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思うところがいろいろあって。

昨日の授業で『合格発表に行ったら友達は受かってて自分だけ落ちてた』というお話をしてくれた生徒さんがいたけれど。思い出したら、自分も似たような経験があって。高校の合格発表。結果を見に高校に行ったら、たまたま同じ中学校の子が2人いて。3人で結果を待った。そしたら私だけ受かっちゃって、その2人は不合格だった。2人とも号泣よ、親御さんの胸に抱えられて。私はその場にいられなくなって、逃げるように書類を受け取りに行った。あのときの感情のぐちゃぐちゃな具合といったらもう。そんなときに、昨日の生徒さんのエピソードのようなことができればよかったんだけれど、当時の私にはそれができなかった。まだまだ未熟だったんだな、今思えば。そして涙が出るほど、本気で悔しがるほど、そこを目指してきたんだな、そう思う。そして教頭のさっきの話。本当に努力を積んできたからこそ、言葉にならないほどの悔しさやら不甲斐なさやら、そういうものが浮かんできたんだと思う。努力しなければ、そんな感情は浮かんでこないもの。春が来る、それぞれの春が来る。各々の道を進む。全員が全員、納得のいく結果ではないかもしれない。でも春だから、一歩でも進もう。

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東日本大震災から明日で5年。

私は宮城県仙台市出身で、大学進学で今は沖縄で生活しています。
当時、私は中学3年生で前日に卒業式を控えていました。
クラスのみんなと写真を撮って、卒業式の練習をして学校は午前中で終わりました。私は家に帰ると、母のにぎってくれたおにぎりを食べながら卒業アルバムを見ていたのを覚えています。

そして、14時26分。
悪夢が私たちを襲いました。

地面から突き上げられるような振動。そして激しい横揺れ。最初はすぐに収まるだろうと思っていました。しかし、揺れは激しくなる一方。
食器が割れ、本棚にあった全ての本が落ちてきました。私は自分の身に危険を感じ、走って外に避難しました。今でもあの時のことは鮮明に覚えています。

外に出ると、電信柱が動いていました。遠くの方では消防車やイヌの鳴き声。ヘリコプターやサイレンの音も辺りに響き渡っていました。

気付いたらその場にしゃがみ込んで泣いていました。私はただただそこで泣くことしかできなかったんです。
正直、世界は終わったんだ…とさえも思いました。

日が沈む頃に父と母が帰ってきた時は心からホッとして抱き合ったのを覚えています。ライフラインが閉ざされた環境の中、唯一情報を得られるのがラジオでした。


後に、この震災で多くの尊い命が奪われたことを知りました。私の母の友人も津波に流され、亡くなりました。
また、今もなお仮設住宅で生活を余儀なくされている方々は多くいます。

私は大学を卒業したら地元に戻って地域の復興や貢献、観光、町づくりを中心とした職業に就こうと考えています。

震災を経験した自分にできること。それは多くの人にあの時起こったことを知ってもらい、被災地のためにできるスキルを学ぶこと。

そして、亡くなった方々の分まで毎日精一杯、一生懸命に生きること。
それが生かされた人の使命だと思います。