流れていて、
その怖さとうまく向き合えていない自分がどこかにいます。
どうしても目の前で起こったとは思えない現実に、
目を背けたくなってしまう自分が、
嫌なことから逃げているようで自分を好きになれません。
私自身は津波を経験していないはずなのに、
当時の津波の映像を見ると過呼吸気味になったり、
泣きたくなったりしてしまいます。
もっと東日本大地震と、
自分の記憶と向き合えるようになりたいです。
ずっと忘れないために。
被災した方々へ祈りを捧げながら、
日々歩いていきます。
校長、教頭、はじめまして。奥さんが学生時代に聴いていた影響で、結婚した去年から密かに登校している「大人生徒」です。
「震災を経験した20代、30代の生徒からも」ということで、初書き込みさせていただきます。
当時は神奈川住みの中1。学年末試験もあと1日。いつもより早く帰宅し、録画していた番組を見ていたところ、急にテレビの画面が消えました。
直後、経験したことのない揺れが襲い、立つこともできませんでした。
慌ててラジオをつけると、大津波警報を知らせるチャイムの音、そして緊迫したアナウンサーの声。とんでもないことが起こってしまった、と察した瞬間でした。
停電とともに、うちのマンションは断水。母とともに、小5だった弟を迎えに行った後、小学校へ近所の公園に水を汲み、それを沸かしてペットボトルに詰めてこたつの中へ。
深夜に復旧するまで、ろうそくを灯しながらなんとか暖を取り、乗り切りました。
後日の報道によると、神奈川県は宮城県に次いで停電件数が多かったそうです。
そして、仕事に行っていた父は帰宅困難者となり、会社で一夜を明かし、帰ってきたのは翌日の夕方でした。
テスト最終日は中止となり、終業式まで実質休校。ずっと流れていた震災報道に、恐れおののく日々。
さらに、計画停電で数日おきに数時間、電気が使えなくなったり、あらゆる物資が品薄になってまとめ買いに行ったり…と、神奈川での影響も大きかったです。
そのなかでも、明るい音楽を流したり、立ち向かう被災者の様子を教えてくれたりと、ラジオは心の味方でした。
そんな経験から、神奈川出身・東京在住の自分も、今日という日に特別な想いを抱いています。
東北とはちょっと違いますが、首都圏では当時こんなだったよ、というのを10代のみんなに伝えたいです。
今日は東日本大震災の日です。
もし、地震おきたとき、生徒のあなたはどんな行動をとりますか?
僕は小さかったけど、揺れた後で、津波の映像がテレビに流れていたのは覚えています。愛知県の自宅にいましたが、めまいのような揺れがしました。
みなさんより、年上で東北とは関係ない場所に住んでいますが汗書き込みさせていただきました。
15年前、私は、高校2年生でした。学年末考査で早く自宅に帰りテレビを付けて見ていたところ「地震で大きく揺れています。」と聞こえてきて初めては、「大きい地震があったんだ」ぐらいにしか思っていませんでした。しかし、テレビから流れてくる映像を見るたびに「本当にこれは日本で起きている事なのか?」と福岡に住んでいる私は、揺れも被害もなかったので、そう思ってしまいました。
しかし、スクールオブロックのおかげで考え方が変わりました。
それは、震災後初めての放送で当時のやしろ教頭の言葉でした。
その日の最後の放送でやしろ教頭が「言わないとそのまま一度も思わないかもしれないからあえて言いたいんですけど、一緒に今まで過ごして来た生徒が多分死んでしまって、「僕は死んでしまいました」とその子達は掲示板には書き込めないからみんなずっと覚えてろとは言わないけれど夜が来たらたまにでもいいから思い浮かべてほしい」という言葉に一緒にこの学校に夜10時から12時まで同じ時間過ごしてきた生徒の子がもしかしたらと考えると震災を身近に感じられるようになりスクールオブロックがきっかけで震災に対しての考え方も変わりました。
スクールオブロックを聴いて聴いていなければきっと考え方は変わっていなかったかもしれないと思います。 長くなってしまいすみません
