生徒が、、、生徒が集まってきた!!!
さーーーけーーーーーーーーーべーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!
福島の卒業式覚えてる。
この時の音源を聴いて高橋優さんの曲を聞くようになったんだ。
10年前は小2だった自分も高3…
震災を経験していない人がsolにも増えてきていると思う
しっかり自分が覚えているためにも向き合って伝えていかねば
久しぶりの登校になる。
前にここへ来たのは確か大学受験前。そして今は就活中の身。未来に迷うたび、いつもこの場所を頼りたくなって、掲示板に書き込みをする。そして、また気合を入れる。それで頑張れた。
でも今はなぜか駄目になってしまった。最初にこの学校に登校した頃から、自分が進んでいるのか戻ってしまっているのかわからない。未来の鍵を見つけたはずなのに、なくしてしまったのだろうか。そう悩んでいると、暇でもないのに涙が出てくる。
そういう自分を変えるために、ひとりで悩まないようにしようと決めた。友達、家族、そしてこういう不特定多数の目に晒される場へ、もっと自分を出していこうと顔を上げた。
この勇気を、結果に繋がるまで続けられるように、再び未来の鍵を探るこの学校へ来た。長文乱文にて申し訳ないが、今日からまた宜しくお願いします。
こそこそラジオを聴いてました。
怖かったので。
かなり明るくて、
聞いてる方がかえって元気もらってた記憶ある。
体育館とか、避難場所とかからの逆電が当たり前で、それが普通だった。
10年前。私はまだ小1でした。当時からずっと兵庫県に住んでいるのですが、あの日の出来事は忘れられません。
私の祖母は千葉県に住んでいるのですが、地震が起きた数分後に、私の自宅に電話がかかってきました。電話をしてきた相手が書かれるところに「おばあちゃん」という文字が書かれていました。しかし、家には私一人しかいませんでした。当時、母に電話には出るなと言われたので、電話に出ませんでした。
数十分後に家に帰ってきた母に、「おばあちゃんから電話きてたよ」と言ったところ、地震のことを把握していた母に、「どうして電話に出なかったのよ」と怒られました。
そこから、しばらく祖母と連絡が取れなくなりました。
久しぶりに声を聞くことができた時は、小1ながらに、人の命は尊いもので、いつ何が起きるのか分からないから、日々大切にしないといけないなと、感じました。
10年前の14:46この時間に大地震がおきました。その10年後僕は学校で同時刻に黙祷を行いました。
あの日からもう10年…
あの日の、津波の映像を見たことを今でも覚えている
自分は直接は感じていないが、凄いことが起きていたとは分かっていた
この10年は節目だけど、
あの日のことはこれからも忘れてはいけないんだと思う
今日は3月11日 東日本大震災から10年ですね
朝、クラスで黙祷をしました。 今の私にできることは黙祷とYahooニュースに3.11と検索して10円を支援することです。 他にできることがあればいいのですが、今の私にはこれくらいしかできません
ですが、これをこれからもしていきたいです
私は当時4歳で習い事に行ってる時に自信があったと母から聞きました。 私自身はあまり記憶がありませんが、やっぱりニュースを見ると自然災害の怖さや、津波の怖さ、 大阪北部地震を思い出します
震災から10年 あっという間の10年だった。私は、辛い記憶の殻に閉じこもってる。AIさんのstoryかけてほしい。一人じゃないからってさかた校長、こもり教頭にいってほしい。お願いします。
10年前の3月11日は仕事中で1分程の横揺れがありました
自分が揺れてるだけと思ったら地震だったと気づき、TVでみた映像は今でも衝撃的でした
しばらく仕事が休みになったり不安だったけど、14日にSOLが出来るだけ普段通りに話しながら被災地の方々の書き込みでライフラインや無事と伝える声に励まされました
この10年で宮城や福島にいって海沿いのホテルで波音をききながら露天風呂に入ったり、仙台の花火大会や水族館に癒されました
牛タンやカキなどの海鮮が美味しかったり、東北出身の人達とのつながりができた10年でもありました
千年希望の丘では津波到達が10m以上であることや元々家があったと思うと苦しくなりました
やましげさんの一人舞台でみた煙突の近くまで波がきてた映像から自然の恐ろしさや逃げ方等考えさせられました
