表示件数
2

そういえば今日は、向こうの城でも結婚式が行われていた

無責任なあの笑顔に、ずっと首を絞め続けられている。ついぞ書き上げることの出来なかったあの話、その一節ばかりが脳裏を巡る。ばしゃんと下品な水柱を立てて青の舞台へ入場した僕の身体は、彼女から貰ったあれやそれで一杯のリュックを重りにみるみる沈んでいく。

ソーダのグラスに鎮座する氷には、すべてがこんな風に見えているのか。歪んだ月光で満ちた水面にそんなことを思う。美しさを言葉に昇華させたくなるのは、物語を作る者だけが患うことの出来る病だ。──病人で在ることを辞められなかったばかりに、彼女を失ってしまったわけだが。

孵る気配のないたまご作家の廃棄を決行した彼女は今、別の男と誓いのキスを交わしている。いかにも金を持っていそうな面をした、いけ好かない野郎だった。今日をもって正式に夫婦となる奴らめのお陰で、僕はこれからこの世界から居なくなるのだ。

穏やかに最低な気分だ。吐いた溜め息は星のような丸に形をなし、届くはずもない夜空へ向かって昇っていく。のを、眺めていた、ら。どぶんと鈍い入場曲と共に、大きな花のようなものが落ちてくる。とうに感覚のない両腕でどうにか受け止めたそれは、──ドレスを身にまとった『何か』だった。

性別は女であろう『何か』は短刀を握り締めていて、人と魚との間をさ迷いながら、煌びやかな布の中でしゅわしゅわと溶けていく。この世のものとは思えない光景だから、此処はもうこの世ではないのだろう。ふっと笑ってしまったのが伝わったのか、胸に抱いた『何か』は不思議そうに僕を見やる。

ごめんね、なんだか、愛しくて。声は音になんかなりやしなかったが、彼女と似た色の瞳にそう言った。下がる眦はますます彼女に似ている。さよならのない世界へ生まれ直して、また会おう。鼓膜に響いた甘い夢がどちらの唇から零れたものなのかは、もう分からなかった。

無責任なあの笑顔に、ずっと首を絞め続けられている。ついぞ書き上げることの出来なかったあの話、その一節ばかりが脳裏を巡って、──瞼を閉じる。次に目が覚めたとき、きっと僕はあの話を完成させている。泡沫に塗れたこの景色を言葉に昇華させて、彼女に読ませてやれたら。

幕を引いていく意識の中、抜けるような真珠の爪先だけが泣きそうに鮮烈だった。

0

恋なんかしなくていいから長く生きてよ、乙女

「秋雨を先取りしてきたの?」

さっきまで窓際のベッドから青空を眺めていたくせに、彼女は汗だくで駆けつけた僕をそんな風にからかう。彼女はいつも以上にいつも通りだった。満身創痍で病院に担ぎ込まれたこと、以外は。

──ぐっしょり濡れたシャツのにおいを気にして、彼女から離れて座っておいて正解だった。その肌のあちこちを覆うガーゼの雲を見ていられなくて、僕はやや目を逸らしながら切り出す。

「あのさ」
「別れないわよ」

彼が好きなの。彼女の硬い声に撃ち抜かれたかのように、Bメロを歌っていたセミが、窓のステージからはけていく。音にならなかった「どうして」は喉元で死んだ。すっかり床へ視線を落としきった僕に、彼女はなおも言う。

「人間って損な生き物だから、幸せよりも不幸せの方が深く残るのよ。柔らかな言葉はこころを包むことしか出来ないけど、包丁の切っ先は心臓の奥まで届くでしょう」

──だから私、貰った指輪よりも新しい痣が大切。キスをしてくれるよりも、傷をつけてくれる方が嬉しいの。

「次は命に関わるかもしれない」

ようやく絞り出した声は夏の風のようにじっとりと湿っていた。ここまで大事になったのは今回が初めてだというだけで、彼女の「服の趣味」が変わったのはもう何年も前の話なのだ。

「ノースリーブやミニスカートが似合わなくなるだけじゃ済まないんだぞ」
「わかってるよ」

──わからないの。彼女は曇り空と化した両の手で顔を覆った。その震える声は、セミの骸すら撃ち抜けそうにない。彼女の思う幸せの形が、僕の持つ型には嵌りそうもなくて泣きそうだった。ぼくはただ、きみにわらっていてほしいだけなのに。