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企画「短編集『残滓』」

 少し前に私が個人的に作っていた小説集を少し変えて企画にしたいと思います。
 規定は以下のとおりです。

1,テーマは『戦争の残りかす』
2,形態は詩、小説、評論、歌詞、俳句、など文章
3,主体は日本語
4,長さの目安は書き込み1つ分〜5つ分
5,戦争賛歌にはしない
6,タグの一つに「短編集『残滓』」を入れる

 今回の『戦争』は武力衝突全般を指します。そのため、第二次世界大戦のような現代的で広範囲の戦争ではなく、古代の戦争でも、地域紛争でも、宇宙戦争でも、ファンタジーで魔法戦争でも何でも大丈夫です。また、『残りかす』は何も戦後を描く必要はありません。『残ったもの』という感じで、結構広義的に捉えてもらえればと思います。人間でも、ものでも、人間以外の生物でも何でも大丈夫です。
 形態は文章なら何でも良いです。
 何も日本語が主体になっていればいいだけで、英語だって中国語だってラテン語だって使っても大丈夫です。日本語なしでも大丈夫ですが、私が読めないのでそういうときは日本語訳もつけてくださると嬉しいです。
 長さは、短編集なのでそんなに長くなるイメージではないなと思っているだけなので、上記より長くても問題ありません。
 戦争賛歌になってはいけませんが、演出上の賛美は大丈夫です。最終的に反戦を示唆していれば良いです。なお、戦争賛歌にならなければいいだけで、だからといって反戦を唱える必要はありません。
 できるだけ企画名を入れてもらえればいいです。タグが足りなくなったら入れなくても大丈夫です。

 重い感じとか泣ける感じの話でも、笑える話、くだらない話でも、反戦を唱えなくても良いです。とにかく、夏休みには終戦記念日もありますし、少しだけでもみんなで(まあひとりひとりではあれ)戦争について考えていけたらなと思います。
 企画参加作品にはすぐではないかもしれませんがレスします。
 ご質問等あればレスください。
 ぜひご参加ください!

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トカゲの木 4

 さあこんな恐ろしい子供が近所にいたかな、と思慮を巡らしましたが、そんな子供がいた覚えはありません。そこで様子を伺い続けていると、箱から離れてトカゲの木の方に接近していきます。
 やっと全貌が見えました。
 ローブを着ているように見えましたが、よく見ると、それは黒褐色をした長い毛でした。体毛はところどころ毛玉になって、汚れてもいるので毛が固まって、よもや毛というより棘の様相でした。腰を曲げているのでトカゲの木の半分くらいの体躯に見えますが、実際は同じ程度と見受けられます。しかも、毛の隙間からは何やら粘液が出ております。それが白い月光に照らされて、ヌラヌラ光るんでございます。毛は顔のところだけ剥げ出ていて、血が通っていないかのように青白いのです。なのに顔中には細くて若いブルーベリーのような青の血管が張り巡らされています。また、縦方向に、鼻のあたりから顎まで裂けた口には何層にもなった草食動物の歯が無造作に生えております。その歯茎は融けているようにも、爛れているようにも見えました。口以外のところは全部、大小さまざまな、向く方もさまざまな、無数の目で埋め尽くされていました。
 それが、表情というのはありませんが、嬉々として煮干しのようにみすぼらしいトカゲを枝に刺しているのです。
 毎日トカゲの木にトカゲが刺さっているのは、彼が毎日やってきているからだったというわけです。
 あの子はすっかり納得して、満足しました。近所の怖い子供がやってきているからではなかったからです。
 そして、トカゲを串刺しにした犯人が去る頃には、その子は家に戻って、ベッドに入って寝てしまいました。

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トカゲの木 3


 箱の中は真っ暗で、ぼんやりとした月の逆光で、トカゲの木は踊る骸骨のようにおどろおどろしく見えます。その上、生暖かい風が板の隙間から鋭く刺してくるのです。四方を囲まれた箱の中は、その子の体躯からして、膝立ちをしていても余裕はありますけれども、心持ち狭く窮屈でした。そして閉ざされ蒸し暑いのにも関わらず、背中に井戸水が差された悪寒がします。ジージーというセミの大合唱も阿鼻叫喚に聞こえる心地です。
 不安を無理やりに噛み殺したとき、阿鼻叫喚に異質な音が混ざりました。
 ズーッズーッと何か引きずるような音です。例えば、浜辺の波打ち際で毛織物を引きずっていると言ったら分かるでしょうか、ええ、分かりませんか。まあ、そういったまとわりつくような音です。
 その子は音の方を見やりました。ただ、箱の中にいるものですから、音源を認めることはできません。大きくなる音に耳を澄ますだけです。
 音が大きくなるにつれて、ぶつぶつと、何かひっきりなしに呟くのも聞こえてきました。音源は先のものと同様に思われます。しかし何を言っているのかは一向に分かりません。唸っているだけだとも、異国の言葉だとも思われます。
 その上不思議なのが、いつの間にやら、先ほどまでの目眩のするほどうるさい蝉の音が、一つも聞こえなくなっていたのです。それどころか、横笛のような風の音や、賑やかな草木の騒めく音も一切聞こえないのです。もしかしたら、あの子も緊張していたようですし、聴覚を一点に集中していましたから、相対的に静かに感じただけかもしれませんが、何か異様な空気が頬を撫ぜるのは確かな感覚でした。
 にわかに音が止みました。その子がおやどうしたことかと思った瞬間のことです。……視界が大きく削れたのです。驚きましたが、これは、その子の入った箱のすぐ外側に、触れようかというすぐ近くに、何か現れたため影って黒く見えているわけです。
 唐突に現れたそれは、何かボソボソ呟いています。……毎日毎日、律儀にトカゲの死骸を持ってくるその張本人です!この、呟いている言葉というのは、その子に聞いたところ、おおよそこんな感じです。
「わーしわ……たあ、あ、あ、たれそ……た、た……」
 これを息継ぎなしに、ずっと繰り返していたのです。

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トカゲの木 2


 月が上品な乳白色の光を湛えて天頂に登りました。
 その子は一辺一米ほどの木箱の中で『トカゲの木』を静かに見つめていました。
 これだけではへんてこれんな文章ですが、これにはこういったわけがあるのです。


 ある街のよくある民家に、これもまたよくある、背高ノッポの木がありました。背高と言ってもせいぜいが二米程度で、枝も幹も鶏の脚くらいの太さだからそう見えるのです。その木がある家には齢十にも満たない幼い子息がいらっしゃいましたが、彼には『トカゲの木』と呼ばれています。というのも、この木には、いつも干からびて煮干しのようになったトカゲが串刺しになっているのです。口から尾の付け根まで、糸車の針のような枝が貫いています。
「これは、誰がやっているの」
 幼い子は母上に聞いたことがありました。
 その度に彼女は、きっと野良猫が遊んでいるのでしょ、取っていらっしゃいね、と答えました。しかしその子は決まって、こう反論なさるのです。
「違うよ、同じ野良猫が毎日来るわけないよ」
「じゃあ違うのが来るんだわね」
「いつも同じところに刺さってるんだ、同じのがやってるんだよ」
「あらそう。じゃあその猫の縄張りになってるんでしょ」
「でも僕、ここらで猫なんか見たことないや」
「そうなの。会えると良いわね」
 確かにトカゲの木の横にはそれの半分くらいの高さの箱が置いてあって、それに乗ったら猫でも届くでしょうし、第一、そんな気味の悪いことをするのなんて、野良猫くらいなものです。ですからその子の母上は本当にそんなことを思ってらっしゃいました。彼女はわざわざ外に出て、トカゲの死骸の刺さった木をまじまじと見たりはしませんから、それが毎日あるとは知らないのです。
 しかし子息の方はトカゲの木が気になって仕方がありません。もしかしたら近所の年上の子供が、自分に意地悪をしようとしているんじゃないかしらと思っているのです。これは大変!放っておいたらこれ以上何をされるか分かったものではありません。母上にも迷惑がかかってしまいます。
 そうした経緯で、この子は今、トカゲの木の横で、箱に隠れて息を殺して外の様子を伺っているというわけです。

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トカゲの木 1



 ……まだ時間ございますが、お話は以上でよろしいでしょうか。さようですか。ええ、お代金ですな……こちらになります。
 ああ、焦らないで結構ですから。ほら、何か落とされましたよ。……どうぞ。いえいえ、今のお写真、お嬢さんでございますか。可愛らしい。違いましたか、これは失敬。へえ、わたくしの子もですって?何故そうお思いに……ああ、これでございますね。この写真の子供はわたくしの子じゃございませんで。友人の子供でしょうか。この子は何を指差しているのか……それがわたくしにも分からないのですよ。言われるまま撮らせていただいたもので。あの時、尋ねましたが、上手くはぐらかされてしまいまして。わたくしとしたことが、お恥ずかしい。子供には弱くってですね。いやはや、子供とは不思議なものです。我々には見えぬものが見えているのでしょう。何を言い出すのか、いつも楽しみにさせていただいております。あなたもお分かりですか。ええ、この写真の話が気になると。……良いでしょう。それでは、時間もしばらくございますし、のんびりお話ししましょう。
 この世にはいろいろとヘンな話があるもので、こんな職業ですから、スピリチュアルとは縁遠いわたくしにも、そういった『持ちネタ』はあるものでございます。とは言ってもわたくしの体験した話などではございません。これは、この写真の子供が話していたことです。
 それはこんな話です。