10年前に起きた東日本大震災。全く覚えていません。けどYouTubeにある東日本大震災の瞬間の動画や津波の動画を見て残酷なことを知りました。ほんとに怖い思いをした人がたくさんいたのだなと。亡くなってしまった方、家族を失った方一緒に頑張っていきましょう!ここに追悼の意を表します。
坂田校長、小森教頭、職員の皆さんへ
今日、ぜひ流して欲しい曲があります。
今日の18時に公開された、ほーみーずの「もういちど」です。ほーみーずは、宮城在住の2人組YouTuberです。小学生で体験した震災の記憶を、風化させないために作った曲です、。
今、みんなに届けたい歌を、必ず届けてくれます。まだMVが公開されたばっかりですが、沢山の人に聴いて欲しいです。
今日昼休みに3年生の先輩方が明日の卒業式の式歌練習をしていました。先輩方は大地讃領の歌を歌います。その練習が終わり「おわりかー」と思っていたのですがなぜか急にHappy birthday to you!と歌いはじめました。一瞬驚きましたが後ろから3年生の先生が出てきて前で祝ってもらってました。あ!Y先生の誕生日か!となり3年生と1年生で大合唱!拍手も大きく響きました。こんなたくさんの生徒に祝ってもらうのはほんとに幸せですよね。
テスト終わったああああああ
今から録音したSOL聴いて、
リアタイでもSOL聴いて、
沢山書き込みするぞ〜!
ほんとにこんな日にこんなことを言うのは間違ってると思いますが、13日誕生日なので校長教頭!!お誕生日おめでとうて言って欲しいです!!!お願いしますもう明日から車校頑張るので!!
誕生日プレゼントください!!!
あと教頭ライブお疲れ様でした!!
私にできることはYahooで3.11と検索をして10円を寄付する事です。
少しでも力になれたらなと。
今日テレビで津波の恐ろしさを改めて知ることが出来ました。もっと危機感を持ちながら過ごしたいなと思いました。
私はこの日を一生忘れません!!!
久しぶりに掲示板に帰ってきました。
10年前、私は小4でした。
私は東京住みなので揺れはしましたが周りに怪我してる人などはいませんでした。
今でもその光景は脳裏に焼き付いています。
ここからは去年も書いた内容ですが自分のこの気持ちを忘れないようにまた書きます。
私はおととしの9月、好きなYouTuberのイベントに参加するために初めて仙台に行きました。
イベントの会場だった仙台GIGSの最寄り駅である荒井駅には「せんだい3.11メモリアル交流館」という場所があります。
事前に調べていた時に見つけてせっかくなのだから行こうと思っていました。
しかし、その入口まで行った時なぜか怖さが出てきました。
私が体験したものに比べたら何倍も怖くて苦しい思いをしてきた人達や街の様子を、私は見れるのだろうか。
そう思うと怖さが勝ってしまい、結局そこには入れませんでした。
でも、今さらですけどちゃんとそういうことに向き合うべきだったと思うんです。
今はこの震災を体感した人が大半ですが、減っていく一方です。
だからちゃんと向き合って、見つめて、理解して、伝える。その事が大切なはずなのに避けてしまった私は今でも後悔しています。
なかなか今は(コロナもあって)東北に行くことは出来ませんが、またいつか行って、今度こそはちゃんと向き合いたいと思います。美味しいものも沢山あるから食べに行きたいですしね。
10年、私はとても早かったです。
ニュースで「区切りでも節目でもない」と言っていてほんとにそうだと思います。区切りだからもう終わり、というわけではないですから。
今は大学2年生になりましたが、その事だって当たり前ではない。そう胸に刻んでこれからも生きていこうと思います。
最後に、この震災で犠牲になった方々のご冥福をお祈りいたします。
今から10年前、私は小学2年生。あの日のことは、今でもよく覚えています。
震度7の強い揺れが始まった時、2歳の妹と手を握りながら、机の下に隠れました。お母さんは、生後1ヶ月の弟を抱き抱え、必死で守っていました。私の地域は幸い、津波の被害はありませんでしたが、電気が止まってしまい、赤ちゃんが風邪を引かないようにすることが、1番でした。私は長女ですが、まだ小学生だったので、分からないことだらけでした。電気が復活し、テレビで見た光景は、とても悲惨なものでした。現実を受け止められなかったです。宮城の海岸に住んでる祖父母の家に連絡をしたものの、なかなか連絡が取れず、1週間たってようやく繋がりました。地震の影響で電車が止まってしまい、家に帰れなくなったおじいちゃんは、線路を辿り、歩いて家に帰ったそうです。一刻も早く、家に帰りたい気持ちが強かったのです。
