表示件数
2

LOST MEMORIES CⅤⅩⅥ

「おはよ!」
ぽんと肩を叩かれる。
朝のやりとりを回想していたことと、今までされたことがないということ、さらに後ろからというのは意外と心臓に悪いもので、驚いて振り返ってしまう。すると、叩いた本人が一番驚いた顔をしていた。
「ち、ちょっと!驚きすぎだよー!」
「い、伊藤さん……!?」
肩につかないほどの茶色がかった髪を揺らし、目を丸くしている歌名。
「びっくり、しました。おはようございます。」
ばくばくしている心臓を落ち着かせるように、努めて落ち着いた声を出す。
「ごめんね、前歩いてるの見かけたからさ。
一緒に行こ。」
にっこりという言葉が合う、お手本通りの眩しい笑顔を向けられた瑛瑠は、不意を突かれて言葉が喉を通り抜けなかった。
歌名とふたりきりで話すのは初めてだ。ごめんねとは言うものの、反省する気は無いらしく、からっと笑いかけられる。その笑顔は、もしかしたら初めて見るといっても過言ではないような、そんな笑顔だった。
「風邪って聞いたよ。大丈夫?」
チャールズか、英人か。情報源は鏑木先生だろうか。
とりあえず、風邪ということになっているらしいことは把握できた。
「大丈夫です。ありがとうございます。」
歌名は一瞬、少し哀しそうな顔をした。
「授業のノート、いつでも貸すからね!」
瑛瑠が見逃すはずもなければ、見間違いのはずもない。
しかし、思い当たる節もなければ、言及しようとも思わなかった。
歌名が、また笑顔に戻ったから。
けれど、この顔は見たことがある。所謂、作り笑いってやつだ。
「瑛瑠ちゃん。」
声が固い。
「……どうしましたか?」
思わず身構えてしまうのは許してほしいと思う。
「あの、さ――」

5

さよならのない別れって、刃のないギロチンみたいだ

妻に子供が出来たんだ。私を蕩かすためだけに存在していると思っていた声が、一文で二度分私を打ちのめした。左耳に寄せていた液晶が急に冷たい。そう、お幸せにね。せっかく諦めを知っている大人を気取れたのに、彼の返事を待たずに通話を切ってしまったせいで台無しだ。私は天井を仰ぐ。

薬指の寂しい左手に握ったままの携帯が、いやに掌に馴染まない。きっと彼と私もこんな感じだったのだろう。だって彼の薬指は寂しくなんかなかった。いつも嵌めていたあの手袋だって、家庭の跡を隠すための代物に過ぎなくて、──サンタクロースみたいにさむがりやなのかと思っていた。闇の中で絡めた裸の指先は、あんなにも熱かったというのに。



仕事で失敗をした。終電に揺られながら目を閉じるが、上司の罵声とお局の舌打ちが頭の中を回って止まない。ぐるぐる忙しいそれは洗濯機のようなのに、なんにも綺麗にしてはくれなくて、私は瞑った瞼にぎゅっと力を込める。と、すぐ横に体温が腰掛けた気配を感じた。

他にいくらでも席を選べる状況で、見るからに疲れきった女の隣に座るなんていい趣味の持ち主だ。ご尊顔を拝んでやろうと目を開けると、見覚えのある横顔が在った。残業の長引いた日、酒に連れ回された日、終電で必ず乗り合わせる男だ。

きっと男も私のことを覚えていた。だって今日に限って一度も視線が絡まない。持ち主の判明した温もりは途端に心地よくて、私はその肩に凭れ掛かった。所在なく膝の上に置いていた手に、黒の皮をまとった男の掌が重なる。そうして彼の名前を知ったのは、彼の服の中を知った後だった。



太い骨を思い出す。硬い肉を思い出す。厚い肌を思い出す。薄い唇と、その隙間から漏れる濡れた吐息を思い出す。

妻に子供が出来たんだ。柔らかな言の葉で出来た尖りが、チェーンソーみたいに頭の中を回って止まない。ぐるぐる忙しいそれは洗濯機のようでもあるのに、なんにも綺麗にしてはくれなくて、──涙が零れた。私と奥さんとの違いなんて、きっと永遠を誓ったか誓っていないかの差くらいだというのに。貰ってきたばかりの桃色の手帳に携帯を叩きつけて、膝を抱える。

子供が出来たんだ、なんて。
そんなの、私もなのに。

0

LOST MEMORIES CⅤⅩⅣ

やっと、太陽さんおはようだ。馴染みのなかったこの言葉にも、そろそろ違和感を感じない。シャワーを浴び、早くも制服に着替え、顔を出したばかりの太陽を見る。太陽はやはり暖かい。
再び、窓を開ける。朝の冷たい空気を欲している。今度は合法である。別に、夜に開けることが違法とかではないのだが。
まだ人の気配は無い。人間の活動時間には少しばかり早すぎる。
そのはずなのに聞こえる物音。それも家の中から。
「どうして起きているの、チャールズ。」
まさかと思ったけれど、ちょっと早過ぎやしないか。
リビングへ行くと数時間前に言葉を交わした彼がキッチンに立っている。
「おはようございます。」
華々しいその微笑みは、なんだか久しぶりに感じる。それもそうかもしれない、数時間前は疲弊していたわけだし、2日間瑛瑠は、文字通り夢の世界へ身を預けていたのだから。
しかし、睡眠というよりかは仮眠ではないのかこの付き人。
ふと生じる疑問。
「おはよう。
……チャールズは、どれくらいの間こっちにいるの?」
朝食を作っているときの音は、人間界へ送られてからよく聴くようになった。その良い音をBGMに、チャールズに尋ねる。ついでに、何か手伝おうか?と付け加えるのも忘れずに。

0

LOST MEMORIES CⅤⅩⅡ

一通り書き留め、チャールズと英人のふたりに向けた疑問をさらに書き出してみる。
とりあえず英人には、お礼を言ってから聞いてみよう。今日行けば終わりということだから、明日明後日は休日ということだ。そのどちらかで英人とは話せればいい。チャールズへは今日帰ってきてから、もしくは休日のどちらかでいい。ゆっくり話せなければ意味がないから。
ノートを閉じる。
カーディガンを羽織っているとはいえ、少し肌寒い。それでも、何故だか無性に月が見たくなって。
部屋の明かりを消し、カーテンを開く。チャールズに怒られそう,なんて、くすりと笑みを雫し、月を見つめる。だいぶ傾いてきていた。夜が明けるには、まだ時間があるけれど。
見上げる空には、星がいくつか見える。何のあてもなく見上げていた瑛瑠は、北斗七星に目を留める。柄の3点から線を伸ばす。その先に繋がる一際明るいその星は、うしかい座のアルクトゥルス。
じゃあ、その先は?
おとめ座のスピカ。
誰にともなく問いかけ、自分で答える。
春の大曲線。
今、こんな時間にこの星達を眺めている人が、一体どれくらいいるだろう。自然と微笑んでしまうくらいには贅沢なことをしている。瑛瑠はひとりそう思った。