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×××××中学校の七不思議 甲斐田正秀 12

 次の日の放課後。
 部活に参加した俺に、件の先輩がやって来た。部活の始まる前からソワソワした様子で辺りを見回していた。俺を見つけるとぱっと明るい顔で俺の名を呼びつつ駆け寄ってきたのだ。
「で、昨日どーだったよ!?」
 やっぱりな。
 先輩はおっかなびっくり訊いてきた。
「どうだったって……」
 甲斐田正秀はいましたよ。彼と話して、彼は噂とは全く違う人物で、空襲で死んだ中学生でした。
 ……とは言わなかった。言いたくなかった。
 あの少年は、そうやって大っぴらにして恐れられて良い対象ではない。もっと純粋で幼くて、切ないものだ。会って、直接話を聞いてやらなければならない。あそこに行こうと思った者だけが密かに確かに知って、ずっと心に止めておけば良いのだ。彼もそれを望んでいる。
 だから俺は
「何もありませんでしたよ」
 そう言った。
「……なあんだ、そうだよな、ははは、期待して損しちまったぜ」
「そうっすよ。それより、あれから大変だったんすよ!昇降口全部しまってて、職員室行ったら何でいるんだってチョー怒られて!」
「ははは、どんまーい」
「元凶先輩っすよ!」
「へへへ」
「もう!」
「おい!そこうるせーぞ!」
「すいません!」「すいません!」
 またも先生に怒鳴られ、部活を始めた。

 あれ以来、俺はあの時間にあの教室に行くことはなかったけど、後輩には教えてやった。
 甲斐田正秀の『恐ろしい噂』を。


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×××××中学校の七不思議 甲斐田正秀 11

 そんな訳はないが、沈黙が10分くらい続いたように感じる。でも多分、本当は1分くらいなんだと思う。
 そんな沈黙を甲斐田が破ってくれた。
「マア、そもそも生きとる若いもんが死について考えんなんてのは早すぎるってもんじゃ。死ぬことなんて、考えんで言いなら考えん方が良かくさ」
「そうなのか……」
 よくよく考えれば、この頃、死のことばかり考えている気がする。確かにそれは健全ではない……のかも今の俺には分からない。だから中途半端な返事になってしまった。
「というか、もうこんな時間じゃないか」
 甲斐田が急に話を変えてきた。無理矢理な感じもするが、反射的に甲斐田が視線を向けた時計を見上げてしまった。
 時計の分針は7を指そうとしていた。
「じゃ、わしはここいらで」
「……は?」
 え、え……?唐突に話を終わらせようとし出したぞ。まだ話は終わってないにも関わらずだ!
 しかし、だからといって何を言えばいいのかも分からない。
「そいじゃあ、もうこんな遅くに残ってんじゃないぞ」
「えっあ、え、ま、また」
「もー会わんよ阿呆が。じゃあな、暗うなる前にはよ帰るんじゃぞー」
「ちょっと待てって」
 俺は焦って言葉足らずながらも止めようと試みる。甲斐田の方に手を伸ばすが勿論届かない。甲斐田は窓の外の藍の空をバックに幼く無邪気な笑顔を浮かべる。
 そうして最後に言った言葉に、俺は一言
「……無粋だ」
 それだけ呟いた。
 悪態は俺しかいない仄暗い教室に行き場なく響いた。

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×××××中学校の七不思議 甲斐田正秀 10

 意外な反応に俺はもう一度、ちゃんと彼の顔を見た。彼は虚しそうに、なのに口角を上げていて、何というか、表情を歪ませていたのだ。俺はやっと、自分が酷いことを言ったと自覚した。
「散々嘆いて、平和な時代を生きとるお前らを呪い倒せばいいんか」
 先程と違い静かに抑えた声だった。なのに俺を制した言葉よりもずっと恐ろしかった。甲斐田の肩は力が入って小さく震えている。
「そんなのはわしの身が持たん」
 甲斐田は冗談めいて言う。俺は何も言えず、ただ突っ立っているだけだ。そんな中で俺よりも背の低い痩せた少年は続ける。
「わしだってなあ、兄ちゃんを、家族を救うために軍人になりたかった。でもな、そんなこと言ってられん世ん中じゃ、せめて国に尽くして死にたかった。なのにホントんとこはどうじゃ、こんな中途半端なところで死んで、何もでけん自分が情けなくってしょうがない。……今でもな、思い出す。あん時の激痛、苦しさも無念も……だから笑っとるんじゃ。笑っとらんといかんのじゃ」
 甲斐田は今にも泣き崩れそうな顔で、涙一つも流さなかった。
 俺はそこでようやく彼が笑顔を携え、涙を落とさない理由に気がついた。……余りに遅すぎた。
 甲斐田は悲嘆する訳にはいかなかったのだ。
 何も救えず何も残さなかった。最後まで足掻かずに日本人がまだ耐え忍んでいるうちに死んでしまった。最後まで死なずに苦しんだ人々を置いて闘いを『離脱』してしまった。
 彼にしてみれば、図らずともそんな卑怯な真似をしてしまったことは酷な罪なのだろう。だから彼は泣けない。何も恨めない。
「ごめん」
 やっと俺は謝った。
「いや謝らんでいい。わしこそ、変な話ししてすまんかったのう」
 甲斐田はケロッとして言う。
 そうしたらもう何を言えばいいか検討つかなくなって、折角重苦しい雰囲気から抜け出したにも関わらず双方黙ってしまった。

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×××××中学校の七不思議 甲斐田正秀 9

「そこまで吹っ飛ばされた。バシィってな、叩きつけられた。窓硝子が体中に刺さってくるわ机や木片で顔も肺も潰れるわ炎が服に燃え移るわで……酷いんじゃぞ、破片が目やなんかにも瞼の上から突き刺さっとるから、霞む目ちょっと開いて、首も下を向いたまま動かんから、自分の体の様子だけ分かったんじゃが、あの時窓側に向いとった右上半身にワァーっといっぱい硝子片が刺さっとるんよ。その溶けたのなんかもただれた身と同化して黒いんだか赤いんだか何なんだか……お前、集合体は大丈夫な方か?」
 甲斐田はニヤニヤしている。
 俺は何も言わなかった。勿論笑いもしなかった。
「あん時の姿にもなれるが……まあやめとくか」
 何故こいつは、こんな酷い話をヘラヘラしてできるのだろう。幽霊であることよりもずっとその方が不気味だ。
 俺はこの話を聞いて、本当に辛く思った。戦争の不条理も悲しんでいるし、甲斐田の味わった痛みに胸も痛む。右腕に手を当てて、むず痒い感じもした。でも、そんな薄っぺらい感情よりも何よりも深く、そんな酷い経験を笑って語る甲斐田が腹立たしくて仕方ないのだ。
 俺は拳に力を入れてその怒りをできるだけ態度に出さないように堪えた。爪が手の平に刺さる。でも痛みはなかった。そんなのを考えられないくらい頭がいっぱいだった。
「……と、まあこんな感じだが……っておい、お前」
 話し終えたようだ。しかしその途端、何だか焦った様子で俺に話しかけてきた。
「やっぱり、嫌だったか」
 甲斐田は心配そうに俺の顔を覗く。
「……違う」
 俺の声は震えていた。
「何でそんな風に言うんだよ」
「何でってお前が訊いたからじゃろ」
「違う、そういうことじゃない」
「じゃあどういうことだ」
 鈍い甲斐田が恨めしかった。怒鳴ってやりたい。でも、彼にそんなことはできない。そんなことはしてはいけない。
「おかしいだろ。自分が死んだときのことだぞ。大したことじゃないみたいな」
「もうしばらく経っとるからのう。今じゃ気にしとらんよ」
「命を何だと思って――」
「じゃあ」
 俺がキレかけたところで、甲斐田は声を張って俺の発言を制した。大声ではあったのに、怒鳴っているわけではなくて、でも怖いという印象を受けた。それは霊的な力だったかもしれないし、そうでなかったかもしれない。

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×××××中学校の七不思議 甲斐田正秀 8

「でな、実際ここいらにアメリカが爆弾を落とすことは殆どなかった。じゃから今回もそのクチだろうと思って油断しとったんじゃな。でもボーイングは確実に近づいていた。警報は依然やまない。もしかしたら今回は、と、ちと怖くはあったが、本を取りにこの教室に戻った。どうせ今日に限って落としてくることなかろうし、落ちても学校にピンポイントで当たるまいとたかを括っとった。それに何より、アメリカの兵器を前に、勉強すら諦めるのが嫌じゃった……そう思ったのが間違いじゃった。よう考えれば、学校がここいらで1番大きい建物じゃったし、軍の駐屯地は隠れとったから学校が狙われるに決まっとったんじゃが、そういう可能性はもっぱら排除して考えんかった。とにかく本を取りに行きたくてしょうがなかった。それで急いで3階まで駆け上がって、丁度、わしが机の上にあった本を手に取ったとき、この教室に焼夷弾がヒューッと落ちてきた。お前は見たことないじゃろう、まああっちゃ困るが、ありゃ考えた奴は本当の非道だったろうなあ。木造の日本家屋が燃えやすいように、火薬だけじゃなく油を入れるんじゃ。だから爆風と一緒に燃えた油が飛んできた。あん頃は校舎も全部木だったからのう、すぐに一面焼けた。もう遅い時間じゃったからな、わし以外には生徒はおらんかったから良かったと思うが、安心したのも束の間のことで、すぐにも第二陣が降ってくる音がする。でも火に囲まれて逃げられんし……背水の陣、四面楚歌、そんな様子じゃ。熱いを通り越して、皮膚がジリジリ唸るように痛んだ。自分は死ぬんじゃと確信した。わしは元々卒業したら早々に海軍に志願しようと思っとったから、もちろん死ぬ覚悟もできていた……と、思っとった。死ぬときになってわかったが、わしは本当は死にとうなかったんじゃ。まだ生きたい。そう思ったとき、2発目が落ちて、わしは割れた硝子や机と一緒に、そっちの方……」
 そう言いながら俺、ではなく、その後ろ――黒板を指さした。