「あの日のことを忘れてはいけない。」
まだ10年だから、経験した/覚えている生徒さんも多いけど、段々と、リアルタイムでは知らないひとたちが増えていくんだなって感じる。
私たちにできるのは、忘れないこと、知ろうとすること、少しでも伝えていくこと、なのかな、って思います。
東日本大震災から10年。あのとき私は小学2年生でした。
たまたま通院のため学校を休んでいて、普段は単身赴任でなかなか会えない母といました。
その日は朝から兄とケンカして、100パー兄が悪いんだけどいつまでも不貞腐れてるなって怒られて機嫌が悪くて、家族に嫌なこと言っちゃってもやもやしていました。
震災の被害はあんまりなかったけれど、発災時はここが震源でみんなしんじゃうんだもう会えないんだ、あんなこと言わなきゃよかったってとても後悔したのを覚えています。
みんな無事でした。母とお迎え行ったときめちゃくちゃ泣いた。
テレビから流れてくる映像はどれも現実味がないくらいひどくて、見ていられませんでした。
そんなとき支えになったのがラジオでした。
SCHOOL OF LOCK!!では生徒の皆さんの生存報告や励ましの声が流れてきて、本当にあたたかかったです。
それからBUMP OF CHICKEN、藤原先生な弾き語りしてくれたガラスのブルースが印象的でした。
私のところは被害はそうでもなかったけれど、ずっと続いている余震や地形が変わるほどの被害を連日見続けて怖かったし、家族や友人を亡くした被災者の方を思って悲しい思いをしました。
でも実際、家族も家も無事な私が怖いとか悲しいとかって、本当につらい思いをしている被災地の方に失礼じゃない?って悩んだりもしました。
「分けられない痛みを抱いて
過去にできない記憶を抱いて
でも心はなくならないで
君は今を生きてる
ちゃんと生きているよ」という原曲とは違う歌詞。
私の怖いとか悲しいも正しくて、そう感じられること、生きていることを認められた気がして、救われました。
できればもうあんな災害は起きて欲しくないと思いつつ、毎年この日に防災リュックの確認をしたり家族で災害、防災についての話をするよい機会になっています。
あのとき、怖いと泣くだけで守られていた私も、誰かを守る立場になりつつあります。
いざというときに少しでも落ち着いた行動を取れるように、日頃からの備えが大切ですよね。
備えがある、というだけで少し心強い、少し安心できるので、災害の有無に関わらず継続していきます。
リクエスト
BUMP OF CHICKEN「Smile」
当時3歳とかの子たちが状況とか心境を踏まえて此処に書き込んでくれていること。
こういうのはほんとうに、ほんとうに、ほんとうに
わたしは嬉しくて尊くてなんだかすごい。
そのときは知ることができなかったことが
今知ることができてる。
年代関係なく。
そしてそれは、
そういう月日なんだなってことなんだな。。。
明日僕は中学校を卒業します
小学校、中学校9年間同じだった仲間ばっかりなので別れるのが辛いです。
どんな日も笑いあって、楽しく過ごしてきた仲間がバラバラになってしまいます
悲しいですが、高校生活も楽しんでいきたいと思います。
全国の卒業生の生徒の皆さんも、進路先などで頑張っていきましょう
リクエストお願いします ヒッピーさんの「君に捧げる応援歌」おねがいします。
あとは、少しでいいので、いろんな著名人の方々が情報を発信しています。
例えば、
宮城県出身の乃木坂46 久保史緒里さん、
サンドウィッチマンのお二人など、
いろんな方がブログで震災のことを発信してくれています。
個人的に乃木坂の久保ちゃんのブログを読むと、心に刺さるものがあります。
皆さんが知っている著名人の方も被災してる経験を書いています。
是非見てみて欲しいです。
経験がない子にも、自分ごとにしやすいと思います。
2時46分、今年は東北の人たちを思って黙祷することがちゃんと出来ました。来年もしっかり黙祷したいな。あ、あとLINEとYahooで検索したら10円募金できるのもしました。こんなことしか出来ないけど自分の出来る無理はする…どうもホモサです。
