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輝ける新しい時代の君へ ⅩⅪ

「でも、逃げていたとはいえ、戦傷で死ねただけ幸せだったでしょうね」
「それは、もっと良くないことがあるのか」
「あるわよ。勇んで出征したのに、病気や飢餓で亡くなる方が沢山居たの。チフスや結核なんかはよく聞いたわ。前線に行っても病や飢餓や……仲間内の争いで亡くなられる人が相当いたそうだけど。……邦明さんと同じ班の方が……先達さんが伝えに来てくれた。だからあたし苦しくなって、折角教えてくださったのに、あたしあの人に酷いこと言って……」
「?」
「すまないね、脱線しちゃったわね。この手紙は、その時持ってきてくださったのよ」
 祖母は『妻子へ』と書かれた茶色の封筒を手に取った。
 満州から届けられた物は手紙だけのようだ。遺品がないことには少し疑問を持った。何か事情があって他のものが届かなかったのかもしれないが、それにしてもこの家に何も残っていないというとこはない筈だ。何か理由があるのだろうか。
 遺品がなかったからと言って、だからどうしたという話になるので尋ねるのはやめてしまった。
 祖母は「これ、読んでみる?」と少年に『妻子へ』の手紙を渡した。
「い、良いのか」
 少年は困惑した。読んでみたいという気持ちは勿論あったが、これは祖母に宛てたものだ。同時に抵抗もあった。
「ええ、きっと邦明さんも望んでいるんじゃないかしら。分からないけれど」
「てきとうだな」
「良いのよ、あの人がてきとうな人だったから」
「それなら……」
 少年はおずおずとそれを受け取ると、そっと二枚の便箋を取り出した。

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輝ける新しい時代の君へ ⅩⅩ

「あなた、満州って知ってるでしょ?」
「知っている」
「あの人、歩兵の一等兵として満州に行ってたのよ。南支の方。そこでね、死んじゃったの」
「戦死してしまったと聞いている」
「そうよ。あの人、転進中に自分の中隊を見失って班の人、先達さんというんだけどね、その人と二人で迷子になってたの。頭悪いわよねぇ」
「……」少年は何を思えばいいか分からなくなって沈黙した。
「それで二人で南下した中隊を探しているときに、八路軍に遭遇して応戦中に被弾したって。右腕の、上の方に一発と、おなかに一発——。邦明さんたら、おっちょこちょいなのは分かるけど、本当に、出征したならちゃんとしてくれないと。でも先達さんを助けて死んだって。先達さんも兵站病院を見つけて駆け込んだらしいのだけど、翌日には……。蒸し暑くって雨が降っていて、あの頃は、前線じゃ病院は酷い環境なのよ。まともに休めやしない。外にいた方がましだったくらいらしくてね……沢山苦しんだでしょうね……あの人はもっと幸せになるべきだったのに」
 祖母は冷静に振舞っているが、何かへの深い憎悪がその目からは感じられた。しかしその『何か』とは、鉄のように凝固しているのに掴みどころがなく、憎悪を持て余した虚しさに駆られているようでもあった。
 同時に、話を聞いて、あの頃梅雨の雨の日にだけ姿を現さなかった理由が分かった。あの時現れなかったのは、梅雨が嫌いだったからというより、怖かったからだったのだろう。
当然自分はまだ死んだことがないので、どれほど恐怖を感じていたのかは計り知れない。どんなに彼が痛くて辛くて死にたくなくて逃げ出したくて、しかし逃げ場がないという絶望の淵に居たとしても、あの時の少年には知る由もなかった。今だってどうやっても分からない。彼からすれば『分かる』など無責任な言葉で一蹴されるよりは良いのかもしれないが、少年はどうにも解消しようがない後悔の念にさいなまれた。