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×××××中学校の七不思議 甲斐田正秀 7

「わしはな、高等小学校2年の時分にここで死んだ。酷い死に方……確かにそうだったかも知れん。1944年の8月にあった空襲だ。わしはそんとき、兄ちゃんが海軍に志願して出てった後じゃったけ、家じゃ妹弟がギャーギャーうるさくって世話もせにゃいけんかったからのう、学校に残って考査の勉強しとった。そんとき……5時50分くらいじゃろか、空襲警報が鳴った。ありゃ気味悪い音でもう、忘れたくても忘れられん、何回何十回も聞いた酷い不協和音じゃ。今でもたまに鳴り出すぞ、頭ン中でな。当然それを聞いた途端にわしは荷物持って急いで教室から逃げ出して、防空壕に潜り込んだ。学校の防空壕ってのはな、不思議でどこからか人が湧いて出て、たくさん入っとる。もうすし詰め状態よ。それでも何とか入れたから、ボーイングが去るまでじっと待ってようと壕の入口付近でしゃがんでいた。そんとき、わしは重大なことに気付いた。本を1冊、置いてきたんじゃ。今思うと下らない。じゃがそんときは死活問題じゃった。命あっての物種というが、もう1冊買う金もないし、それがなければ技師を諦めなくてはいけないという焦りがあった。もうその考えで頭がいっぱいだった」
「技師?」
「ああ、わしはちっこい頃から飛行機の技師になりたくてのう。そんでわがまま言って母ちゃんに高等小学校に入れさせてもらったんじゃよ。兄ちゃんが海軍の戦闘機乗りで、それを安全に整備して、空の勇士たちが無事に帰ってこられるような戦闘機に乗せたかったんじゃ。後方で働けば殉死はできんが、せめて、兄ちゃんらに正しい戦死を遂げてほしかったんじゃ」
 正しい死。
 何だかもやっとした。
 正しい死なんてあるのか?実兄に死を望むか?本当の望みは正しい戦死なんてものではなくて、帰還ではないのか?
 俺の中に湧いた感情は確実に同情や悲観ではなかった。多分、多分だけど、軽蔑だ。何に対してかは分からない。目の前にいる小さくて痩せた少年の話を止めてやるべきだと思ったが、そのための理由付けもできないから、口をつぐんだまま甲斐田の話を聞くしかない。

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憧憬に泣く 9

 理想と現実の落差に戸惑う善。
 かつての自分のように大切な人を亡くした善。
 それでも現実と向き合うことを選んだ善。
 どうしても、そんな彼のことが尊いものに思えて仕方がなかった。STIは彼のような若人を失ってはいけないと思った。
 善の手が部隊長の胸元からはらりと落ちた。それも、一つの雫とともに。全身から力が抜け、その場に座り込んだ。
 涙は次々頬を伝い落ちてくる。それを必死に止めようと掌で拭うも嗚咽が漏れてくる。
「うっ……うっ……駄目だっ、駄目だっ……」
 善は嗚咽の間に歯を食いしばりながらぼそぼそ呟く。
「なあにが駄目なんだよ」
 部隊長は冗談めいて言った。
 十秒程度の嗚咽の後、善はかろうじてか細く声を漏らした。
「……泣いちゃっ、駄目なんだ……」
 ――和樹はあの瞬間、泣けないまま死んだのに。自分だけ泣くなんて。
 そう思うと情けなくて、切なくて、和樹に失礼な気がして、今まで一度も泣けなかった。泣きたくなかった。しかし今は涙が止まらない。
 部隊長は頑固な少年の不十分な回答に思わず苦笑した。
「別に泣けるときに泣いときゃ良いだろーが。こんなことでもねえと、スパークラーはおちおち泣いてもいらんねぇからな」
 部隊長はカラッと気持ちよく笑った。
 その言葉に、善は幼い子供のように声を上げて泣いた。
 善は一歩、前に進むことができた。

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憧憬に泣く 8

「俺はダチの死を知って十分後にはケロッとしていつもの業務に戻ったんだ。今だってあいつの死をどうとも思ってない。悲しくないし悔しくない。――だって、あいつのことはもう忘れちまったんだからな。
……あれからずっとそうだ。死んだダチは全員いなかったことにした。あいつらが仲間だったことは覚えてる。でも全然そんな実感がねえんだ例えるなら、『お前の生き別れの妹だ』って言われてブロンド美女の写真見せられるような感じだ。もうあいつらとの思い出は1つも思い出せねえ。姉貴が死んだときに何も思わなかったのは流石に自分でもビビったぜ。
今俺は、誰が死んだってなんとも思わねえ。現実を見ないことにしちまったからな」
 そこまで一気に話すと、善の反応を待った。しかし実際より小さく弱々しく見えるその少年は少しも動こうとしない。ただ、部隊長の襟にある手には一切の力がなく、少し後ろに下がっただけで勝手に外れそうなほどになっていた。
 いまだ説得に成功しない状況に部隊長は戸惑っていた。正直、自分で言っていながら説得になっているのかは甚だ疑問である。思いついたことを後先考えず連ねているからだ。
 でも今はとにかく、善に分かってほしいことがある。その衝動に駆られて止まらないのだ。
「なあ善。お前は強いんだよ。現実と向き合って苦しんで、そうやって得た信念ってのは実力行使じゃどうにもならねえくらい強い。俺はもう本気で人を救うことはできない。心が死んじまったなんてのは言い過ぎだが、まあ、死に対する感情は専らなくなっちまったわけだ。そんな人間が人を救おうとしたところで、救える命も切り捨てちまうのがオチだ。だから、つまり、俺が言いてえのはな――」
 部隊長は少し照れくさそうに言うのを躊躇ってから、思い切り良く言った。
「お前は俺なんかよりずっと、この仕事に必要なんだ」
 それが今、善に1番言ってやりたいことだった。

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×××××中学校の七不思議 甲斐田正秀 6

「で、何でそんな触られるの嫌がるんだよ」
「ウーン、何かな、ゾワッとするんじゃよ、ゾワッと」
「ユーレイってそんなモン?」
「知らんがな。マァ、あの世のものとこの世のものが交わるってのは健全な状態じゃあないんじゃろ」
「ふうん」
 俺は生返事をし、次の質問を投げかける。
「幽霊なのは分かったけど……あんたホントに甲斐田正秀?」
「何故疑う」
「だってあれだろ、甲斐田正秀って『赤と青、どっちが好き?』って訊いて、どう答えても死ぬっていう怪談だろ」
 当然のように訊くと、甲斐田は軽く吹き出して馬鹿にするように笑った。
「んな訳なかろーもん。来る奴みんなに話しかけとるから、面白いように話に尾ビレつけてったら原型がなくなったんじゃろう」
「え、じゃあ酷い死に方をしたってのも?」
「酷い?」
 そう繰り返すと、少しの間自分の顎に手をやって考え込む姿勢を取って静止した。「あー」とばつが悪そうに話を切り出そうとするが、やっぱり駄目だというふうに頭を掻いてまた黙る。
 彼が個人的に話したくないというような態度ではない。どちらかというと、相手が良ければ話すけど、みたいな雰囲気だ。
 何度かそれを繰り返して俺も耐えかね「何だよ」とこちらから仕掛けた。俺がなにか言わないと何となく、彼が霞になって逃げてしまうような気がしたのだ。
「話したくないのか?」
「んなこたーない、まー確かに、酷いって言えば酷かったかもしれんと思っただけじゃ」
「話す気ない?」
「お前がえがったら」
「俺は良いよ」
「そんなら話すが……戦争の話じゃぞ、よくある話」
「へえ。試しに話してみろよ」
 俺が乗り気な様子を見せると、甲斐田は気不味そうに自分が死んだときのことを話し始めた。

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憧憬に泣く 7

「俺は知りもしない一般人のことなんかどうでもいい!俺がほんとに守りたかったのはっ、俺の大事な人達なのにっ」
 善は目に涙をためて叫ぶ。今まで本当に思っていたことを。
 人々を守るのに憧れたのではなかった。世界だなんてそんな大袈裟な話ではなかったのだ。ずっと、人々の安寧を守り『家族や友人を笑顔にできる』スパークラーに憧れていた。自分の周りの人が幸せに暮らす。それだけで良かった。
 それなのに。
「駄目じゃないか!何もできないじゃないか!スパークラーなんてなった意味ない!」
 善は膝立ちになって荒々しく部隊長の胸ぐらを掴んだ。部隊長はそれを拒まなかった。
「……スパークラーなんて……何もできないくせに……」
 うなだれて呟いた言葉は、高く積もった雪のように重く冷たく響いた。
「なあ善。お前、ホントは思ってんだろ。何もできないのは自分だって」
 部隊長の声はぶっきらぼうだが優しかった。彼の服を無造作に掴んだ手から、ほんの少しだけ力が抜けた。
「でもな、そりゃ見当違いだ」
 それから部隊長は善からなんの反応もないまま続ける。
「……俺の話をするが、俺は、人を守るその勇姿に憧れてスパークラーになった。あの頃はSTIの宣伝を本気にしてた。丁度、今のお前みたいにな。でもな、初めてダチが死んだ時、お前みたいにはならなかったんだよ」
 善は俯いたまま「流石部隊長だよ、強いんだな」と震える声で皮肉を漏らした。強がらないと涙が溢れてくると分かっていた。
「誤解すんな善。俺は強かったんじゃねえ。人一倍弱い人間だったんだよ」
 部隊長の言葉に善はゆっくりと顔を上げた。部隊長は苦しそうに表情を歪ませながら笑っていた。