こんばんは。学校掲示板に書き込みをするのは約10年ぶりくらいかもしれません。
震災が発生した当時は中学2年生、着の身着のままで自宅から家族と車に乗り避難することになりましたが、その際に地震でめちゃくちゃになった自分の部屋から愛用していたiPodだけ見つけ出して避難しました。
家族も仙台にある自宅も無事でしたが、2週間程は車中泊をしていました。街頭は灯っておらず、何度も繰り返す余震にビクビクしながら車の中で過ごす夜はとても不安で、その不安を紛らわしたい思いで自宅から持ってきたiPodでラジオを流していて、その時にSOLを初めて聴きました。同じときにどこかで聞いている生徒へ向けて言葉をかけてくれていることが、先が見えず真っ暗で永遠にも感じる夜に寄り添ってくれているようで、支えられたのを今でもはっきりと覚えています。
避難生活が終わり、中学3年生になり人間関係が上手くいかなかったり、受験勉強をしている時もSOLを聞いて元気を貰っていました。SOLを聞いて好きなアーティストに出会えたり、バンドをやるきっかけにもなりました。
SOLは私に前を向かせてくれて、たくさんきっかけをくれる存在です。あの時も、今も、いつもありがとうございます。
今日は3月11日。
15年前の今日は大粒の雪が降っていました。
地元が東北のため、進学で上京した今も毎年3月11日は東北の地元で過ごしています。
今日も地元で黙祷を捧げました。
当時、私は年長さんでした。14時46分に大きな揺れを感じ、泣きながらお母さんに抱きついて急いで逃げました。
気付いた頃には電気も水も止まっていて、食べるものも暖をとるものもなかったため夜は車の中で過ごすことになりました。車の中ではラジオがずっと流れていました。今振り返ると、震災の時の唯一の救いはラジオだったのだなと思います。
私は怖くて不安でずっと泣いていました。
小さいながらにただ事ではないことを感じたのだと思います。
いつもと違う状況と続く余震、鳴り続ける緊急地震速報。緊張感がずっと続いていました。
しかし、夜10時を過ぎた頃だったと思います。
食べるものもなく車の中にいると、近所のおばあさんが声をかけてくれました。
「うちにおいで。暖かいし軽食もあるから。」と。
近所の方のおかげで生き延びることができました。
あの日の恐怖も不安も何もかも鮮明に覚えています。ですが、これは、人を思って動くこと、助け合うことの大切さを、私の人生に刻んだ出来事でもあります。
これからも震災の記憶と、助け合いの大切さを忘れずに生きていきたいと思います。
校長教頭こんばんは。
私は15年前の震災の日、小学生でした。あの日の記憶は、今でも覚えています。もう二度とあんな思いはしたくないです。内陸に住んでいるので津波はこなかったものの、ライフラインが止まったので大変でした。3月の東北はまだ寒く、何着も重ね着をしたり布団を何枚も重ねたり、数少ないカイロを使って暖をとっていました。その時、生後3ヶ月の弟がいました。お母さんはその子を守りながら揺れに耐え、私は2歳の妹の手を取りながら必死に身を守りました。そのことを考える度、今元気な姿を見ると嬉しい気持ちになります。祖父母の家は宮城の海岸にありました。幸い、家は高台に近い位置にあったので無事でしたが、周りの友人は津波に巻き込まれたそうです。おじいちゃんは電車で帰るはずの帰路を、1人線路を辿って何時間もかけて家まで帰ったそうです。
今日、15年前のニュースを沢山みました。心からお祈りして下さる方がいる反面、心無い言葉沢山見られました。正直悲しかったです。お祝いの日にしてはいけないんですか?と反発する人。ニュースを小ネタにしてくる人。そんな人が出てきてしまうことが信じられないです。沢山の災害がある中、この日を教訓にして守られたものも沢山あると思います。だからこそ、許せないです。もっと考えるべきことがあると私は思っています。
長文失礼しました。
