震災のとき1歳でした。お母さんによると、食料を求めてスーパーに行ったら長蛇の列で、僕はその中で大人しく待っていたそうです。当時の記憶はありませんが、聞けるうちに親や経験した人から、どんなことがあったのかを教えてもらいたいです。もう15年も経ってしまったんですね。
毎年思ってて、もちろん今年も思ってること。
音楽って年齢関係ないし、それぞれが奏でてる音や歌詞などこころに響くものがあるし感じるものがあるなって。音楽の幅ってめっちゃ広いなって感じる。演奏してる音、歌声とかから、楽しそうにされてるのがめっちゃ伝わってくる。純粋にすごいなぁって思う。私もいろいろ挑戦してみよう、楽しもうって思える。
こもり校長 アンジー教頭こんばんは
僕は1歳になる10日前に地震が起きました
青森県は雪が多く寒い地域なので避難所に逃げる際もとても寒かったと親から聞いています
それにまだ赤ちゃんなので住民の皆がストーブの近くにと気を使ってくれたことも聞きました
僕の地域は津波被害は大丈夫でしたが揺れはそこそこあったと聞いています
この出来事はしっかりと語り繋いでいかないといけないという事を大事にしています
近年は南海トラフや千島海溝など大きな地震が起きると色々言われているのでこの機にみんなで備えをしっかりしておきましょう
私は熊本に住んでいて、ちょうど熊本地震が起きた時私は、小学1年生で入学して3日経ったことでした。それは4月の話。今日は東日本大震災。私の父方の祖父母は岩手県の海側に住んでいて歩いていたらすぐ海が見えるような所に住んでいます。地震当時のことを母から聞くと「連絡はつかない。でも、ばあちゃん家は少し高いところにあったからまだ大丈夫だった」と聞きました。2年前兄弟だけで岩手に帰りました。何もかも私の記憶とは全然違ってびっくりしました。道も変わっているし、防波堤も変わっている。変わってないのは家の中だけ。父の小学校も流されました。でも、ばあちゃん家の家の近くに海水を被っても生き続けている自然の木があります。ポプラの木と呼ばれてるそうです。今日学校で黙祷を捧げました。今年また岩手に帰ります。
こもり校長、アンジー教頭こんばんわ。
震災の日自分は、2歳?3歳ぐらいでした。
東北にはいなかったんですけど、親が言うには、
揺れを察知したのか、ずーっとしゃがんでたらしいです。
自分はほんまちっちゃかったので記憶は無いですが。
そのあとに、スマホでめっちゃおっきい地震やったって
気づいたらしいです。
東日本大震災から15年。そのとき私は生まれていませんでした。ですが、私のお兄ちゃんが生まれた年でした。2月の終わりごろ生まれたお兄ちゃんは熊本で生まれ、お母さんの実家でおばあちゃん、おじいちゃん、お父さん、お母さんそしてお兄ちゃんと過ごしていたそうです。生後2ヶ月経ったころの3月11日、突然地震が起きたそうです。テレビを見るといつも綺麗で青く輝いている東北の海が全てを飲み込んでしまう黒い津波になっていたそうです。元々当時津波警報が出ていた高知に住んでいたお父さんとお母さんは出産の為に、熊本へ来たので、守られたと話していました。私が小学校のころ、当時東日本大震災を経験した小学生の作文や、お話を担任の先生が話してくれたり、当時の映像を見たりしたことがあります。ほんとに怖くて、足の震えが止まりませんでした。学校から帰ってその事を話して、週末などで、家族で出避難所を決めたりしました。
高知にも南海トラフ地震がくると言われていて、その南海トラフに備えて、防災意識を高め、避難所とかでもボランティアができるようにしたいです。
今日は3月11日です
東日本大震災から15年経ちました
職場の後輩と話してたら当時は中学生だったと言ってたので、時の流れを実感します
発生当時は19歳で社会人1年目でした
工場で測定作業してた時だったけど、2分程の縦揺れで地震酔いしました
休憩室のTVで見た津波が現実に起きてることと受け入れなかったです
2週間仕事が休みになったり、計画停電の影響で土日に仕事したりと忙しく過ごしてました
それでも聞き続けてたのがこの番組です
当時はとーやま校長とやしろ教頭でした
BUMP OF CHICKENのメロディーフラッグを流したりガラスのブルースの弾き語り、サカナクション山口一郎さんの上を向いて歩こうを泣きながら歌う等覚えてます
一時期は震災直後や関連した授業の録音を聞いてました
20代からは東北に3回行きました
