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僕が生まれるまでと、生まれた後の物語。

僕が生まれるまでの物語、といってもねえ……お父さんとお母さんの恋愛や結婚には、特にこれと言って語るようなことはありません。むしろ、出産直前とそのあとの話が強烈に印象に残っています。初めてこの話を聞かされたのは小学2年生の時でした。生活の授業かなんかで生まれた時の話を聞いてくるという宿題をやってた時のこと。
「ああ、そういえばアンタ本当は2月生まれになるはずだったんよ。」
「ファッ!?」(ちなみに12月生まれ)
なぜ僕が3カ月も早くこの世に生まれてきたのか。それは今でいうところの「高齢出産」にあたっていたというのが大きいみたいですが、はっきりとした原因はわかりません。ただ、それによって何が起きてもおかしくなかったことは事実です。
生まれる数日前から体調は良くなかったみたいですが、当日になっていろいろ急変。母子ともにかなり危険な状態になってしまいました。そこで担当医の先生の判断で、急遽帝王切開で出産することに。そして1998年、12月に僕は誕生しました。しかし親が抱く暇もなく保育器の中へぶち込まれました。そりゃそうでしょうね。

だって体重、1000gにすら達してなかったから。

出産時の体重が1000gに達していないということは、超低出生体重児、昔でいう”超未熟児”に分類されることになります。そして早産の超低出生体重児は合併症を起こす危険性があるのです。しかも生まれた時、僕は泣きませんでした。泣かなかったということはつまり、生まれた直後に呼吸が止まっていたことを意味します。呼吸が止まれば酸欠状態になり、脳に重大な障害が残る可能性がある――リスクにリスクを重ねた、危険な状態でした。ですが、担当医のO先生、そして退院後のフォローアップを担当してくださったN先生のおかげで危機を脱し、半年後くらいに退院することができました。

そして今、僕はこうして生きています。小学4年生くらいまでフォローアップのため1年に1、2回病院に通っていましたが、それもない今は健康に過ごしています。目下の悩みは体重が全然増えないことと体力がないことですかね。これももしかすると超未熟児だったことがほんの少しだけ影響してるのかもしれませんが。ちなみにいまだに体重制限に引っかかるので献血には行けてません。ああ、あと1~2kgくらい体重が増えればなあ……

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多くの人に読んでもらいたい。校長、教頭、職員の人にも読んでもらいたい。そして、思ったことがある人、レスお願いします。

真剣な話
SOLの生徒、いじめしてないよね。もし、いじめてる生徒、いじめを見てどうしたらいいのかわかない生徒、この話聞いて?

私は、学校でいじめられてる。毎朝学校行くとね、上履きとか机の中に6角形におられた小さい手紙が入ってる。この中には学校くるな、消えろ、死ね、自殺しろ、殺すとか書かれてる。はっきり言って、学校行きたくない。こんなことやられるならいっそ死んじゃえばって思うよ。私だって自殺しようとしたこともある。ついこの前だって自傷行為しようとした。しかも、これだけじゃない。階段から落とされたり、カッター、はさみが飛んできたり色々ある。

いじめてる人へ。
SOLにいじめてる人はいないと信じてる。でも、やめたいけどやめられない人いると思う。そんな時はいじめを程々にしながらいじめられてる側にそっと近寄ってほしい。放課後でもこっそり謝って、
程々ににいじめをしながらでも少しづつ味方になってあげて?

いじめを見て困ってる人へ。
これも、同じ。少しづつ、少しづつ味方に変わってあげてほしい。


私も実際、助けてほしい。学校で助けてほしいと思ってもなかなか…だからSOLの生徒、職員に助けを求めることしかできない。
校長、教頭助けてほしい。職員の人。チームKGBの人。いつも、私の書き込みを乗せてくれてありがとう。でも、助けを待っているのは事実。今まで、逆電のチャンスあったけど無理だったから。KGBの人には、私が傷つけてるかもしれないって思って、書き込み書いてやめることもある。いつもごめんなさい。

校長、教頭。助けてくれると信じてる。味方だと信じてる。校長、教頭が味方じゃないと私は生きてけないよ。

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お祝いのスピーチ

あしざわ教頭、史香さん、このたびはご結婚おめでとうございます。
あしざわ教頭が着任した時、教頭の声がガッチガチに緊張していたのを今でも鮮明に覚えています。最初は正直、「この人で大丈夫かな…?」という気持ちもちょっとありました。ですが、1週間くらいたって、教頭が一人で授業をした時。一人でしっかり授業を回していて、「ああ、この人なら大丈夫だ」と思いました。それからも、パイプの話だったり、フテネコの話だったり、「DJ出汁」だったり、いろんなことを通して、ますます教頭のことが好きになりました。そして何より、生徒と真剣に向き合っている姿が、一番印象に残っています。生徒の相談に真剣にのるその姿は、歴代の校長・教頭に引けを取らない、とても立派な姿でした。これからも教頭として、校長と一緒に僕たち生徒と向き合ってください。
史香さんはリジッター企画の主宰だそうですが、リジッター企画の名前だけは何度か聞いたことがありました。機会があればぜひ演劇を観に行きたいと思います。これからも、素晴らしい演劇作品を届けてください。
最後に、お二人のご健康とご多幸をお祈りいたします。これからもどうぞ末永くお幸せにお過ごしください。

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中学2年生の時

ラジオを聞いてて、ふと思い出した。中学2年生の時、祖父を亡くした。
夏休みのころから様子がおかしくなり、病院に行ったら即入院。末期の肺がんに軽い脳梗塞。余命宣告。祖父はヘビースモーカーだったから、肺がんになったのはある意味自業自得ともいえるかも知れない。僕自身もいつか祖父が肺がんになるんじゃないかと、覚悟はしていた。だけど、いきなり末期なんて……先週まであんなに元気だったのに。やっぱりショックだった。
祖父は認知症だったので、とにかく暴れた。手の付けようがないほど。病院の廊下まで僕を呼ぶ祖父の大声が聞こえてきた。だけどそれはある意味元気な証。一時は退院の可能性もあった。だけど、祖父は誤嚥性肺炎を発症してしまった。食べ物が気管に入って、肺炎を起こしてしまった。そこから祖父はどんどん弱っていった。心電図モニターがつけられ、酸素マスクをつけられ…痛ましくて見てられなかった。
入院から3か月くらいたったある日の朝、僕が起きると全身に鋭い痛みが走った。今までこんなことは1度もなかった。何か悪いことが起きるかも知れない。そう思いながら学校に行った。午後の授業中、先生に言われた。「ソライヌ君、行って」と。僕にはその意味がすぐに分かった。全速力で家に帰り、親と合流して病院に向かった。だけど、間に合わなかった。最期を看取れなかった。前日の夜、習い事に行く前に、一目顔を見たのが最後だった。家族の前では強がってたけど、一人でSOLを聞いていた時、涙が止まらなくなった。

正直、後悔していることはたくさんあります。もっと会いに行けばよかった。もっと優しくすればよかった……だけど、過ぎた日々は戻ってきません。もし身近に病気の人がいたら、しっかり向き合ってあげてください。僕みたいに、後悔してほしくない。長文失礼しました。