私は当時、2歳でした。15年前の今日。私は、親に連れられ、5つ上の兄の小学校にお迎えに行くところに地震が起きました。当時のことはいまだに鮮明に覚えていて、小学校の近くの信号機の当たりで大きな揺れを感じました。小学校の近所の人たちから早く避難して!と声をかけられて急いで、家に避難しました。
あの日から15年。小さいながらも震災を経験した身として、絶対に忘れてはならない。伝えていかなければならないと思っています。そして、生きていることが当たり前ではないということを胸に刻み、毎日を懸命に生きていきたいと改めて思いました。
今日であの日から15年。
当時小学1年生だった私には、震災の記憶が残っていない。5歳離れた妹は覚えているのに。
覚えているからこそ今も苦しんでいる人がいることは重々承知している。
でも、覚えていないのもつらい。福島県でも中通りに住んでいるから、そこまで被害があったわけでもない。はず。
あの日の記憶を忘れないように、風化させないように自らを削って活動されている方もいる中で、私はどんな気持ちでこの日を迎えればいいのか毎年わからなくなる。ただただ申し訳ない。
東日本大震災発生当時、私は2歳半でした。
記憶はほぼないです。
両親に話を聞くことがたまにありますが、
子供向け番組はどこもやっておらず、
放送されているのは災害関連のニュースだけ。
CMも同じものが永遠に流れ、
子育ての面でも大変だった、と話していました。
自分自身、何度か地震を体験して、
すこしの揺れでも、震えて何日も眠れなくなりました。
東日本大震災は、それの何倍も大きな揺れ。
被災された方々の不安や恐怖は計りしれず、
想像できません。
学校では、発生時刻に合わせて黙祷をしました。
残っている映像をみる度、心が痛みます。
経験された方、まだ生まれていなかった方、
みんなで語りつないでいくことが大切だと思います。
被災した全ての方々に、
御見舞いとご冥福ををお祈りします。
校長、教頭、こんばんは。
今日で東日本大震災から15年が経ちますね。当時自分は1歳で、何があったかはもちろん覚えておらず、歴史上の出来事としての知識しかありません。ですがこの経験を後世に語り継いでいく立場でもあると思っているので、今日の授業を聞いていろいろ考えられたらなと思います。
震災からもう15年なのかと思ってしまいます。私が住む茨城も津波の大きな被害があり隣の町へ行けば津波で流されてきたトラックのコンテナ、そして道路は液状化でガタガタ建物は傾いていたところが多くありました。
先日私は思いつきで福島県の南相馬、浪江町に足を運んで見てきました。こんなに海の近くにはなにも建物はなく国道走っていると時が止まったままだったなと思った場所もあります。
家族を大事にする場所はこの被災地と呼ばれた場所を見に行くと絶対に思う!大切は場所は大切な何かを失った場所を見るとわかるそんな気がしました。
この次は熊本から10年これも絶対忘れちゃいけない日だと私は思ってます。
私は今学校の研修旅行で海外にいます。岩手の学校では内陸でも毎年3月11日14時46分に黙祷の放送があるのが普通です。研修旅行と被っていることはずっと気になっていましたが特に話が無く、一人で黙祷するわけにもいかないので心の中でだけしようと決めていました。
ですが今日友達と話していて、「今日震災だよね、黙祷できないのかな」という話になり、さらに私とその子だけでなく同じことを気にしている生徒が沢山いることが分かりました。結果、その場の全員で日本時間に合わせて方角へ一分間手を合わせたんです。一緒にいた現地の生徒にも説明すると手を合わせてくれました。
なんか心に残ってます。世代的にも当時は記憶がないし小中の黙祷もやらされではあったので、あの場の何人が本気で祈ってたかもわからないですけど、誰かが残した思いが報われてるのを感じて嬉しくなりました。