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輝ける新しい時代の君へ ⅩⅨ

(やはり、訊いてはいけなかったのか)
 今の質問をするために持てる勇気を使い切って、少年の心の中にはもう不安しか残っていなかった。急に後悔が膨張して、「いや、今のは無しだ。ごめんなさっ……」と慌てて前言撤回しようとした。
 すると、祖母は何も言わずに立ち上がり、奥の襖の向こうに手招きした。
 襖の奥に入ると、そこは六畳半の和室だった。あるのは正面に押し入れと仏壇、小さい座卓に箪笥に旧式テレビにと、誰かの部屋の様な雰囲気だった。障子を閉めているとはいえ、妙な静けさが部屋を包んでいる様に感じた。空気が悄然としていた。襖のところに立って、少年は動けなくなった。
 祖母はこちらに目配せし、仏壇の前に正座した。それを見て正気に戻ったようにハッとして彼女の横に立った。
「座りな」
 祖母は静かに言った。
 仏壇には一枚の写真が、黒い写真立てに収められている。それは白黒で、見たことのある顔だった。微塵も敵意を感じられない垂れ目が特徴的な坊主頭の男。
 あの男だった。幼少期、あの公園で出会った……幸田邦明。
「この人……」
「睦葵のお祖父さんよ」
 祖母は愛おしそうに写真を眺めた。 
 徐に線香を上げ、合掌をした。少年も見様見真似でワンテンポ遅れて拝んだ。
「少し待ってなさい」
 そう言って、古い箪笥から桐箱を出してきた。B5コピー用紙くらいの大きさで、中には封筒や葉書がいくつか入っているだけだった。随分丁寧に保存している。これが男の、幸田邦明の、祖父の書いた手紙だということはすぐに分かった。
 一番上の封筒には草書体かと思う程崩して、堂々たる『妻子へ』の文字が書かれていた。
 にわかに祖母が口を開いた。

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輝ける新しい時代の君へ ⅩⅧ

 高校生になって意味が分かった。

 少年は成長して、様々なことを知って、女の格好もとっくのとうにやめた。身長は一六五センチメートルを超えたところで止まってしまったが、重大な病に侵されたり大怪我をしたりすることなく健康に育った。
 地頭が良かったこともあり成績も良好だ。高校受験は無事に成功し、県内でも屈指の公立高校に入学した。感情の起伏に乏しいことや無口なことは変わらず友達はあまりいなかったが、それなりに楽しく生活していた。
それでもあの男について考え続けていた。男の正体も察しがついた。
 だから彼に何があったのか知りたくて、思い立ってからはすぐだった。次の日の正午には、田舎に住む父方の祖母の家の居間にいた。
「一人で来たなんてすごいわねぇ」
 祖母は冷えた麦茶を出しながら感心した。祖母は明るくサバサバした性格の人で、大人しい父親とは性格面ではあまり似ていないが、余裕のありそうな顔立ちはよく似ていた。ただ、母子の関係は良いとは言えなかった。幼少期会うことがなかったのも、それに起因するところがある。
「でも、どうしたの急に」
 祖母が少年の向かいに座って尋ねた。
 来てからずっとそわそわしていた少年は、待ちかねていたように半ば茶托に乗り上げる勢いで質問に食い付いた。
「あの、じいちゃんについて知りたいんだ」
 表情は少しも変わっていなかったが、必死だった。
「あの人について……?」
「うん。じいちゃん、戦争で亡くなったと伯母さんから聞いた。それで気になった。だから、教えてほしい。じいちゃんは何処で亡くなったんだ?どんな人だったんだ?」
 祖母は引き気味に数回小さく頷いた。
「う、うんうん。分かったから落ち着きましょ」
「ア、うん」
 少年は祖母に促されて座り直すと、心を落ち着ける意味合いで結露し始めたガラスのコップの麦茶を一口飲んだ。一呼吸おいて、彼女の俯きがちな顔を伺った。
「珍しい子ねぇ」
 そう言ったきり、しばらくの間俯いて黙り込んだ。

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輝ける新しい時代の君へ ⅩⅦ

「どうしても会いたくなったときは、九段下の神社に来るといい。そこできっと、待ってるからね」
 そういうと少年は少し落ち着いて「くだん……?」としゃくり上げながら反復した。
「そうだよ、九段下。来るなら四月の始めが良い。あそこはね、桜が大変綺麗に咲くんだ。お花見にピッタリだね」
 変に明るくおどけた。
 別れ際まで道楽的な男の発言に、涙を流すのも変に思えてきた。最後に、少しだけ笑えた。
「わかった。じゃあまってて。ぼくぜったい、行くからな」
「うん、待っているよ」
「うん、今まで、ありがと。……じゃあ……」
 じゃあね、と言おうとしたが、これで終わりだと思うとまた涙が込み上げてきて、泣き出してしまった。

 ひとしきり泣くと、心が決まったようで、早口で「じゃあな」と言ってサッサと踵を返した。
 公園を出る直前、振り返って赤くなった顔で、涙をこらえて、なるべく通常通りになるように発声した。
「まだ訊いてなかったけど」
「何かな」
「……名前!」
「名前?」一瞬何のことか分からず、怪訝そうな顔をしたが、すぐに思い出した。
「そういえば。俺は……邦明、幸田邦明だ」
「ぐうぜんだ。ぼくも同じみょうじ。幸田睦葵っていう」
「むつき……うん、良い名前だ!」
「おじさんも」
 最後にそれだけ言うと、少年は来た道を戻っていった。

