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輝ける新しい時代の君へ Ⅹ

 地につかない足をフラフラ不規則に揺らしていると、男がにわかに顔を上げた。
「なんだ、きゅうにうごくとびっくりするだろ……」
「ア、ごめん。さっき、変な話してしまったものだから、明るい話したいなって思ったん
だ」
「いいんじゃないか」
「明るい話ってどんなかなァ……ダンゴムシと全裸で一時間睨み合った話とか」
「なんでそんなことになるんだ」
「それがね……」
 そして何事もなかったかのようにおかしな話をして、明るい雰囲気を無事に取り戻し、先程の話が頭の中でいささか引っ掛かっていたものの、何事もなかったように別れを告げた。


 三週間もすると、毎日のように雨が降る時期に差し掛かった。朝から嫌に重い雨が、生温い空気とともに黄色の傘を叩く。少年は涼しげな薄い青色のスカートが濡れることを懸念してはいたが、雨天が嫌いではなかった。不規則に傘に当たる雨粒の音、長靴が水溜まりを踏む音、家の屋根や紫陽花の葉が奏でる音。止めどない降水によって悪くなった視界のおかげで感覚を集中し、それらを満喫できる。こうして考えれば、蒸し暑いことは別段苦ではなかった。
 それに、少年には行く場所がある。毎日三十分だけ会える、年の離れた友人のもとだ。
 昨日は彼の好きな芸人の話をしてくれた。一昨日は貸した三円が三円分のキャラメルとシベリアになって返ってきた話をしてくれた。その前の日には酔った勢いで褌一つで上官(彼は中尉だったという)の部屋に出向いて営倉に入れられる羽目になった話をしてくれた。
 今日はどんな話をしてくれるのだろうと、あの時は気が付いていなかったが、少年は自分が思うより楽しみにしていた。雨の重さに反して少年の足取りは軽かった。
 しかし少年が公園に着くと、あのくすんだ緑色の服を着た坊主頭は見当たらなかった。
 雨が降っているので遅くなっているのだろうと思ってベンチに座って待つ。しかし十分経っても十五分経っても来ない。

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輝ける新しい時代の君へ Ⅸ

「いいとおもう。べつに」
  少年のいつも通りの口調で言ったその言葉に、男は顔を上げた。少年は本当に、それでも良いと思っただけだった。彼にはまだ話の意味も男がどんなに苦しんでいるかもよく分からないし、他人の気持ちに寄り添う能力も乏しい。しかし何となく、別に良いと思った。
「ぼくもたまにな、さびしいってほんとうはおもったりするんだ。おじさんのとはちがうとおもうけど。ぼくも、きくだけならできるぞ」
 いつも通りの何を考えているか分からない顔で、いつも通りの心地良い風に黒く細い髪を揺らし、いつも通りの住宅街の狭い青空を睨む。その間、男の方を見ることはなかったので、彼が何を思っていたかもどんな顔をしていたかも分からなかった。別段興味があったわけではなかったし、それに何となく、知る必要はないと思っていた。
 今振り返ると男は困惑していたと思う。六歳児に愚痴を聞いてもらおうとしている自分に嫌気がさしたと思う。しかしきっと、彼の話を聞いたのは正しいことだったのだろう。
 男は自分の中で折り合いがついたのか、再び俯いてゆっくり話し出した。
「俺、本当はずっと言いたかったよ。死にたくないってね。妻や子供のためなら死にたくなかったよ。普通に考えれば分かった筈なんだよ。死ぬのが無駄どころか、損害にしかならないって。でも考えなかったから。考えることそのものが無駄だったから……」
「……」
 少年は何も言わず、微動だにせず、ただ雲一つない空を睨んでいた。
「あー、えーっと、ごめん」
 男は項垂れたまま、焦り気味に軽く謝罪した。
「おお」
 それに対し、考えられるだけ考えた結果、短く生返事をすることになった。
 少年には男が三十代から四十代位に見えていたので、戦争に出ていたことを意外に思った。確かに五十代だ、六十代だと言われればそう見えるような気がする。ただ、五歳児の年齢感覚だ。到底信用できたものではない。