私は、東日本大震災の時はまだ1歳くらいだったのでほんとんど覚えていませんが、親から色々と話を聞きました。私は、東日本大震災の日はおばあちゃんの誕生日ということもあって山形にいました。そんな日に地震がおきました。山形も案外被害を受けたらしいです。そして、お父さんは11日も仕事があり、終わってから山形に来る予定だったのでお父さんだけが宮城に残っていました。お父さんはその頃仕事がちょうど終わり山形に向かう途中で地震にあいました。お父さんは職業柄地震があったら被災された地域に行く事になるのでまた仕事場に戻って被災された地域に行きました。そこから、半年くらいずっと家には帰って来ませんでした。そして、私達が宮城に帰った時に家はとてもすごい事になっていました。壁にはヒビが入り、テレビは倒れたり、家が傾いたりしました。そして今日私は、東日本大震災の式典のボランティアに参加しました。そこで震災を知らない子供達に震災の事を説明したりしました。私は、東北に生まれて東北で育ってきたからこそ、震災について勉強をしを経験していない方々にも伝えないと行けないとお父さんから昔から言われています。そのためあの日の事を忘れないようにし、あの日のような日がもう二度と起きない事を願っています。
2011年3月11日、私は大学のキャンパスで迎えました。春休み期間中、大学の売店で、新年度に向けての教科書の品出しバイトをしていました。その日もいつも通り出勤し、バイトメンバーと作業をしていました。作業中に、緊急地震速報とともに揺れ始め、次第に揺れが大きくなり、これはただ事ではないと思った私たちは、本来はやってはいけないのだけれど、凄まじい揺れの中、建物から走って脱出。揺れが収まって作業スペースに戻ると、自分たちのいた場所の天井が落ちていました。初めて「死ぬ」ということを感じた瞬間でした。当時、実家から大学に通っていたのですが、公共交通機関が止まってしまい、大学で一晩過ごすことになりました。避難所になった教室に友達もいて、本当に心強かった。硬い椅子に横になり、緊急地震速報がなるたびに建物の外に飛び出して、一晩を過ごしました。翌朝、大学が朝食として用意してくれたカップ麺の味が忘れられないし、無事に朝が来たことに安心しました。個人的に毎年、3月12日の朝は、特別です。この時期がくると思い出す授業があって、確か山口一郎先生と、とーやま校長・やしろ教頭が、泣きながら『上を向いて歩こう』を歌ってくれたことがありました。あとは逆電をした被災地の生徒さんに、今一番欲しいものを聞いたら「予約をしていた、RADWIMPSの『絶体絶命』」あの生徒さんは元気かな?まとまりのない文章ですが、いつどこで何が起きるかわかりません。今を生きていることを、大切にしてほしいです。
私は宮城県の沿岸部に生まれ育ち、被災した当時は6歳でした。卒園式間近のことでした。
3倍以上歳を重ね、年齢的には大人になって
今年も黙祷を捧げました。
発災当時はまだ幼稚園生で、余震が強く夜中におばあちゃんの腕の中で泣いたこと、子どもながらに津波の映像を見てすごく衝撃を受けたこと、すぐに近くの公会堂に避難できるように1階の台所で母と隣り合わせで眠った夜のこと、中学1年生のときに亡くなってしまった祖父が、車に不安がる姉と私を乗せて、「じいちゃんが絶対守るからな」と強い眼差しで励ましてくれたこと。
停電で何も人工の明かりがないなか、星はきらきら輝いていたこと、全部全部覚えています。
人生の半分以上を「復興後」の景色を見て育ったので、震災の前の景色を時々恋しいと思います。
パズルのように散らばった断片的な記憶ですが、絶対に忘れずにこの日のことを伝えていきたいです。
今日も生命が誕生したり、天国へと向かう生命もあります。
震災を経験してからは、いのちのことを沢山考えるようにしています。
私の周りは奇跡的にみんな無事でしたが、
そうではない人ともこれまで沢山接してきました。
友人の中には、震災で身内を亡くした方もいます。
皆さんへ
今ある幸せを、大切にしてください。
今ある普段の日常を、大切にしてください。