宮城県の仙台空港近くにある千年希望の丘では津波10m地点に記念碑やベンチが置いてあり、家があった場所が広い公園に変わってる現実をみました
福島県いわき市のマリンタワーから海を眺めたり小名浜港から花火大会を見る、片平里菜さんの10周年ライブで猪苗代湖から磐梯山をみて波音や夕日など自然に癒されました
辛いこともあるけど、前を向いて歩いていきたいです
僕は震災の日は秋田県にいました。
当時は、一つ下の階の友達の家で遊んでいたところでした。
テレビはミヤネ屋を付けており、今時のガキンチョっぽくリビングらしきところにあったソファーをトランポリン代わりにして遊んでいた記憶があります。
断水はなかったものの、停電が起こったため水がタンクから蛇口までは電気がないと送られてこない仕組みであったことから僕の母親が地上の蛇口まで給水をしに行くために1Fから4Fまで何度も往復をしていたというお話を聞いたこともあります。
また、母親の実家が太平洋側に位置しており、地震も僕が住んでいた場所よりもとてもひどかったそうです。また、祖父がその都度くる余震に吐きそうになったという話をしてくれたことも覚えています。
自分がちょうど高校受験をするときにもがっつり地震がきたのですが、その時が自分が記憶している中で1番強かった覚えがあり、その後起こったちょろっとした地震が連鎖したことで、少し気分が悪くなりました。祖父が言っていたことは、まさにこの事なんだなとも思いましたし、改めて自身の脅威を知った瞬間でもあります。
そして昨年お世話になっているNPO法人で、宮城から福島の沿岸部にかけて震災関連の学習をしてきました。
実際に沿岸部の市や町を訪問してみて、過去に自分が新聞で見てきた光景よりを遥かに上回るほど街が発展しており、震災がなかったものではないかと思わせています。
このような出来事があったということは絶対に後世に伝えていかなければならないものだと僕は思いました。
今日、自分は中学校を卒業しました。
あっという間の三年間でした。式の最後の合唱では、RADWIMPS先生の「正解」を歌いました。
昨日宣言した通り、写真を撮りまくれたのでよかったです!
そして、今日は日本が忘れてはいけない日。自分は生まれたてで記憶がありませんが、この災害のことをもっと知って、防災対策に繋げていきたいと思っています。
3月11日ですね。
15年前自分が東京でなにを見たのかについてはまたあとで語るとして、今は「震災」と「烈車戦隊トッキュウジャー」の話をしようと思います。
ただ前置きしておきますと、この話は一個人の“考察”なので「そう考える人もいるんだ〜」程度で流してくださいね。
では本題。
「烈車戦隊トッキュウジャー」は2014年〜2015年に放送されたスーパー戦隊シリーズ第38作目(多分)で、“鉄道”をメインモチーフにした唯一の戦隊です。
ざっと説明すると「“闇”によって街に襲来し、街やそこに住む人々の存在を忘れさせたり認識できなくする勢力“シャドーライン”に対抗するため、“シャドー”の侵攻によって故郷を失った幼馴染5人組が、“イマジネーション”によって走りなぜか子どもにしか認識できない“烈車”を運行する勢力“レインボーライン”のヒーロー“トッキュウジャー”に変身して、“シャドーライン”と戦いつつ“烈車”に乗って故郷に帰るための旅を続ける物語」です。
登場人物たちの性格や物語の雰囲気がコミカルで子どもっぽいところがあるため、リアタイ当時は大きいお友達から敬遠されている節があったそうですが、実は序盤から伏線が散りばめられていて終盤はかなりショッキングな展開が起きたりと大きいお友達の視聴にも十分耐えられる作品となっています。
…で、自分含め我が家の人々はそんな「トッキュウジャー」を(最初から最後まで観たわけじゃないけど)リアタイ当時から気に入っていて、自分は最近になってYouTubeでの公式配信で全部視聴しました。
しかし、この作品の2年前に放送された「特命戦隊ゴーバスターズ」が“東日本大震災”の影響で“シリアス”なストーリーになった、という話を聞いてからふと思ったんです。
「トッキュウジャー」もまた、“震災”の影響でああいう話になったのではないか?
正直、ネット上でそういう考察をしている人は見たことがないのでただの憶測みたいになりますが、「トッキュウジャー」は「ゴーバスターズ」とメインの脚本家が同じで、放送時期的に“震災”に近いため、考えようによってはそう捉えることもできるのでは、と思ったのです。
とても長いので「後編」に続く。