今日は、自分にとっては心地よい日でした。仮面ライダークウガ特別編を見終わり、ほんとにクウガが終わったなと感じました。
今日の一言。久しぶりにファンモンの3人を見られて、やっぱりこの3人がいいなと思いました。あとひとつ、ありがとう、ちっぽけな勇気の3曲を歌っている時は力が湧いてくるようだった。俺も負けねえぞと思える、そんな時間だった。
終わり。父に歌上手くなったと褒められた!嬉しい!伊達に今まで色んなところで歌ってきたことが着実に力になっているみたい。
#今日の作文
何年ぶりかのように、掲示板を数分おきに見に来たりいろいろ校内をみています。
10年前の今日から3日後の3月14日に、
SOL!が再開しました。
ラジオも携帯も。そう、当時はスマホじゃなくて、携帯電話でした。
必死にみんながつながろうとしてて、
どう声をかけていいのか迷って、
大人生徒ちゃんたちがほんとうにいろんなところでメッセージくれていたりして。
それでも最初のやしろ教頭の「待たせたなっ!」
に安心したのと待ちわびてたのともういろんな感情があって
放送最後のことばも、ほんとうに心に在るし。
二人と、この場所、他の職員、生徒たち、講師の先生たち
言い出せばきりがない。
ラジオとは。緊急時とは。大人とは。心とは。
生きるとは。
結構当時はドライバーさんたちの話を、書き込みとか逆電で聴いたりして
道のありがたさとか、運転手さんのありがたさとか
今まででのライフライン、水、食料、電気、ガス以外の物事に意識が向いたのをよく覚えています。
ラジオは耳が聴こえる人にとっては、ありがたいツールかも知れない。
ツイッターは目が見える人にとっては、ありがたいツールかも知れない。
それでも、決していいことばかりでは無い。
極限状態に陥った時は特に。
過剰な情報提供はかえって不安だったり迷惑だったり、過剰な心配もあったり。
中越地震の時に手話サークル関係で被災者の方にに情報提供などをするお手伝いをしていて、
当事者の方に指摘されたことを機に、3.11ではそういうことをしませんでした。
文字も音声も図も映像も。はたまた他の手段も
需要はあるのだから、その時によって、違う伝達方法はあるのではなかろうか。
そんなことも、意識できるようになりました。
電池残量も心配してたよね。
この辺って実は
結構葛藤しちゃうんだよなあ。
10年前のあのとき
何があったかは人それぞれ違う。
「人に立場になって考える」って言うけど「人の立場」になるって実際は不可能だから、
だからこそ「人の立場になって考えようと努力をする」ことは大事なんだろう。
私は10年前直接的に被害にあった訳じゃないし、私にできることは少ないけど、
できることがあるなら、
それは10年経った今でも、これからも震災を忘れないでいることだと思う。
そして、震災を知らない人に伝えていくことだと思う。
元”東北”の生徒です。僕は母親の実家が、福島県の浜通りなんです。家が海のすぐそこでした。家は母親の父親が(僕から見たら祖父)建築したから丈夫でした。
津波は家に入ってきて大変だったらしいです。地震の影響では家に大きなダメージはなくて大丈夫だったらしいです。無事に生きていたのは不幸中の幸いです。今は安心して暮らしています。ちなみについ最近の東日本を襲った深夜の大地震の時は、すぐ母親が電話を手にしてすぐダイヤルして心配してました。地震はいつ来るか想定できないので備えておきたいです。
11歳だった10年前。
小学校のテスト中でした。
私の住んでいる愛知県でも揺れを感じて、机の下に潜り体育館へ避難しました。
しばらくして下校出来るとのことで速やかに家へ帰ってテレビをつけて目に飛び込んできた状況。
そして一夜が明けて次の日からの状況。
東北と愛知では距離もあり、感じた体験や実感は違うものだと言うのは事実だけど、あのときの気持ちは今でも忘れることはないし、きっとこれからも忘れることはないと思います。
日々を生活していると"当たり前"だと思ってしまうこともありますが、今生きれていること自体当たり前なんかじゃない。
改めてそう強く思います。
私はその時幼稚園児でした。
私が住んでいる土地は地盤が固く、そんなに被害はありませんでした。
10年経った今、中学3年生になり、少し大人になった。
明日卒業します。
色々な思いがあるけど、前向きに真っ直ぐに生きていきたい。