震災が起きたとき、私はまだ生まれていません。だから震災当時の景色はテレビでしか見たことがありません。でも幼稚園の頃から震災の話はずっと聞いてきました。両親は震災のとき親戚で集まって新潟に逃げたそうです。先生は卒業式の準備をしていたという方や下校する生徒を見送ったばかりだったという方もいました。小さい頃はよく理解できていませんでしたが、大きくなるにつれ、震災がどれほど大変で悲しい出来事かわかってきました。
そして2022年3月に福島県沖地震がありました。緊急地震速報の音で目が覚め、咄嗟の判断で布団に潜りました。今まで経験したことないくらい大きな揺れで、家が壊れるのではないかと錯覚したほどでした。揺れが収まってから家族でリビングに集まりましたが、ずっと怖くて震えていました。でもきっと東日本大震災はもっと大きな揺れでそれに加えて10メートルの津波がきました。その時、震災にあった人たちがどれだけ怖い思いをして震災後を過ごしていたのかを本当に知ったような気がしました。それでもまだ理解しきっていない部分があるかもしれません。
福島県は原発事故の影響でまだ避難所で生活を送っている人がいます。その人たちに一刻でも早くいつもの日常が戻ってくることを祈っています。
校長、教頭、こんばんは。今日で東日本大震災から15年ですが、私は当時5歳で、保育所にいました。今日は家族から聞いた話と震災でも強かったとあるものの話をしたいと思います。
私は14時46分、地震発生当時は保育所で昼寝中でした。昼寝中の地震であったため、自分だけでなく他の人たちも布団をかぶって怯えていました。
その頃母は、自分を迎えに会社から車で向かっている途中でした。しかし、保育所到着直前にして、津波がすぐそこまで来ていて、車をバックして母は少し高めの小さな階段に避難しました。すると波は時間が経つにつれて徐々に高くなり、最終的に車は窓のあたりまで浸水してしまいました。そして母は近くを歩いていた自分の友達の父と保育所の中まで行き、奇跡的に会えました。
父は新しい家の設計を当時の祖母、そして住宅会社の1人と構想を考えていましたが、その後地震が来て、父は自衛隊であったため、すぐに救助に向かわなければならなかったため、すぐに出動しました。もちろん自分は状況を分かっていないため、母が来る前は、「もう会えないのか…。」という悲しさしかありませんでした。
そして震災を乗り越えたとあるものというのは、自分がいつも乗っていた路線「仙石線」のとある車両です。その車両は、東松島市にある野蒜(のびる)駅を発車後に緊急停止しましたが、なんと奇跡的に津波の被害を一切受けることなく無事でした。仮に、津波の勢いがさらに強かった場合はその車両は飲み込まれて悲惨なことになっていたので、まさに奇跡の電車だなと思いました。
これらの教訓は後世に語り継がれるべきであると思います。もう二度とこのような災害は経験したくないと改めて感じました。そしてこれからも前を向き続けます。
東京に住んでいるのですが震災当時
LINEも普及しておらずメールと電話のみだったので
青森にいるおばあちゃんや親戚と何日も連絡が取れず
とても心配で涙が止まりませんでした。
テレビをつけた時の衝撃今でも覚えています。
15年前は中学2年生だった私も今年で30歳になります。
何年経っても忘れてはいけないし
将来子供がうまれたら語り継いでいきたいです。
「前編」の続き。
例えば、敵は“闇(作中では黒い霧のように表現される)”とともに街に襲来し、あっという間に街を“闇”で飲み込んでしまったりします。
また、“闇”に飲まれた街は外部から認識されなくなり(=地図から跡形もなく消えたようになる)、“闇”に飲まれた街の中や街の住民は文字通り時間が止まったような状態になる描写がされています。
さらに、敵の侵攻によって主役陣営の“レインボーライン”の線路が“寸断”されたり、“烈車”が行方不明になっていたりもします。
他にも主人公たちは“闇”に“故郷”を“奪われて”、“故郷”に帰るために“烈車”に乗って旅をしていたり、主人公たちの故郷の名前が“昴ヶ浜”とどこか“海沿い”を思わせるものになっていたりもしています。
