先週ぐらいから1年だけインフルエンザがすごく流行ってます(´・ω・`)
私の学年は5クラスあって私は4組なんですけど、今日1組と3組が学級閉鎖で途中で帰って、2組と4組も学級閉鎖じゃないけど途中で帰って、5組だけ授業をするという変な状態になっていますΣ(・ω・;|||
これ以上増えると私たちの春休みがああああああああああ!
僕は物事を思慮深く考えてしまいます。
しかし考え過ぎて神経を張り詰めてしまう
ことから周りが見えなくなったり、誰も信じられなくなってしまいます。
現に今もそういう状態に陥って
悪夢を見たり、視界が歪むことがあり
どうしようもない不安と恐怖に刈られて理性を失うことさえあります。
よく色んな人から「もう少し楽に生きてもいい」「無駄な心配はしなくてもいい」と言われますが
どうしてもそんな風には出来ずに毎日毎日
鬱になりながら学校に行っています。
話を聞いてくれる人はいますが、友人も家族も
色々考えて苦労しているのでそれさえもためらってしまいます。
はぁ………どうすればいいのでしょうか?
東日本大震災から7年たちました。
皆さんより、年上ですが書き込みさせていただきます。
私には、忘れられない言葉があります。その言葉をくれたのが初代教頭のやしろ教頭です。
7年前、私は高校生でした。試験期間中だった私は、家でテレビを見ていました。
すると、地震が起きたとニュースでやっていてその時は「地震があったんだ」と気にも止めていませんでした。
しかし、段々の被害の状況がわかるに連れて「本当に日本で起きたことなのか?」と福岡に住んでいる私は、どこか違う国に起きたことのように思っていました。
しかし、震災後最初のスクールオブロックの最後にやしろ教頭が「言わなければ一度も思わないままかもしれないから。スクールオブロックを聴いてくれていた生徒がもしかしたら亡くなってしまって、その生徒は私は亡くなりました。と掲示板に書き込むことは出来ないから少しでもいいからその人たちのことを思い浮かべてほしい」という言葉を聞いて、震災を身近に感じることができました。長くなりすみません。
7年前
9歳か
確かインフルエンザで学校休んでて地震が起きたよって言われて地震きたんだ
くらいだったけど
実際大ニュースになっていて見た事ないような光景が中継されていた
正直当事者の方々には大変失礼な事だと今は思うけど当時の自分は他人事感があった
ただ年齢を重ねて自分の住んでる地区にも南海トラフ地震の危険があると言う話を聞いた時部屋で見た東日本大地震の中継を思い出した
自分の住んでるいる場所も同じような事が起こりえるのかなと思うと他人事なんて思っていた自分が凄く愚かしく思えた
今現状被災地は復興に向けて歩んでいる最中だと思います
そして日を追うごとに年を追うごとに新たな問題も多く出て来ている事と思います
自分の言葉に大した影響力は無いですが
一刻も早く皆様が心から安心して過ごせる日が来る事を心よりお祈りしています
津波警報が出たらすぐに高いところに逃げて。
津波が来てから逃げるんじゃ遅いから。
生きていられるということに感謝したい。
あの日から1週間くらいテレビも電気もつかなった。頼りだったのは新聞とラジオだけ。
3週間ほど水も出なかった。
あの震災を忘れてはならない。
目を背けてはいけない。
今の生活以上の満足感を求めてはいけない。
東北で地震があった。九州で地震があった。都市部、山、海。日本を形作る場所全てで地震が起こった。本気で「明日は我が身」を考えなくちゃいけない。誰かに任せるんじゃなくて、自分の命は自分で守らなくちゃ。
忘れないことは大事なこと。でもこれからどうするのか考えて行動する方がもっと大事なことだと思う。
昨日で7年
7年はあっというま。未だに私でも覚えている。福島におじいちゃんとおばあちゃんが住んでいる。家にヒビが入って、入れなくなった部屋ができた。海沿いに建っているが、津波はギリギリでこなかった。命が助かっただけで良かった。
今年、近くにあったショッピングモールが取り壊されてしまいます。そのショッピングモールはお母さんが小さい頃からありました。でも近くにイオンができてしまいます。そのショッピングモールで喫茶店をやっていたおじいちゃんとおばあちゃん。家でやる事になりました。地元の人も嬉しいと言っていたと聞きました。また出来たら行きたいです。
インフルエンザ増えました…
あと3日で卒業式やぞ!今流行りだしてどうすんねん!