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×××××中学校の七不思議 甲斐田正秀 5

「お前、信じとらんな」
「確かに、にわかには信じがたい。証拠はないのかよ」
「証拠ォ?ウーン……」
 甲斐田は首を傾げる。こう言われて何も言えないとなると、何だか胡散臭く思えてきた。
 やっぱり嘘か。
 白けて踵を返しかけたたとき、
「仕方ないのう」溜息を吐いて無言で手招きした。やっぱり俺はこの子供が霊か否か気になって仕方がなかった。どことなく怪しいと思ったが自分の好奇心に抗えるほど、俺は大人ではなかった。
 空き教室に入ると、甲斐田の方もこちらに歩み寄り、目の前までやってきた。
 甲斐田は今、友達と雑談するとき程度の距離にいたものの、身体が透けて向こうの壁が見えるだとか、地面から浮いているだとか、そんな様子は見受けられない。だからまだ半信半疑だ。
「ちと手ェ触ってみぃ」
 甲斐田は右手を差し出した。俺は少し躊躇しつつ、不愉快そうに(まだ何もしていないし何も言っていないのに、だ!)じっと目を閉じる少年の顔をチラチラ覗きながらその手に触れようとした。
 触れられなかった。
 代わりに、甲斐田は「うう……」と唸り、俺の左手は空を切った。
 信じられない。嘘だ。
 俺はもう一度甲斐田の手に触れようと試みるが、何度やっても何も感じない。それを5回程度繰り返したところで、触れられぬ手の持ち主は身震いをしてそれを引っ込めた。
「もー分かったじゃろーが!」
「あーうん」
「……面白がりおって……」
 甲斐田は恨みがましく呟いて俺を一瞥した。気を悪くしたらしい。そっぽを向いてしまった。少し申し訳ない。
「いや、それはごめん。あんた、触られんのやなんだ」
「まあな」
「なんで?潔癖症なの?」
「別にそんなこたぁないが……お前、調子乗りすぎって言われるじゃろ」
「なんで知ってんだよ」
「……素直な男じゃのう」
「別に良いじゃんかよ」
 ……何か感心された。気に食わないな、さっき申し訳ないといったのは撤回しよう。
 しかし機嫌を戻したようなので安心する。奴も奴で、素直で単純だ。

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×××××中学校の七不思議 甲斐田正秀 4

 そこには少年がいた。坊主頭に学ランをキッチリ乱さずに着ている、俺と同い年くらいの。まさに昭和の子供という様相だ。
 俺は驚いたのと怖いのと意外な展開についていけないのとで、声も出なかった。
 いやしかし、まだ生きた人間でないと決まった訳ではない。話してみれば分かるはず……。
「ええと……」
と思ったが、俺もそこまで社交的ではなかった。一度言葉に詰まるともう喉につっかえて何も出てこない。俺はどうしようもなくなって目を泳がせた。
「お前大丈夫か?忘れモンか?」
 少年が心配する声が聞こえる。それに答えるべきだったが、いろいろな思考が頭の中をぐるぐるして、結局質問には答えずに、俺の方から問いかけてしまった。多分、今俺が一番気になっていることなんだろう。何しろ、このことだけ分かれば何もかも解決するのだ。
「……あんた、名前は?」
「お前分かってないで喋っとったのか。面白い奴じゃのう」
 少年はハハハと声を上げて笑った。そして自慢気に告げる。
「甲斐田正秀だ。お前も聞いたことあるじゃろ」
 それを聞いた途端、胸がざわついた。身の毛もよだつってやつだったろうが、ただ、少し興奮もしていた。一瞬、風邪を引いたような心地になった。
「かっ甲斐田正秀?じゃあ、あんた死んでるってこと……?」
「そうらしいのう。別に死ぬつもりはなかったが」
 その言葉にゾクッときた。背筋に冷たいものが走ったという感じだが、笑いも込み上げてきて、要はテンションがおかしくなっていたのだ。
 いや、待て。
 現実的に考えろ。今俺の目の前にいるのは、ただ甲斐田正秀と名乗り死んでいると自称しているだけの男だ。彼が言っていることを信じられる証拠は一つもない。
 俺はいつの間にか怪訝そうな表情をしていたらしい。少年は……いや、ここは(確信はないが)甲斐田と言うべきか。甲斐田は口を尖らせた。

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憧憬に泣く 6

「善」
 少年の名を厳かに呼び直した。
 少年の方は気持ちが落ち着いてきたのか前と同じように目を伏せている。
「お前、親友が……よく闘ってくれたらしいな」
 部隊長は言葉をよくよく選んで、優しい口調で切り出した。
 善は未だ何も言わない。
「善。よく聞くんだ。これからスパークラーをやっていれば仲間を亡くすことは間々ある。これは仕方ないことだ。親しい人間を亡くすこともあるだろう。だが、我々はそんなことで止まってはいられない。今だって、いつどこでカゲが発生するかも、それによって一般人がどれほど被害に合うかも分からない。だから、立ち上がれ。強くあれ。お前だって、そんなスパークラーの姿に憧れたんだろ?」
 部隊長は善の目をずっと見ていた。善が彼のことを見ることはなかった。ただ、俯いたまま小さくだが口を動かして何かを言っている。
「どうした、善」
 問うと、段々聞こえる大きさになっていった。
「か……は……和樹は……」
「和樹は、何だ」
 部隊長はそれだけ言って、どもる善の目をジッと見つめ続ける。
 すると、10秒程度経って善は顔を上げて、部隊長の目を鋭く睨んで叫んだ。
「和樹はまだ15歳だった!やっとスパークラーになれたって喜んでた!それを何で!何で守れないんだよ!何で死ななきゃいけなかったんだよ!」
 善はずっと思っていたことを吐き出した。
 和樹が死んで悲しかった。虚しくなった。カゲと闘うのが怖くなった。でも本当は、それで籠もって震えているのではない。
 本当は、本当は――

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憧憬に泣く 5



 STI寮第3棟、204号室。まだ入学して間もない少年が一人、ベッドの上で膝を抱えたまま震えていた。
 一年生の寮は基本的に四人部屋で彼の部屋も例にもれないが、彼がこの状態になってからは寝る時以外はルームメイトは戻ってこなくなった。勿論鬱的な状態の人間を見ることの嫌悪感はあるが、和樹を知る者は、彼のことが嫌でも思い出されて気が滅入ってしまうのである。
 一日目のうちはルームメイトも善を元気付けようと努めたが、それも徒労で諦めてしまった。
 帰ってきたときも善を刺激しないように静かに扉を開けて、向かって左側にいる彼を横目で見ながら静かに用を済ませ出ていく。
 それ故、ここ数日善は本当に孤独であった。

バァーンッ!

 寂寞の中に破裂音のような轟音が響いた。
 暫く同じ様子だった善も流石にそれには驚いて、音のした方、部屋の入口に素早くかっと開いた目をやった。
 扉が開いたのだ。
 大きな音を立てて、誰かが入ってきたのである。
「へい新人、久し振りだな、元気してたか!」
 そしてゲームセンターのアーケードゲームコーナーで会話するときくらいの大声で、見るからに元気ではない善に、その闖入者は挨拶した。
 一時間弱前に少年と娯楽室で話していた青年であった。
「……部隊、長?」
 善は唖然としてそう漏らした。挨拶には一切反応しない。しかし少し顔を上げたので顔を見ることはできた。
 部隊長は善の顔を見つめると、拍子抜けしたというような顔をしてずかずかと善の前まで歩み寄る。そして驚きで目を見開いたままの善の顔に目前十数センチというところまで近付く。
「善お前、泣いてないんだな。まだ一度もか」
 善の顔には水滴などはついていないどころか泣き腫らした様子もなかったのだ。普通、ここまで参っていると少しでも泣くものだが、彼にはそんな様子はない。善自身も部隊長の問いにぎこちなく首を横に振った。
 すると、部隊長は訝しげな表情を苦笑に変え、手を縮こまった少年の頭にやろうとした。しかしハッとして手を引っ込め、口を真一文字に結んだ。

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×××××中学校の七不思議 甲斐田正秀 3

「おいお前信じたのかよ。俺でもさすがに本気にしなかったぜ?あんな馬鹿みてーな話」
「やっぱバカみたいっすよね」
 俺は自然に真剣な顔になっていたらしい。先輩は少しオドオドして目を泳がせて、だんだん心配になってきたというようだった。なんやかんや言ってこの人は鬱陶しいが後輩思いの優しい男なのだ。
「何かあっても俺知らねーよ?言ってなかったけどさァ、確認しに行ったって人はいるらしいけど、その後のそいつらの話はないんだぜ?いや信じてないけどさァ」
「どうせ嘘ですって。まあ、結果は報告しますよ。期待はしないでください」
 先輩は納得していない様子だったが、一回溜息を吐くと
「おっし!分かった。そこまで言うならお前の骨は拾ってやる!」
「いっ……!」
にかっと気持ちよく笑って俺の背中をバンバン叩いた。
 部活が終わると大体5時55分くらいで、俺は先輩の協力もあり、せかせか下校を促す先生の目を盗み第二校舎に入り込んだ。
 第2校舎は特別教室が連なる3階建ての建物だ。部室棟も兼ねてはいるものの、それらは総じて文化部の持ち物。彼らはキッチリ時間を守って完全に下校したようで、もうすでに校舎は静まり返っていた。だからか、いつもは感じないような冷めた感じがした。例えるなら、夜の明けきらないうちのヒンヤリ青い空気。あれが立ち込めていた。夕陽が差し込んでいたから確実に色は赤や橙だったが、青かったのだ。怪奇が起きてもいないのだが、おかしな世界に迷い込んだ心地がする。
 半ば気が滅入りそうになりながらも階段を登っていく。面白いことでもあるんじゃないかと段数を数えたりしてみたが、13段。通常通りの、いともたやすく我々を裏切ってくれる階段だった。
 階段を上り切ると、踊り場を経由し廊下に出る。この時点では怪異の1つも見ていない。このあと見ることができる保証も勿論ない。
 一歩一歩、マア、慎重さもなく通常通り廊下を進む。3階分階段を上った後なので少し動悸が激しい。
 1番南の空き教室に着いた。時刻は――
「まだ帰っとらんのか」
 教室の中から男の声がした。古風な喋り方ではあるが、声変わりの最中の掠れた、少し幼い声だった。
 俺は驚いて、時間を見る前に声の方を向いた。