…と、どことなく放送の3年前に起きた出来事を思わせる要素が散りばめられているんです。
あと物語最大のネタバレになるので詳しくは言いませんが、主人公たちに隠された大きな“秘密”も“震災”の“傷跡”を思い起こさせるようなところがあります。
そういうわけで、「トッキュウジャー」もまた、“震災”の影響を受けて作られた作品であると考えることができるんです。
ただ“鉄道”モチーフは「トッキュウジャー」のメイン脚本家が過去に手がけた「仮面ライダー電王」でも使われていて、「トッキュウジャー」自体登場人物の立ち位置が「電王」と重なるところもあるので、全て“震災”の影響でああなったというのは無理があると思います。
まぁ“震災”以降に作られたアニメや特撮は意識・無意識問わず“震災”の影響を受けてしまっているとはたまに聞くので、「トッキュウジャー」は無意識のうちにそうなってしまったのかもしれません。
まぁもし“意識してやっていた”としても、そんなことは口が裂けても言えないと思いますがね…
そういうわけで、「烈車戦隊トッキュウジャー」と東日本大震災が関連しているかもという個人の考察でした。
あくまで“個人の考察”だから、気にし過ぎないでね。
あと今YouTubeで「トッキュウジャー」の配信をやっているから、興味がある人は途中からになるけど観てみて。
後悔はしないから。
私は震災の日、一歳だったので記憶はありません。しかし自分があの日どのように過ごしていたかは何度か聞いたことがあります。
私は母と市外にお出かけに行っているときに地震が来ました。地震はそこまで大きくは無かったものの、ライフラインが止まっていたため家に帰ることが難しく近くの母方の実家に避難しました。そのとき、おばあちゃんが私や母・親戚がご飯で困らないようにお店に駆け込みおにぎりなど食べやすいご飯を買ってきてくれました。おばあちゃんは普段からおしゃべりでお店の人とも仲が良かったことでご飯を買うことがまだ出来たそうです。「食べ物をたくさん買うこと」がその当時100%良い行動だったかは分かりません。もしかしたら、慌てて買う人がたくさんいたから食べ物がなくなったのかもしれません。(山形県は被災後、多くのスーパーやコンビニの食べ物がなくなりました。)しかしこの行動を良い悪いではなく「事実」として記憶しておくことが、何か次に繋がられるきっかけになるのではと思っています。また父方のおばあちゃんも普段の関わりのおかげで近くのガソリンスタンドでガソリンを獲得できたそうです。
とはいえこの話を聞くと、どれだけ普段の関わりがいざとなったときに力になるのかを感じさせられます。おばあちゃんのように積極的に関わることはできませんが、ゆっくりでも地域との関係を作っていきたいです。
今日の授業で聞く言葉が記憶のない私たちが知る「きっかけ」となりますように。
今日で、
東日本大震災から15年が経ちますね。
あまり自分のことは事細かに書くことはないのですが、
今年は特に思い入れが強いのでここに書き残そうと思います。
当時のわたしはまだ小さく、
祖父の家にいました。
当時のことは今でも鮮明に覚えています。
たくさんのものが崩れ、
壁にかけてある絵が落ちてくるのではないかと不安でした。
内陸に住んでいるため、
津波の被害に遭うことはありませんでした。
ですが最近、
被災地へ足を運ぶ機会がありました。
当時の鮮烈な説明に、
心が酷く痛みました。
津波を経験していないわたしは、
自分が思っているより被害はとても大きく、
人々のかなしみは大きいのだと知りました。
地震と隣り合わせの日々。
最近は小さい地震が頻繁に起こっていて、
いつまた大きな地震に見舞われるかわかりません。
だからこそわたしたちは被災した方々へ祈りを捧げながら、
日々を歩いていくしかないのかもしれません。
明日を生きる人が、
少しでも笑っていられるように。
そう祈りを捧げながら、
わたしは今日も歩いていきます。