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四話 牡丹江の俘虜収容所医務室にて

 ヤーコフ医師は、牡丹江の俘虜収容所に派遣された。日本人を収容しており、シベリアの収容所までの中継地点である。日本人はここからシベリア各地に送られる。
 その医務室には今日も病に侵された元日本軍人がやってくる。
「次の方、お入りください」ヤーコフが促すと、日本人が一人、静かに入ってきた。ソ連に捕まった時のよれた第一種軍装のままの20代か30代の一等兵だった。名を訊くと芝野倉治と言った。
「お座りください。……どういたしましたか」
「咳が酷いのです。痰が絡んで息苦しいのです」
「どのくらい前から」
「3日、4日程度です」
「それは気の毒に……結核やもしれません。今日から病棟に入りましょう。念のためです。検査ができんもんですからね……」
 そう言ってヤーコフは入棟の為の申請書を書き始めた。途中、日本人に話し掛けた。
「前回来た中隊の人ですか」
「ええ」
「私も最近派遣されました。本当は妻も子供もおるんで、ロシアに残りたかったんですがね。芝野さん、ご家族は」
「母と妹、身体の弱い弟と……婚約者が内地に」
「それはお辛いでしょう」
「せめて籍を入れてくれば良かったと。働かされては可哀想ですから」
「そうですね、あなたが一刻も早く祖国に帰れることを願っています」
 ヤーコフが穏やかに微笑むと、日本人は彼に哀れむような眼を向けた。
「あなたは優しいですね……でも、それじゃいかんですよ。私は俘虜です。そしてあなたは我々を収容する側です。偉そうに冷淡にせにゃならんのですよ。俘虜になめられちゃ悲惨です」
 そこまで言うとヒューヒュー空気が抜けていくような酷い咳をして、ヤーコフは急いで背中をさすってやった。
「無理せんでください。お体に障りますよ。……確かに私たちは芝野さんたちを収容する立場にあります。でもね、ここではそれは関係ないのです。ここでは私は医者で、あなたは患者です。今異国の地で絶望に震える者たちには、優しさが必要なのですよ。あなたたちが無事に帰るのに必要なのです。未来にはあなたたちがいなくてはいけないからです。だから、あなたたちが帰るために、私はなめられても仕方ないのです」
「自己犠牲は無駄です」
「違いますよ、これは自己犠牲なんかじゃないんですよ」


                          終

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輝ける新しい時代の君へ Ⅷ

 次の日も少年は男のもとに行った。
 男は少年が自分の横に座ると、いつものように切り出した。
「昨日は何をしたんだい」
「きのうはな、おはかまいりに行った」
「へえ、誰のだい」
「お父さんのお父さんのおはか。きのうはじいちゃんの命日だったらしい」
 少年が何ともないように言ったが、男の顔から笑顔が消え、代わりにいささか目を見開いた。
「おまいりに行ったとき、おばさんが僕のじいちゃんはここにはいないんだと言っていた。せんそうで、とおいところでしんだらしい」
 少年は父方の祖父に会ったことがなかった。祖父の息子たる父親でさえ思い出がない。というのは、少年の祖父は約四十年前の満州で戦死したのだ。父親が五歳の頃だ。だから祖父の話はあまり聞いたことがなかった。祖母は健在であるが、早々会わないので彼女からも話を聞いたことはない。
 そういったことがあり、感傷などは少しもなかった。それに何より、まだ『戦争で死ぬ』ということの意味があまり分かっていなかった。
「なあ、せんそうって何なんだ?こわくないのか?ほかの国のこと、どうしてきらいだったんだ?」
 突然の質問攻めに男は困惑した。今になって、どうしてあんな無礼な質問をしてしまったのかと後悔することが多々ある。しかしこの時の少年にとって戦争は、単なる好奇心や興味が向けられる対象以外の何物でもなかった。
 それは男も分かっていたと思う。少年のことを能天気だと思ったかもしれない。妬ましいと思ったかもしれない。羨ましく思ったかもしれない。怒りを覚えたかもしれない。それを抑えて無難に答えるつもりだったのだと思うが、感情が溢れ出していた。
 天を仰いだ目は、出会った日よりも強く哀愁が感じられ、それは少年にも分かるほどだった。長い溜息を吐いて足に肘をつき、手指を組み力なく項垂れた。
「アー……本当に何なんだろうね。俺が訊きたいよ。怖かったなあ……本当は心の中では死にたくないって思ってた。実はね、みんな、アメリカやソ連のこと嫌ってばかりじゃあなかったんだよ。なのにみんな嘘吐いてた。自分や家族を守るためにね……嫌な世の中だった」
 おどけて言っているが、声は震えていた。顔は見えない。
「良くないね、大人なのに弱音吐いて。変な話してごめんね。坊や、まだ子供なのに」