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憧憬に泣く 4

「それで、善くん。彼自身の心身もそうですが、やはり業務に参加しないのも問題ではありませんか」
 少年が質問すると、部隊長は「ふうん」と溜め息を吐いて立ち上がった。代わりに今まで座っていた場所に磨いていた獲物を放り投げる。いつも少し訓練中に目を離しているだけでこっ酷く怒られているので、それを見て少年は反射的にビクッとした。
 そんな様子も気にせず彼は窓際まで行って、巡視当番のスパークラーがせわしなく辺りを見回す様子を見下ろした。ここは5階なので地上にいる人間がずいぶん小さい。
「では君、この2日間、彼がいないことで業務に支障が出たことはあったか」
 至極冷静に訪ねた。窓の外を向いていたので、表情は見えない。
「そ、それは……」
 部隊長が何ということもないように投げた問いに、言葉が詰まった。
 そうだ。自分でした問いながら、本当は答えは出ていたのだ。
 もともと善は補充枠ではなく追加枠で入隊してきた者。その上9自成隊は人手不足だった訳ではない。今回も補充枠から溢れた人員をおおよそ名前の順に割り当てていったと、そのパターンであることは想像に難くない。また、単純に彼は新人だ。つまり、善が業務に参加しなかったところで、何ら問題はないのである。
 それでも、少年は引き下がりたくなかった。善は15歳。まだ子供だ。そんな未熟な人間に一人でこれを乗り切れというなど、余りに酷だ。自分と年も近いため余計他人事とは思えない。
「行ってあげましょう。こんなの、善くんには耐えられません」
 少年は半ば懇願するような口調になる。
「行かねえよ。言ったろ、ほっとけって」
 しかし部隊長はいとも容易く申し出を突っ撥ねる。
「じゃあ自分が行きます」
「いや、それは駄目だ」
「何故です」
「命令だからだ。子供は黙って優秀な大人の言うこと聞いてればいーの。さ、分かったら自分の部屋に帰った帰った。分かってなくても帰ったー」
 そう言って部隊長はシッシといい加減に片手で追い払う仕草をして、そっぽを向いてしまった。少年はまだ少しも納得していなかったが、言い返すこともできず「失礼しました」と娯楽室を出た。

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憧憬に泣く 3

 部隊長は少年がやって来る前にすでに娯楽室で待っていて自らの弓矢型フォトニック・アームズを磨いていた。『開けたら必ず閉めろ!』『内鍵使用禁止!』 の張り紙がされた扉のドアノブを捻り彼を正面に見受けると、驚きつつも電気を点け一礼する。
 娯楽室は教室より一回りか二回り小さい部屋で、グレーの2、3人掛けのソファが2つ向かい合い、その間に木製の小さなテーブルが置かれている。また、部屋の南には折りたたみテーブルとパイプ椅子、ホワイトボード、スクリーンが並ぶ。窓は部隊長の座る北側に1つあるが、採光機能はなく、電気を点けない昼間は薄暗い。だからこの娯楽室はスライドで作戦を確認するか、映画を見るか、大人数でボードゲーム大会をする以外には殆ど使われない。
「おっせーなぁ、待ちくたびれちまったぜ。……んで、用ってなんだよ。俺ァこれからアイスタ(アイドル・スターズというスマートフォンゲームの略称)のイベントに参加しなきゃいけねーんだよ、だから手短に頼む」
「善くんこと放ってゲームですか」
 少年は彼にしては低い声で呟いた。いい加減な上官への憤りを物理的攻撃に自動変換しないようにするので精一杯だった。
「上官のこと呼び出しといて態度がでかいぞ。これが一昔前なら往復ビンタもんだぞ」
 不満を垂れ流す部隊長を無視して、少年は手が出る前に単刀直入に本題に入る。
「隊長、善くんのこと、良いんですか?」
「いーんだよ。ああいうのは新人にはよくあんだよ……特に、憧れだけでスパークラーになった、絵に描いたようなプロパガンダ坊やには」
 依然フォトニック・アームズに目をやったまま、変わらぬ緊張感のない顔で言い放った。おちゃらけた言い方ではあったが、どこか淡々としている。やはり多くの下っ端スパークラー(部隊長も下っ端だが)と違い大学進学後の除隊期限延期組なだけあって、余裕と冷淡さが見て取れた。
「そんな言い方ないじゃないですか」
「あるね。ありありのオオアリクイ」
「やめてください古いです」
「え、そうか?だってあの児童書の……」
「それはパロです。元ネタはもう少し前の芸人の……じゃなくて!」
「どっちが古いんだか」
 部隊長がわざと聞こえる程度に呟くと、少年はキッと余裕そうに薄ら笑うその男を睨んだ。
 それから形式的に咳を一つして気を取り直すと、また真面目な顔に戻る。

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憧憬に泣く 2



 和樹がカゲになった。
 和樹はSTIの基礎教育修了後一ヶ月もしない内に九州カゲ大規模出現のため遠征に行った。和樹は同級生たちの心配する声も真面目に聞かず(聞いたところで遠征メンバーから外れることはできないが)、憧れの一人前のスパークラーへの第一歩だと喜び勇んで輸送機に乗って行った。それももう先月のことだ。
 そして2日前、カゲになったという知らせが鏡都の同級生らのもとに届いた。
 今年の1年生の中では初めての殉死者であった。
 彼らの間に衝撃が走り、彼の友人や家族は静かに泣き崩れた。
 善もその中のひとりだった。
 ――善は和樹と小学生のときからの友人だった。2人は幼い頃から、命を賭して人々を守る若き勇士たちに憧れた。一緒に立派なスパークラーになって世界を守るのだという大それたことを誓い合った。そして2人は優秀なスパークラーを輩出していることで有名な地元のSTIに入学した。 基礎教育期間が終わると、善が鏡都宮下中隊第9自主結成部隊、和樹は第4自主結成部隊に配属されしばしの別れを告げた。その『しばしの別れ』が『今生の別れ』となるとは――
 善はその結果に至る度、頭を抱えて奥歯を割れるほど強く噛み低い唸り声を上げた。全身が震えて、何かを殺してしまいたいような気分だった。
 この2日間で何十回とこの思考回路を繰り返し、何十回と和樹が死んだという事実を否が応でも反芻し、もう善の頭はショート寸前だった。
 彼は寮の一室で、ベッドに潜り込んで縮こまっている。2日前から訓練にも巡視にも行かず、食事にも殆ど手を付けず。
 部隊のメンバーは、部隊長に放っておけと命じられているため何もせずにいた。それでもやはり弱りきった後輩の姿は見るに堪えない。9自成隊(自結隊は響き的に縁起が悪いためこの辺りではこう略す)のメンバー、去年入ってきた少年が部隊長に遂にそのわだかまりを打ち明けるため、彼を呼び出した。

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輝ける新しい時代の君へ ⅩⅪ

「でも、逃げていたとはいえ、戦傷で死ねただけ幸せだったでしょうね」
「それは、もっと良くないことがあるのか」
「あるわよ。勇んで出征したのに、病気や飢餓で亡くなる方が沢山居たの。チフスや結核なんかはよく聞いたわ。前線に行っても病や飢餓や……仲間内の争いで亡くなられる人が相当いたそうだけど。……邦明さんと同じ班の方が……先達さんが伝えに来てくれた。だからあたし苦しくなって、折角教えてくださったのに、あたしあの人に酷いこと言って……」
「?」
「すまないね、脱線しちゃったわね。この手紙は、その時持ってきてくださったのよ」
 祖母は『妻子へ』と書かれた茶色の封筒を手に取った。
 満州から届けられた物は手紙だけのようだ。遺品がないことには少し疑問を持った。何か事情があって他のものが届かなかったのかもしれないが、それにしてもこの家に何も残っていないというとこはない筈だ。何か理由があるのだろうか。
 遺品がなかったからと言って、だからどうしたという話になるので尋ねるのはやめてしまった。
 祖母は「これ、読んでみる?」と少年に『妻子へ』の手紙を渡した。
「い、良いのか」
 少年は困惑した。読んでみたいという気持ちは勿論あったが、これは祖母に宛てたものだ。同時に抵抗もあった。
「ええ、きっと邦明さんも望んでいるんじゃないかしら。分からないけれど」
「てきとうだな」
「良いのよ、あの人がてきとうな人だったから」
「それなら……」
 少年はおずおずとそれを受け取ると、そっと二枚の便箋を取り出した。

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輝ける新しい時代の君へ ⅩⅩ

「あなた、満州って知ってるでしょ?」
「知っている」
「あの人、歩兵の一等兵として満州に行ってたのよ。南支の方。そこでね、死んじゃったの」
「戦死してしまったと聞いている」
「そうよ。あの人、転進中に自分の中隊を見失って班の人、先達さんというんだけどね、その人と二人で迷子になってたの。頭悪いわよねぇ」
「……」少年は何を思えばいいか分からなくなって沈黙した。
「それで二人で南下した中隊を探しているときに、八路軍に遭遇して応戦中に被弾したって。右腕の、上の方に一発と、おなかに一発——。邦明さんたら、おっちょこちょいなのは分かるけど、本当に、出征したならちゃんとしてくれないと。でも先達さんを助けて死んだって。先達さんも兵站病院を見つけて駆け込んだらしいのだけど、翌日には……。蒸し暑くって雨が降っていて、あの頃は、前線じゃ病院は酷い環境なのよ。まともに休めやしない。外にいた方がましだったくらいらしくてね……沢山苦しんだでしょうね……あの人はもっと幸せになるべきだったのに」
 祖母は冷静に振舞っているが、何かへの深い憎悪がその目からは感じられた。しかしその『何か』とは、鉄のように凝固しているのに掴みどころがなく、憎悪を持て余した虚しさに駆られているようでもあった。
 同時に、話を聞いて、あの頃梅雨の雨の日にだけ姿を現さなかった理由が分かった。あの時現れなかったのは、梅雨が嫌いだったからというより、怖かったからだったのだろう。
当然自分はまだ死んだことがないので、どれほど恐怖を感じていたのかは計り知れない。どんなに彼が痛くて辛くて死にたくなくて逃げ出したくて、しかし逃げ場がないという絶望の淵に居たとしても、あの時の少年には知る由もなかった。今だってどうやっても分からない。彼からすれば『分かる』など無責任な言葉で一蹴されるよりは良いのかもしれないが、少年はどうにも解消しようがない後悔の念にさいなまれた。