クラス給食。何もしゃべるなって。静かでしたな。
金曜日は卒業式でした!
そして、今日は公立入試でした!正直言って、自己採点はあまり良くなかった。唯一得意な社会で90点以上とれていたのはよかったけれど、、
合格発表は1週間後!また結果報告します\( ・ω・ )/
石川の私達はなんともなかったけど東北の方々の立場ではすごく苦しいんだろうなって感じて胸が痛いです。少しでも辛さを癒してあげられるような行動ができたらいいなって思います。何か私にできることはあるかな...
ホンマにやめとくれ…
鼻が痛いんじゃ。
謝罪会見とか開かれても、認めないからな!
まだ小5の時で何が起こっているのかよく分からなかったな
でも強い揺れの後、何回も小さい揺れがあってテレビもラジオも地震の報道ばかりだったのを覚えています
私がいた所は宮城でも海から離れた場所だったので、電気や水道が何日か止まったくらいで済みました
思えばその時からラジオをよく聴くようになった気がします
今までほとんどラジオを聴いてなかったけど、それから色んな番組を聴いてSOLにも出会えました
これからも復興は続いていくので微力ですが協力出来ればと思ってます
以前、誰かが「空洞」という言葉を発する度にゆらゆら帝国の「空洞です」がワンコーラスで流れるという夢を見たような気がするのですが、夢か現か、(お酒のせいか)分からなくなってしまいました。どなたかご存知でしたら教えていただきたいのですが、昔スクールオブロックの何かしらの授業でやっていませんでしたか?
将棋やってると、めっちゃ落ち着く。
自分の趣味は、何でも良いよね。
将棋…。
いつか、将棋の大会で、入賞できたらいいなー。
まだ本物の駒にも触れたことのない私が言うのも
なんだけど笑
プロ棋士とは言わない。でも、なりたい。
私は、杉本七段と、藤井六段、めっちゃ尊敬する。あのお二方の仲は、とてつもなく良いもの。
あれほど師匠に愛される弟子は、いない。
私も、信じてる。あの筆者と同じように。
これからも、将棋ブームが続いてもらいたい。
いや、続くのだ。
絶対に、今の将棋は、良いもの。
これからも、進化し続けます。
卒業式まであと学校に行くのが3日になりました!
少ない!
でも後悔しないようにやりたいことをやります!
ピアノめっちゃ弾きまくります!
去年の夏、私は高校のプロジェクトとして、希望者で宮城県に行ってきました。
媒体を通してではなく、直接自分の目で今の東北を見たかったからです。
そこで、宮城県の災害科の先生や生徒のみなさんが東北を案内してくれました。
(おそらく今日の授業で出られる高校だと思います)
色々な場所に連れてってくれました。
津波の被害が大きかった大川小学校、商業施設、支援がなかなか来なかった離島、、、
ここで見たり聞いたりしたことを、大事に心の中に入れておくと決意しました。
次にもし自分の周りで震災が起こった時に、誰も犠牲にさせないために。
東日本大震災から7年。
当時、3年生だったあの時の恐怖の記憶はまだ残っています。
今までに経験したことのない揺れ。
電気が止まって、何もできない毎日。
その日父が夜遅くまで帰ってこれず、母と姉と弟3人で一緒に寝た。
でも、それ以上に怖い思いをした人がいる。
僕は少しでもいいからその人たちの力になりた
い。何か小さなことでもいいから協力したい。
高校生になってから、ますますそういう思いが強くなった。
1日でも早い震災地の復興を心から願っています。
全然覚えてないな。
「東日本大震災」
この言葉が怖くなってきた…
姉妹都市提携の宮城県に行ったときに見た、
津波で流されて何もない海岸を思い出した。
「そこに住んでいた人たちはどうしてるんだろう。」と、
涙が出そうになりました。ほんとに何もなくて。
かなしい
僕はまだ小学3年生で怖いものなんて何にもなくて、災害がニュースで報じられても何も考えもしませんでした。しかし2011年3月11日のあの地震、学校が終わり帰ろうとした時だった。初めての身が震えるような地震で恐怖を感じた。それから学校には日に日に被災者の人たちが避難をして来て辛い話、悲しい話を聞いた。まだ小さかった僕でも胸が痛くなったのを覚えています。その話中に「ありがとう」を伝えられなかったという話があった。震災でたくさんの命が一瞬にして奪われた。感謝の気持ちを伝えられずに会えなくなってしまった人もいる。だから僕はあの日伝えられなかった人の感謝の気持ちも含めて「ありがとう」と感謝の気持ちを普段から伝えています。
私がこんなこと言ったら怒られるのかもしれないけどさ…
新しいことする前に、もっとやるべきことがあるんじゃないのかなあ?未だに仮設住宅で生活している方がいらっしゃったり、除染作業ででた土の処理で困っていたり。
前に進んでいかないといけないのは確かだけど、それはあんまりじゃない…?