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輝ける新しい時代の君へ Ⅶ

「おもちはおいしかった。だけどはっぱはおいしくなかった。やさいはすきだけど、あれはへんだ」
 表情も声色もあまり変わらなかったが、いかにも美味しくなかったという雰囲気を醸し出していた。その様子に男は吹き出し、声を殺すようにクックックと笑った。
「なんだ、きゅうにどうした」
 少年が訝しげに問うと、男は右手を口元に、左手を顔の前方で違うという風にゆっくり振って「いやァ、ごめんごめん」と軽く謝罪した。
「だって君、桜餅の葉っぱは食べるけれど、柏餅の葉っぱは食べられたもんじゃないよ。あれは食べないからね」
「そうだったか」
 少年はほんの少し赤面した。顔が紅潮していることに気が付くと更に気恥ずかしくなってきて、「そんなことより」と話を変えた。その様子も滑稽で、ずっとニコニコと男の口角は上がったままだった。
「おじさんは、きのう何したんだ?」
「俺?俺かァ……俺はおっさんだから、面白いことは何もしないよ」
「しごととかは?」
「し、仕事?」
「うん」
 男は戸惑った様子で後頭部を掻いた。しばらく目を泳がせた後、「俺の仕事は、秘密の仕事なんだ。言うと大変なことになるんだよ」とおどけた。
「たいへん……?なんだそれ」
「い、いやァ……ははは……ああっ!もう時間じゃないか、伯母さん、待ってるよ」
「あ、うん」
 男は後ろめたいことでもあるように焦って言った。少年は釈然としていない様子だったが、勢いに押されて「じゃあ」と別れの挨拶をした。

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輝ける新しい時代の君へ Ⅵ

「坊やね、お父さんお母さんに言ってみるといいよ。皆、君のことを愛しているからね、言ったら行事とか調べて、やってくれるからね。君の家族は皆良い人達だ。ただ、子供にどうしてあげたらいいか分からないだけなんだ」
「なんでわかる」
「そりゃ分かるさ。っ……えっと、君の家族なんだよ。良い人達に違いない。マアでも、それでも忙しそうだったら、俺と一緒に色々やってみよう」
「でも、おじさんしらない人だ」
「エ?」
 男は一瞬止まってきょとんとしたが、すぐに思い出したように「アア、そうだったね、ウン、昨日会ったばかりだった。ホラ、君俺とこんなちゃんと話してくれるからね、話している間に会ったばかりだって事をスッカリ忘れていたんだ」と繕うように言った。
「ぼくも、しらないかんじしない。ずっとしっていたみたいで、へんなかんじだ」
「ウンウン、そうだろうとも。ところで、昨日は他に何をしたのかな」
「あのな———」
 この後も時間まで他愛もない会話を交わし、少年は伯母の家に向かった。


「昨日は端午の節句だったけれど、何かしてもらえたかな」
「うん。お父さんがおもちをかってきてくれた。お母さんは小さいこいのぼりをくれた。赤いやつだ」
 そう言って少年は両手を胸の前で自分の狭い肩幅くらいに開いて、大きさを表した。
 男に出会って早一ヵ月。少年は毎日この公園のベンチに来ている。男は、ここ二週間は少年より先に来て彼を待っていた。 
 少年は元々、数少ない両親の休日はこの公園に来ることはないが、男に会うためにこの一ヵ月で合わせて三日、散歩と称して公園に来た。毎日必ず三十分だ。あまり遅くなると両親が心配すると分かっていた。実際うっかりぼうっとしながら歩いて道に迷い、帰るのが二十分ほど遅れたことがあったが、心底心配されて、涙目の母親に叱られたことは少年が大人になった今では良い思い出だ。