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輝ける新しい時代の君へ ⅩⅨ

(やはり、訊いてはいけなかったのか)
 今の質問をするために持てる勇気を使い切って、少年の心の中にはもう不安しか残っていなかった。急に後悔が膨張して、「いや、今のは無しだ。ごめんなさっ……」と慌てて前言撤回しようとした。
 すると、祖母は何も言わずに立ち上がり、奥の襖の向こうに手招きした。
 襖の奥に入ると、そこは六畳半の和室だった。あるのは正面に押し入れと仏壇、小さい座卓に箪笥に旧式テレビにと、誰かの部屋の様な雰囲気だった。障子を閉めているとはいえ、妙な静けさが部屋を包んでいる様に感じた。空気が悄然としていた。襖のところに立って、少年は動けなくなった。
 祖母はこちらに目配せし、仏壇の前に正座した。それを見て正気に戻ったようにハッとして彼女の横に立った。
「座りな」
 祖母は静かに言った。
 仏壇には一枚の写真が、黒い写真立てに収められている。それは白黒で、見たことのある顔だった。微塵も敵意を感じられない垂れ目が特徴的な坊主頭の男。
 あの男だった。幼少期、あの公園で出会った……幸田邦明。
「この人……」
「睦葵のお祖父さんよ」
 祖母は愛おしそうに写真を眺めた。 
 徐に線香を上げ、合掌をした。少年も見様見真似でワンテンポ遅れて拝んだ。
「少し待ってなさい」
 そう言って、古い箪笥から桐箱を出してきた。B5コピー用紙くらいの大きさで、中には封筒や葉書がいくつか入っているだけだった。随分丁寧に保存している。これが男の、幸田邦明の、祖父の書いた手紙だということはすぐに分かった。
 一番上の封筒には草書体かと思う程崩して、堂々たる『妻子へ』の文字が書かれていた。
 にわかに祖母が口を開いた。

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輝ける新しい時代の君へ ⅩⅧ

 高校生になって意味が分かった。

 少年は成長して、様々なことを知って、女の格好もとっくのとうにやめた。身長は一六五センチメートルを超えたところで止まってしまったが、重大な病に侵されたり大怪我をしたりすることなく健康に育った。
 地頭が良かったこともあり成績も良好だ。高校受験は無事に成功し、県内でも屈指の公立高校に入学した。感情の起伏に乏しいことや無口なことは変わらず友達はあまりいなかったが、それなりに楽しく生活していた。
それでもあの男について考え続けていた。男の正体も察しがついた。
 だから彼に何があったのか知りたくて、思い立ってからはすぐだった。次の日の正午には、田舎に住む父方の祖母の家の居間にいた。
「一人で来たなんてすごいわねぇ」
 祖母は冷えた麦茶を出しながら感心した。祖母は明るくサバサバした性格の人で、大人しい父親とは性格面ではあまり似ていないが、余裕のありそうな顔立ちはよく似ていた。ただ、母子の関係は良いとは言えなかった。幼少期会うことがなかったのも、それに起因するところがある。
「でも、どうしたの急に」
 祖母が少年の向かいに座って尋ねた。
 来てからずっとそわそわしていた少年は、待ちかねていたように半ば茶托に乗り上げる勢いで質問に食い付いた。
「あの、じいちゃんについて知りたいんだ」
 表情は少しも変わっていなかったが、必死だった。
「あの人について……?」
「うん。じいちゃん、戦争で亡くなったと伯母さんから聞いた。それで気になった。だから、教えてほしい。じいちゃんは何処で亡くなったんだ?どんな人だったんだ?」
 祖母は引き気味に数回小さく頷いた。
「う、うんうん。分かったから落ち着きましょ」
「ア、うん」
 少年は祖母に促されて座り直すと、心を落ち着ける意味合いで結露し始めたガラスのコップの麦茶を一口飲んだ。一呼吸おいて、彼女の俯きがちな顔を伺った。
「珍しい子ねぇ」
 そう言ったきり、しばらくの間俯いて黙り込んだ。

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輝ける新しい時代の君へ ⅩⅦ

「どうしても会いたくなったときは、九段下の神社に来るといい。そこできっと、待ってるからね」
 そういうと少年は少し落ち着いて「くだん……?」としゃくり上げながら反復した。
「そうだよ、九段下。来るなら四月の始めが良い。あそこはね、桜が大変綺麗に咲くんだ。お花見にピッタリだね」
 変に明るくおどけた。
 別れ際まで道楽的な男の発言に、涙を流すのも変に思えてきた。最後に、少しだけ笑えた。
「わかった。じゃあまってて。ぼくぜったい、行くからな」
「うん、待っているよ」
「うん、今まで、ありがと。……じゃあ……」
 じゃあね、と言おうとしたが、これで終わりだと思うとまた涙が込み上げてきて、泣き出してしまった。

 ひとしきり泣くと、心が決まったようで、早口で「じゃあな」と言ってサッサと踵を返した。
 公園を出る直前、振り返って赤くなった顔で、涙をこらえて、なるべく通常通りになるように発声した。
「まだ訊いてなかったけど」
「何かな」
「……名前!」
「名前?」一瞬何のことか分からず、怪訝そうな顔をしたが、すぐに思い出した。
「そういえば。俺は……邦明、幸田邦明だ」
「ぐうぜんだ。ぼくも同じみょうじ。幸田睦葵っていう」
「むつき……うん、良い名前だ!」
「おじさんも」
 最後にそれだけ言うと、少年は来た道を戻っていった。

 それ以来、少年が男に会うことはなかった。
 会えなかった。

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輝ける新しい時代の君へ ⅩⅥ

 翌日、少年は走った。
 公園へ、男のもとへ走った。炎天下、生温い風を全身に受けて走った。
 公園の入口に来ると、見慣れた緑色の服が見えて目を輝かせた。
「おじさん!」
 汗だくの状態でやってきた少年の慌て様を見て、男は驚いて思わず立ち上がった。
「どっどうしたの!そんなに急いで……」
「ぼくっ、ぼくっ……」
 息を切らして何かを必死に訴える真っ直ぐな瞳を見て、男は何か感じたようで、静かに微笑んで手招きをした。少年は歩いて男のもとに来て、俯いた。
「どうしたのかな」
「あの、ぼく……きのう言おうとおもってたけど、やだったから言わなかったけど……」
 少年は、ここに来る前、泣かないと決めていた。しかし堪え切れなかった。初めての大切な人との別れだった。
 言うことは決めてあったのに、口に出すと嗚咽が込み上げてきてなかなか進まない。
「……どうしたのかな、ゆっくり言ってごらん」
 男はかがんで少年と目線の高さを合わせる。すると、少年はゆっくり話し始めた。
「あの、お父さんの、しごとするところがかわって、だから、みんなで……ひっこすって。きのうの、きのう言ってて、どうしようっておもって、すぐしゅっぱつ……だから……いそいで来たんだ。さよならしに……」
 勇気を全部使って言った。声を上げて泣くことはしないが、涙は幾ら拭っても止まらなかった。
 あの時、もう会えなくなるのだと思った。
 距離的な問題とか、行動力の問題とか、そんな次元の話ではなくて、本当にもう男は消えてしまって、絶対会えなくなるんだと感じていたのだ。
 何故かは分からないが、どうしようもなく不安だった。別れを知らない少年には、底知れぬ恐怖だった。
 男は深く溜息を吐き、ふっと微笑を湛えた。
「大丈夫。会えなくても、しっかり強くやっていくんだよ」
「はなせないのやだ」
「大丈夫だって。これから君は、もっと素敵な人たちに会う。寂しくないよ」
 男は底無しに元気に言った。
「それにね、俺みたいなのにはもう関わらない方がいい。良いかい、君は輝ける新しい時代の男だ。だから俺なんかのことは忘れた方が良いのさ」
「そんなの……」
 男は励ますつもりで行ったのだろうが、逆効果だった。少年は嗚咽交じりに唸る。すると男はもう降参という風に両手を挙げて「それでも」と続けた。

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輝ける新しい時代の君へ ⅩⅤ

「ねえ、キミはいつも一人ですか?」
「ちがう。おじさんがいるからな」
「でも一人は……良くないだから、セーコさんのところに早く行く方が良いヨ」
「だから一人じゃないんだって」
「キミは……フシギな子だと……ワタシ思う」
 リイさんが公園から出た後、少年はその会話を思い出して不貞腐れた。無性に悔しくてならなかった。涙が零れそうになったが、友人がいる手前、泣くのもみっともなくてグッと堪えた。
 俯いて唇を噛む少年に、男は、何でもなかったかのようにヘラヘラ笑った。
「俺さァ、影薄いんだよね。最近は無視されることもザラだよ」
 夏の空気に似合う、涼しげな笑顔だった。
「むしされるほどなのか?」
 震える声で尋ねると、男は頭を掻いておどけて言った。
「もう嫁にもシカトされてんだぜ」
 苦笑ながらもニッと歯を見せて笑う姿がおかしくて、少年は声を出して笑った。
「なんだそれ、かわいそ」
「可哀そうだってェ?他人事だなァ……おっと、こんなことしている間にもう時間だ」
「ほんとだ」
「じゃ、今日はこれで」
「うん」
 そして少年は男に見送られ、いつも通り走って公園の出口に向かった。公園から出る直前、少年は一度立ち止まって、道路の方を向いたまま顔の汗を手で拭って「おじさん」と呼んだ。
「どうしたんだい」
「……やっぱり何でもない」
「?」
 少年はそのまま走って行ってしまった。

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×××××中学校の七不思議 甲斐田正秀

 甲斐田正秀という生徒がいた。高等小学校の時代の話だ。
彼は二年生の時に死んだ。悲惨な死だったというが、舌を噛んでだとか、皮を剥がれてだとか、八つ裂きにされてだとか、水中に縛られてだとか、今はいろいろな説が出回っている。
「そんで、甲斐田正秀が死んだ6時3分、第二校舎の3階、一番北の空き教室に行くと会えるんだ」
 部活の妙に後輩懐っこい先輩がそういう噂を話した。
「会うだけですか」
 俺は素っ気なく尋ねた。でも、本当は少し興味があった。それを表に出すと先輩は調子に乗って収集付かなくなるのでこれくらいが丁度いい。
「なわけないだろ。酷い死に方したんだぜ。ヤツに会うと質問をされるんだ『赤と青、どっちが好き?』って。そんで、赤って答えると……」
「はいはい、どうせ血で真っ赤になって死んで、青だと血ィ抜かれて死ぬんでしょう」
「よく分かったな。聞いたことあったか」
「『赤い紙青い紙』に毛が生えたような話じゃないですか」
「まあな。で、それ以外の答えとか、答えなかったらとか、知りたいか?」
「別に良いです」
「知りたいよな」
「はいはい」
「どうなるかっつーと……分っかりませーん!自分で確かめてくださーい」
「はぁ?ならわざわざ」
 引き延ばさなくても。と言おうと思ったところで顧問に「おーい、そこ集中しろー」と注意され、俺はむっと先輩を睨んだ。先輩は怖めず臆せず笑っていた。