7年前私は小学3年生
あの瞬間を覚えている
揺れ、机の下に隠れたこと、広いところに逃げたこと、友達の泣き声
その時は
自分の地域が一番ひどいと思った
でも、テレビで見たとき、全てを知って、言葉を失った。
あれからの7年、東北で行われるイベントに参加するなどして、何回か足を運んでいる
とってもとってもいい場所( ´∀`)
あの日のことわすれない
あの日から7年。大人に近づくにつれて、小学5年生のときの曖昧な記憶を確かなものにするために、だんだんとテレビや新聞などで震災のことを目にできるようになりました。
私自身、少しずつ成長できつつありますが、ここでひとつ、私に不安が生じました。7年も月日が経てば、震災のことを知らない子どもも増えてきます。私は将来教員を目指していますが、現場に立ったとき、このことをどうやって伝えればいいのだろうか。あの日の衝撃は私自身は忘れられない記憶ですが、それを知らない子どもたちは口で伝えられても実感は湧かないと思います。私が授業で阪神淡路大震災のことを教えられてもあまり分からないように。
自分の成長と子どもへの継承。これからはまた新たな課題にも取り組まないといけないように思います。
あの日から7年が過ぎました。僕は当時小学2年生で突き上げるような縦揺れと長くゆっくりとした横揺れを体感したときは何とも言えない恐怖を味わいました。家に帰ると物は散乱し、停電していました。翌日の新聞を読んだ時はさらなる衝撃を受けました。[宮城県で震度7][襲いかかる大津波]全てが震災の関連記事、写真でその一つ一つに生々しい被害と現状が綴られていました。それから2年後には陸前高田市に行き、復興の様子を見てきました。あの日から7年、自分が出来ることは震災を風化させないことだと思います。一人の力では難しいかもしれないけど僕と同じ考えの人はきっといると思います。将来の世代のためにも力を合わせて頑張りましょう!
最後になりますが、被害に遭われた方々が一日でも早くもとの生活が出来るよう、心からお祈りしています。
俺は小学3年生だった。5時間目の授業中、教室が揺れた。まあどうせいつもの地震だろうと思ってた。違った。なかなか揺れが収まらない。それどころか大きくなっていく。簡単にスライドする小さな窓は、高速で左右に移動していた。担任の先生すら怖がっていた。生徒より先に机へ隠れた。なぜか揺れそのものよりも、そんな景色が印象に残ってる。校庭に出ても揺れてるのがわかった。
迎えにきた親と一緒に家に帰った。
飼ってた金魚がいた水槽の水が半分以上溢れてた。服が入ってたタンスの引き出しは上から下まで全開放。
そんな部屋の中で、泥波にのまれる街の映像を見た。あるもの全てを容赦なく流す波の、防波堤を超える波の映像を。
昨日、その映像が流れてた。7年目にしてようやく気づいた。
速い。
あの波はあんなに速かったんだと。
上からのカメラじゃわからなかった。
普段気にかけていなくても3月11日にはやっぱり思い出す、あの日のこと。
こんな大きな災害があった事実を、多くの人が亡くなった事実を忘れたくない。
忘れてたまるか。
『3.11』あのとき、僕は小学2年生でした。放課後サッカーをしようとしてボールを抱えて校庭に出ようとしたときあの大きな揺れが襲ってきました。
揺れる校庭の木、揺れで溢れ出すプールの水。あの光景すべてがまだ小さかった僕に
「これは普通じゃない」と教えてくれました。東京にいても何回も何回も余震が襲ってきてとても怖かった思い出があります。
この日本は地震大国です。僕らが生きてる間にまた大地震が襲ってくることは明白です。もうたくさんの人が亡くなることがないように対策が進んでいって欲しいです。
昨日 卒業式がおわり無事に中学校を卒業することが出来ました!
東日本大震災から7年。
東北の方々が頑張っておられるのを見て、私も元気をもらっています(≧∇≦)
復興を願いつつ、これからの東北さらなる進歩を心から願っています!
頑張るばい東北!頑張るばい九州!