長文失礼します。
東日本大震災の時、私は5歳でした。保育園でお昼寝をしている時間に地震が起こりとても怖かったのを今でも鮮明に覚えています。父が迎えにきてくれて、車まで私を抱っこしていました。その時私は「もう、5歳なんだから歩けるよ。」と言いました。父は「あぁ、そうだったね。」と言いながらも私を下ろしてくれませんでした。今思うと父はいつ、また地震が起こるか分からないからとても心配だったのだと気づきました。
2時46分とまだ明るい時間だったので停電になっていることに気が付かずテレビをつけようとしましたがつきませんでした。その時、停電になってない地域のテレビから津波の映像が流れているなんて思いもしませんでした。一晩電気のない生活を送りました。次の日、テレビを見た瞬間衝撃が走りました。そう、街が消えていたのです。怖くて5歳ながらも涙がでたのを覚えています。
そして月日は流れ小学6年生の時、私は学校の修学旅行で南三陸町を訪れました。そこにはあの時テレビで見た防災対策庁舎がありました。ガイドをしてくれた方が「女の職員の人が津波がくるまで街の人に呼びかけてそのまま津波にのまれて亡くなってしまった」ということを聞きました。私は自分が何もできなかったことの無力さに頭が上がりませんでした。
そしてまた月日がながれ、今日、ホームルームに全校生で黙祷をしました。あの時のことを忘れてはいけない。風化させてはいけないと心から思いました。
災害で亡くなった方のご冥福と被災者のこれからのご多幸をお祈り申し上げます。
自分は、小学生で、震災の時間は帰りの会が終わり、階段を降りてる途中で被災しました。
揺れがなくなったら、地震の被害の確認をして、すぐに自宅に歩いて帰りました。
家に帰る途中までに、揺れてる感じはたまにあるし、そのまま家まで歩きました。
信号機は消え、街中が一変としていました。
自宅の周辺で母が携帯でテレビを少しだけ見て情報を収集していました。
あの時に見た想像を絶する津波の映像は忘れないです。
そして、家の中に入っても、暖房はないので、とても寒くて、停電が解消したのは3日後のことでした。
学校も休校はするし、情報は壊滅的でした。
電気に関したは復旧が未定で、いつ治るかもわからない地獄の日々でした。
その間はジャンバーに毛布をかぶってとにかく寒さを凌ぐことしかできませんでした。さらにお風呂も入らなかったのでとにかく苦痛でした。
ただ、ガスと水道は動いていたので、ご飯は温かいものを食べられました。
ただ、自分よりも酷い状況の人はいましたし、父はスーパーで働いていましたが、冷蔵庫ダメなので、物を売り捌いたりと忙しくしていたとあとで聞きました。
震災後もガソリン 3リットルを入れるためだけに、並んだり、物流も止まっていたので、カレーが何日も続いたりとかも当たり前でした。
缶詰なども確かにありましたが、好きなものをなかなか食べられないのは辛かったです。
雪は深々と降り、少し積もっては雪をかきに行ったり、そんなこともしてました。
簡単に語りましたが、自分が2011年3月11日以降にした経験です。
ただこれよりも酷い経験をしてる人もいるんだってあの頃は思ってました。
今も、それは変わらないです。
だからこそ、改めて、災害に対する準備、そして防災マップでの自分の地域の災害の危険性を確認して欲しいです。
同じ10代で生き延びてる子もいれば、生き延びていない子もいます。
現実に思えないとか思う人もいるけど、あの映像のことが現実10年前に起こりました。
それをあなたがどう感じるかはあなた次第です。
この日を1人でも多く、そして日常的に地震、災害を自分ごとにしてもらえたら嬉しいです。
そういえばマイジェネ参加出来る人ってもう決まってメールとか送られてきてるのかな?(ó﹏ò。)
来週の月曜日に 私が通っている中学校の卒業式です。9年間、共に過ごしてきた仲間と離れてしまいます。とても寂しい感じです。
今年、卒業された生徒の皆さん まだこれからという生徒の皆さん おめでとうございます!
危うく、忘れるところだったので簡単にまとめます(^-^)
今日で10年が経ちましたね(*^^*)
いろんなラジオ番組にメッセージを送ったので
伝えたいことは特にないですが何度も言うけど一番、大切なのは家族の存在です(^_^)
やっぱり、自分一人では生きていけません(^_^)
これからも笑って生きていこうと心に誓います(^-^)