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輝ける新しい時代の君へ ⅩⅣ

「エ、まあね。慣れさ、慣れ」
「なれると?あつくなくなるのか」
「ウーン、俺はそうだけど、君はやめた方がいいよ」
「そうか」少年はまだ納得していないようだったが、そう返した。この次の年、試しに35度も下らない暑さの中、1日冬服で過ごして倒れたというのは、また別の話である。
 また気を取り直し、「でも、かみが少ないのはいいな」と言って、少しだけ口角を上げた。
「ちょっとその言い方だと語弊が生じるから……これはただの坊主」
「そうか。ぼくもみじかいとすずしそうでいいとおもったから、お母さんに言ったら、まだみじかくしないって言われた」
「ははは、小学校行くまでの辛抱だね」
「うん」
 それからしばらく、髪型の話をしていると、公園の入り口のところに人影が見えた。この公園に、少年以外の人物が来ること自体大変稀だが、こんな時間となると一層珍しかった。
 人影の正体は、1人の若い女性だった。少年は彼女を知っていた。伯母の家の隣に住む外国人だ。10代だが、今年になって通勤のために引っ越してきて(わざわざ引っ越してきてまで就くような仕事はないと思うが)一人暮らしをしているそうだ。伯母がそう呼ぶので、少年は『リイさん』と呼んでいる。本名は知らない。彼女は世話焼きな伯母によく面倒を見てもらっていて、伯母にくっついている少年のことも可愛がっていた。だからリイさんが手を振ると、少年も手を振り返した。リイさんは少年のもとに来ると「オハヨウ、こんな時間にどうしたノ」と声を掛けた。
「いつも来ている。リイさんこそめずらしいな」
「今日仕事ある。だけど、いつもより遅い時間だから……今出勤するノ。そうしたら、キミが居る。だから、気になった」
 リイさんはあまり日本語を話すことが得意ではない。引っ越してきたばかりのころは殆ど日本語が話せず、伯母は四苦八苦したそうだ。
 日本語は得意ではないが、リイさんは丁寧に言葉を紡ぐ人でおっとりしているので少年と伯母からの好感度はなかなかのものだった。 
 3分程度会話をするとリイさんは仕事に行ってしまったが、会話の中で、いささか不自然な部分があった。彼女も日本語は不自由なので言葉の間違いも幾つかあったのだとは思っていた。その不自然さの本当の理由は後々知ることになるが、やはり気分のいいものではないことは確かだった。

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六話 一戸町のある民家にて

 父ちゃんは母ちゃんと出会う前、シベリアで働かされてたらしい。父ちゃんが何かの時に教えてくれたけど、それ以上のことは教えてくれたことがない。だから母ちゃんに訊いてみたことがある。 
「父ちゃんは中国さ行っでたか?だがらソ連さ捕まった?」
「多分なぁ。ンだども、そっだらこと直接訊いたら駄目だべよ?」
「分がってら―」
 でもほんとは分かってない。ソ連は父ちゃんを連れてって、酷いことをした悪い奴だ。それっくらいしか知らない。

 父ちゃんは休みの日はよく、縁側に出て本を読んでる。ロシアの作家の本らしいけど僕は読まない。本は文字ばっかりで苦手だから。
 僕は休みの日は、母ちゃんのお手伝いだ。僕は母ちゃんに頼まれて洗濯物を取り込みに庭に出た。ここから、縁側で呑気に今日もナントカって人の本を読んでる父ちゃんが見える。
 大人はいいなあ。休みの日にお手伝いも宿題もしなくて良くて。
 そうやって思いながら父ちゃんを観察してると、たまぁに歌を口ずさみ始める。聞いたこともない歌。
「Нет её прекрасней,Из-за тучи звёздочка видна……」
 よく聞いたら日本語じゃなかった。
「父ちゃーん、それ何って歌ぁ?」
 話し掛けたら、ぽやーって顔でコッチ向いて、ちょっと首傾げた。
「歌ァ?」
「今なんが歌ってたべ」
「あーそうかぁ。確かに歌ってたかもしんねなぁ」
「何だそれ」
 ちゃんと取り合ってくれなくてちょっとムッとした。でも父ちゃんはそのまままた本を読みだした。
「何だァ!答えでけろ!」
 そうやって怒ってみたけど、父ちゃんはにやついて真面目に聞かない。
「はっはっはっは」
「笑ってねえで!」
「はっはっは、よォし、今日は星でも見に山さ行ってみるか」

                             終

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輝ける新しい時代の君へ XⅢ

「大きくなったら読めるようになるよ。君は頭が良いからね、あっという間にね」
「それなら早く大きくなりたい」
「でもね坊や、もっと頭良くするには勉強しなくてはならないんだよ。俺はあんまりお金がなかったから小学校までしか行かなかったのだけれど、いやー、今でも後悔してるね。だってね、もう九つも下の、帝大出の二等兵がいたのだけれど、俺より年も階級も下なのに、俺より計算が早いんだ。俺が全然知らないことばっかり知っているしね。だからすぐ将校さんになったけれど。アレすごく悔しいんだ。だからね、勉強はしないといけないよ」
 少年が聞くにはあまりに長い話だったので、無表情のまま内心うろたえて、話している間、男の方を向いたまま固まってしまった。話が一段落するとやっと、かろうじて首を数度傾げた。男はその様子を不思議そうに眺め、意味が分かると慌てて「ごめん、長かったね。喋るの楽しくて」と苦笑した。
 その後も取り留めのない会話をして、少年は伯母の家に向かい、男はいつも通り手を振って見送った。

 雨が散々に降る季節もやっと終わったかと思うと真っ白い太陽の光がかんかん照り付ける季節がやってきた。まだ朝だというのに逃げ出したくなる暑さだ。これからもっと暑くなると思うと気が滅入る。音源の特定できないやかましい無数の蝉の声が、暑さを助長する。
 それでも今日も、ベンチで二人、くだらない会話を楽しんでいた。
「……あつい」
 四季の変化は基本的に楽しんでいる少年も、うだるような暑さには負けるようだった。白いブラウスの襟元をハタハタさせる。
その中でも少年は、幼心に空の美しさを楽しんだ。白く鋭い光と、終わりを感じさせない青空を映し色づく積乱雲、深緑の木々とのコントラストは、彼の心を奪うには十分だった。
「空はこんなに綺麗なのにね」
 男も少年の意見には同意しているようだったが、涼しい顔をしてにこやかに笑っている。
「……さいきんおもってたけど」
「どうしたのかな?」
「それは、あつくないのか」
 少年は男を指さして言った。『それ』というのは、男の服装の事だった。春に出会った時と同じ、くすんだ緑色の服。生地もあまり薄いようには見えない。それなのに彼は汗一つかいていない。

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輝ける新しい時代の君へ Ⅻ

 予想外の回答に「そんなわけ……」と言いかけたが、途中で止めてだんまりしてしまった。実際、そんな訳がないのだ。そんな理由で幼い子供を置いて来なくなるなんてことを彼はしないと信じていた。何か隠しているとも感じたが、考えるのは今の自分にはただただ無謀だと思った。それに、単なる直感ではあるが、追及しても誰も幸せにならなそうで、彼が言ったことは本当だと思うことにした。
 男は少年のいつもの黙り方と少し違う事に気付き、慌ててどうすればいいか分からず、目を泳がせた。一瞬少年の頭に手をやろうとしたが、それをする前に、何かを思い出したように引っ込めてしまった。代わりに、優しい声で「ごめんね、なんか変なこと考えさせてしまったかな。沢山生きているとね、たまにこういう気分になってくるんだね」と諭すように言った。その後、自分の気持ちを空気とともに入れ替えるように一回深呼吸をした。
「いやー本当にね、長生きすると色々思うことあるよ」
「おもうこと?それは、よくないのか」
「良くないことも多いけど、それだけじゃあないんだよ」
「たのしいのか」
「ウン、とってもね。坊やは本読むの好きだったね」
 少年はコックリ頷いた。
「長生きすると、たくさんの本が読める。今はまだ絵本とかしか読まないだろ」
「かん字がむずかしいから。知らないことばがおおい、大人が読んでる文字ばかりの本は、ぼくにはむりだ」
 少年は不貞腐れたように、地に着かない足で空を切る。いつも大人びている少年だが、やはり五歳児であることに変わりはない。子供らしさが垣間見えた。