 それ以来、少年が男に会うことはなかった。
 会えなかった。

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輝ける新しい時代の君へ ⅩⅥ

 翌日、少年は走った。
 公園へ、男のもとへ走った。炎天下、生温い風を全身に受けて走った。
 公園の入口に来ると、見慣れた緑色の服が見えて目を輝かせた。
「おじさん!」
 汗だくの状態でやってきた少年の慌て様を見て、男は驚いて思わず立ち上がった。
「どっどうしたの!そんなに急いで……」
「ぼくっ、ぼくっ……」
 息を切らして何かを必死に訴える真っ直ぐな瞳を見て、男は何か感じたようで、静かに微笑んで手招きをした。少年は歩いて男のもとに来て、俯いた。
「どうしたのかな」
「あの、ぼく……きのう言おうとおもってたけど、やだったから言わなかったけど……」
 少年は、ここに来る前、泣かないと決めていた。しかし堪え切れなかった。初めての大切な人との別れだった。
 言うことは決めてあったのに、口に出すと嗚咽が込み上げてきてなかなか進まない。
「……どうしたのかな、ゆっくり言ってごらん」
 男はかがんで少年と目線の高さを合わせる。すると、少年はゆっくり話し始めた。
「あの、お父さんの、しごとするところがかわって、だから、みんなで……ひっこすって。きのうの、きのう言ってて、どうしようっておもって、すぐしゅっぱつ……だから……いそいで来たんだ。さよならしに……」
 勇気を全部使って言った。声を上げて泣くことはしないが、涙は幾ら拭っても止まらなかった。
 あの時、もう会えなくなるのだと思った。
 距離的な問題とか、行動力の問題とか、そんな次元の話ではなくて、本当にもう男は消えてしまって、絶対会えなくなるんだと感じていたのだ。
 何故かは分からないが、どうしようもなく不安だった。別れを知らない少年には、底知れぬ恐怖だった。
 男は深く溜息を吐き、ふっと微笑を湛えた。
「大丈夫。会えなくても、しっかり強くやっていくんだよ」
「はなせないのやだ」
「大丈夫だって。これから君は、もっと素敵な人たちに会う。寂しくないよ」
 男は底無しに元気に言った。
「それにね、俺みたいなのにはもう関わらない方がいい。良いかい、君は輝ける新しい時代の男だ。だから俺なんかのことは忘れた方が良いのさ」
「そんなの……」
 男は励ますつもりで行ったのだろうが、逆効果だった。少年は嗚咽交じりに唸る。すると男はもう降参という風に両手を挙げて「それでも」と続けた。

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輝ける新しい時代の君へ ⅩⅤ

「ねえ、キミはいつも一人ですか?」
「ちがう。おじさんがいるからな」
「でも一人は……良くないだから、セーコさんのところに早く行く方が良いヨ」
「だから一人じゃないんだって」
「キミは……フシギな子だと……ワタシ思う」
 リイさんが公園から出た後、少年はその会話を思い出して不貞腐れた。無性に悔しくてならなかった。涙が零れそうになったが、友人がいる手前、泣くのもみっともなくてグッと堪えた。
 俯いて唇を噛む少年に、男は、何でもなかったかのようにヘラヘラ笑った。
「俺さァ、影薄いんだよね。最近は無視されることもザラだよ」
 夏の空気に似合う、涼しげな笑顔だった。
「むしされるほどなのか?」
 震える声で尋ねると、男は頭を掻いておどけて言った。
「もう嫁にもシカトされてんだぜ」
 苦笑ながらもニッと歯を見せて笑う姿がおかしくて、少年は声を出して笑った。
「なんだそれ、かわいそ」
「可哀そうだってェ?他人事だなァ……おっと、こんなことしている間にもう時間だ」
「ほんとだ」
「じゃ、今日はこれで」
「うん」
 そして少年は男に見送られ、いつも通り走って公園の出口に向かった。公園から出る直前、少年は一度立ち止まって、道路の方を向いたまま顔の汗を手で拭って「おじさん」と呼んだ。
「どうしたんだい」
「……やっぱり何でもない」
「?」
 少年はそのまま走って行ってしまった。