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五話 ペルミのグラークにて

 グラーク内には掲示板があって、そこには大抵ソ連のプロパガンダポスターがあるくらいだが、掲示板片隅にはいつもドイツ語の壁新聞が一部はってある。俘虜の中の新聞部が手書きで月に一回書いているもので、母国語と情報に飢えていたドイツ人は寸暇できればすぐに壁新聞を見に行った。
 中にはソ連人も見に来る。アヴェリンという男は収容所内のソ連人の中でも親独派将校であることで知られていた。アヴェリンは時折集まるドイツ人にドイツ語で話し掛けては、彼らを困惑させた。
 アヴェリンは、いつもある男を気に留めていた。矯正労働から戻ると掲示板の前から離れない男である。
「面白い記事はあったか、ええと君、名は」
「エッボです。ドイツ語ですね」
「ああ。俺はドイツに住んでたことがあってな」
「へえ。面白い記事はありませんが、興味深い記事は」
そう言って、エッボと名乗った男は『ドイツ、東西に分断される』という味気ない見出しを黒っぽく汚れた指で指し示した。
「そうらしいな。こうなっちまうと、またベルリンはお預けだな」
「ベルリン、行くんですか」
「自慢だが、俺はベルリン大学を10年前に卒業しているんだ。そこの友人に会いに、年に一度」
「僕もベルリン大学ですよ、6年前に卒業した」エッボは対抗して言った。
「ほう、6年……最近だな。お前いくつだ」
「33です」
「なんだ年下じゃないか。ずっと年上だと」
「……この様相じゃ、そう思うのも無理ありません」
 アヴェリンはエッボを改めて見た。身長は低く勿論自分よりずっとやつれ痩せ小柄に見えるが、髪はぼさぼさで無精髭も生え、姿勢が悪い。40歳は過ぎていると思っていた。改めて、グラークとは酷いものだと思った。ソ連人でさえ劣悪な労働環境に辟易しているのに、寒さにも慣れず、一日カーシャ一杯と黒パン一枚で肉体労働を強いられる彼らを思うと寒心に堪えない。
「そうだな……絶対、戻れる。俺が言っちゃ許せんだろうが、俺はお前らの帰国を願ってる」
 アヴェリンは真剣な眼差しでエッボを見つめ、声を潜めつつ言った。エッボは虚ろな目を記事にやったまま、何も言わなかった。


                           終

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輝ける新しい時代の君へ Ⅺ

 遂に男は来なかった。
 この時は何か用事があったのだろうという持ち前の楽観的観測によって、男には会わないまま帰っていった。
 しかしこの日から、男はいつまで待っても来ることはなかった。降り続く好きな筈の雨も段々と重く圧し掛かるようになった。態度にも顔にも表れることはなかったが、少年は自分が思うより残念に思っていた。
 雨が嫌いだから来ないのかと一瞬思ったが、何も言わずに来なくなるなんて、そんなことを彼がするはずがないと確信していたので、仮説はアッサリ頭の中から排除された。それとも彼の身に何か不幸があったのではないか。
 不安は日に日に増していた。


 雨は一週間と三日、降ったりやんだりを繰り返した。運が良いのか悪いのか少年が出掛けていく時はいつも雨が降っていた。しかしそれも昨日で終わり、蒸し暑いことには変わりないが、雲の切れ間から日の光がクリーム色の無数の線となって地上を照らす。どんよりとした灰色の雨雲も、その時は後光が差しているようで、やけに神々しく見えた。
 今日も居ないだろうとは思ったが、あの公園に行くことは、以前から数少ない一日のルーティーンに含まれる大切なイベントの一つだったし、何より男にまた会いたかった。
 いつものベンチに向かうと、
「よっ。久し振り」
 男がニコニコして座っていた。 
 あまりに変わらない態度に、昨日も一昨日も会って話していたのではないかという錯覚に陥って「よ」と、簡易的な挨拶をした。
「いやーごめんなー何も言わずに出てこなくなって」
「いや、えっと、うん……あの、なんで……」
 少年は男の軽さに、今まで感じていた喪失感や焦燥感を持て余し、言葉も出なかった。訊きたいことも話したいことも三十分では足りない程にあったのに、全て頭から抜け出てしまって、かろうじてそれだけ言葉にできた。
 そんな戸惑う少年に反して、男はいつもの調子で微笑んだ。大人の余裕を見せつけられたような気分になって、少しだけ悔しくなった。
「はは、俺丁度この時期の雨って苦手なんだ」
「なんでだ」
「エエ、難しいこと訊くね」
 男は純粋で大きな瞳から目をそらして余裕の見えた笑顔を苦笑に変えた。
「俺が……いや、この頃の雨ってジトジトして嫌な感じするだろ。暑くってね」

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輝ける新しい時代の君へ Ⅹ

 地につかない足をフラフラ不規則に揺らしていると、男がにわかに顔を上げた。
「なんだ、きゅうにうごくとびっくりするだろ……」
「ア、ごめん。さっき、変な話してしまったものだから、明るい話したいなって思ったん
だ」
「いいんじゃないか」
「明るい話ってどんなかなァ……ダンゴムシと全裸で一時間睨み合った話とか」
「なんでそんなことになるんだ」
「それがね……」
 そして何事もなかったかのようにおかしな話をして、明るい雰囲気を無事に取り戻し、先程の話が頭の中でいささか引っ掛かっていたものの、何事もなかったように別れを告げた。


 三週間もすると、毎日のように雨が降る時期に差し掛かった。朝から嫌に重い雨が、生温い空気とともに黄色の傘を叩く。少年は涼しげな薄い青色のスカートが濡れることを懸念してはいたが、雨天が嫌いではなかった。不規則に傘に当たる雨粒の音、長靴が水溜まりを踏む音、家の屋根や紫陽花の葉が奏でる音。止めどない降水によって悪くなった視界のおかげで感覚を集中し、それらを満喫できる。こうして考えれば、蒸し暑いことは別段苦ではなかった。
 それに、少年には行く場所がある。毎日三十分だけ会える、年の離れた友人のもとだ。
 昨日は彼の好きな芸人の話をしてくれた。一昨日は貸した三円が三円分のキャラメルとシベリアになって返ってきた話をしてくれた。その前の日には酔った勢いで褌一つで上官(彼は中尉だったという)の部屋に出向いて営倉に入れられる羽目になった話をしてくれた。
 今日はどんな話をしてくれるのだろうと、あの時は気が付いていなかったが、少年は自分が思うより楽しみにしていた。雨の重さに反して少年の足取りは軽かった。
 しかし少年が公園に着くと、あのくすんだ緑色の服を着た坊主頭は見当たらなかった。
 雨が降っているので遅くなっているのだろうと思ってベンチに座って待つ。しかし十分経っても十五分経っても来ない。

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輝ける新しい時代の君へ Ⅸ

「いいとおもう。べつに」
  少年のいつも通りの口調で言ったその言葉に、男は顔を上げた。少年は本当に、それでも良いと思っただけだった。彼にはまだ話の意味も男がどんなに苦しんでいるかもよく分からないし、他人の気持ちに寄り添う能力も乏しい。しかし何となく、別に良いと思った。
「ぼくもたまにな、さびしいってほんとうはおもったりするんだ。おじさんのとはちがうとおもうけど。ぼくも、きくだけならできるぞ」
 いつも通りの何を考えているか分からない顔で、いつも通りの心地良い風に黒く細い髪を揺らし、いつも通りの住宅街の狭い青空を睨む。その間、男の方を見ることはなかったので、彼が何を思っていたかもどんな顔をしていたかも分からなかった。別段興味があったわけではなかったし、それに何となく、知る必要はないと思っていた。
 今振り返ると男は困惑していたと思う。六歳児に愚痴を聞いてもらおうとしている自分に嫌気がさしたと思う。しかしきっと、彼の話を聞いたのは正しいことだったのだろう。
 男は自分の中で折り合いがついたのか、再び俯いてゆっくり話し出した。
「俺、本当はずっと言いたかったよ。死にたくないってね。妻や子供のためなら死にたくなかったよ。普通に考えれば分かった筈なんだよ。死ぬのが無駄どころか、損害にしかならないって。でも考えなかったから。考えることそのものが無駄だったから……」
「……」
 少年は何も言わず、微動だにせず、ただ雲一つない空を睨んでいた。
「あー、えーっと、ごめん」
 男は項垂れたまま、焦り気味に軽く謝罪した。
「おお」
 それに対し、考えられるだけ考えた結果、短く生返事をすることになった。
 少年には男が三十代から四十代位に見えていたので、戦争に出ていたことを意外に思った。確かに五十代だ、六十代だと言われればそう見えるような気がする。ただ、五歳児の年齢感覚だ。到底信用できたものではない。

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四話 牡丹江の俘虜収容所医務室にて

 ヤーコフ医師は、牡丹江の俘虜収容所に派遣された。日本人を収容しており、シベリアの収容所までの中継地点である。日本人はここからシベリア各地に送られる。
 その医務室には今日も病に侵された元日本軍人がやってくる。
「次の方、お入りください」ヤーコフが促すと、日本人が一人、静かに入ってきた。ソ連に捕まった時のよれた第一種軍装のままの20代か30代の一等兵だった。名を訊くと芝野倉治と言った。
「お座りください。……どういたしましたか」
「咳が酷いのです。痰が絡んで息苦しいのです」
「どのくらい前から」
「3日、4日程度です」
「それは気の毒に……結核やもしれません。今日から病棟に入りましょう。念のためです。検査ができんもんですからね……」
 そう言ってヤーコフは入棟の為の申請書を書き始めた。途中、日本人に話し掛けた。
「前回来た中隊の人ですか」
「ええ」
「私も最近派遣されました。本当は妻も子供もおるんで、ロシアに残りたかったんですがね。芝野さん、ご家族は」
「母と妹、身体の弱い弟と……婚約者が内地に」
「それはお辛いでしょう」
「せめて籍を入れてくれば良かったと。働かされては可哀想ですから」
「そうですね、あなたが一刻も早く祖国に帰れることを願っています」
 ヤーコフが穏やかに微笑むと、日本人は彼に哀れむような眼を向けた。
「あなたは優しいですね……でも、それじゃいかんですよ。私は俘虜です。そしてあなたは我々を収容する側です。偉そうに冷淡にせにゃならんのですよ。俘虜になめられちゃ悲惨です」
 そこまで言うとヒューヒュー空気が抜けていくような酷い咳をして、ヤーコフは急いで背中をさすってやった。
「無理せんでください。お体に障りますよ。……確かに私たちは芝野さんたちを収容する立場にあります。でもね、ここではそれは関係ないのです。ここでは私は医者で、あなたは患者です。今異国の地で絶望に震える者たちには、優しさが必要なのですよ。あなたたちが無事に帰るのに必要なのです。未来にはあなたたちがいなくてはいけないからです。だから、あなたたちが帰るために、私はなめられても仕方ないのです」
「自己犠牲は無駄です」
「違いますよ、これは自己犠牲なんかじゃないんですよ」


                          終