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輝ける新しい時代の君へ Ⅴ

 数十秒経って、少年が口を開いた。
「一年ごとにとくべつにやることってあんまりないから」
「エ、色々あるじゃない」
「たとえば?」
「例えばね、誕生日とかは分かりやすいね。あと年末年始もあるし、端午の節句と桃の節句も大事だ。正月は流石に俺も仕事は休めたね」
 少しだけ楽しそうな男の横顔をジッと眺めて固まった。それに気が付いた男が少年に顔を向けて、朗らかな微笑を浮かべたままいささかばかり首を傾げる。少年はそれで思い出したように話し出した。
「あ、たんじょうびと正月はあったかも。たんじょうびは、おめでとうって言われた。正月にはうちのかみさまにあいさつする。でもどっちもお母さんもお父さんも夜しかいない。もものせっくと、たんごのせっくもお父さんとお母さんいない。しごとがたくさんあるから」
 折角考えた話す内容を忘れないように早口で並べ立てた。
 少年は先程までと変わらず、無表情で言った。少年はこの状況にあることが別段寂しいと思ったことは無いし、同世代の子供と関わることが少ない彼が一般的な状態など知る由もないので変だと思ったこともない。だからこれは状況報告に過ぎなかったのだが、聞いていた男は途端に慌てだした。
「何てこった……ウウ、これ……」
 最後の方はよく聞き取れなかったが、男は呟きながら後頭部を掻いて考えあぐねるような顔をした。
「ええっと、おばさんの家でも他には何もないのかい」
「あったけど、忘れちゃった」
 少年は首を数度傾げて答えた。
 確かに子供の、しかも未就学児の記憶力ならその程度なのかもしれないが、大したことをしていなかったから覚えていなかったのだと考えることも十分できた。
男は小さく唸ると「何かごめんね」とばつが悪そうに笑った。少年にとってはよく分からない内に相手が悩み始め、よく分からない内に謝られるという、今の彼の脆弱な情報処理能力では処理に困る状況だ。どう反応していいか分からなくなって、ただ一度、何も言わずにコクリと頷いた。

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三話 マニプール河流域の白骨街道にて

「あぁ……」
 俺は遂に倒れ込んだ。
 昨晩までの雨で川の様に泥水の流れるのも気にしないで。俺の右半身は泥にめり込んで、温い水が滲みて身体がいつもより幾倍も重く感じた。
 白骨街道。
 抜け出せぬ牢獄だ。人々はインドに渡る前にバタバタ死んでいった。道端には死体や、もうすぐ死体になる者があちこちに落ちていた。皆瘦せ細って泥だらけになり、異臭を放っていた。1週間続いた雨はそれらの腐食を早め、ふやけた皮膚を大量の虫が食い千切り体内に潜り込む。俺もその一員になるのだ……。
 体中が痛い……力が入らない……熱帯熱にもやられているらしい……意識が朦朧としている。しかし目を瞑ったら死ぬ気がする。腹は減っているのに吐き気がする。固形物はもう身体が受け付けなくなって久しい。昨日も胃液を幾度か吐いた。ああ……水が飲みたい、綺麗な水が……。
 俺は泥水を啜りながら思った。
 夢中になって二口三口する。だが少ししか飲み込めず吐き出してしまう。液体でも駄目になったか……。
 ……俺ももう死ぬな……そんな考えが脳裏をよぎった時、気が楽になった気がした。
 ああ……帰りたい……帰って綺麗な水が飲みたいなァ……彼らもそうだったんだなァ……この水は、泥と、彼らの体液と、腐臭と、怨念とを混ぜて……俺はそれを飲んだ……。
 それが俺を生き永らえさせた……そして俺は今……死ぬのか?
 死ぬことは、許されるのか?

                        終

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二話 長野の列車内にて

 列車内には私以外にも、10人か20人くらいの傷痍軍人が乗っているようだった。そこに幼い少年と父親が今日も乗ってきた。少年は綿入れで、父親は国民服姿だった。2人はリュックを背負っていた。そうやって、1週間に1度乗ってくる。
 それから2人は決まって、リュックからいっぱいに詰めた餅を取り出して1つずつ乗客に配っていく。あの親子も生活は楽ではないだろうに、毎週。何だか嬉しそうでもあった。
 前の人から順々に配っていって、私のところにもやってきた。
「どうぞ」
 少年が餅を差し出した。私は相当酷い顔になってしまって、子供からすれば恐ろしいだろうに、彼は物怖じしなかった。
「私は……怖くないか?」
「こわくないよ」
「酷い顔だろう」
「いたそう。でも、お母ちゃんとみっちゃんはもっとかわいそうだったの。こわくないよ」
「そうかい」
「うん。じゃあね」
 屈託のない笑顔を見せて次の列に行こうと身体を向きなおした。そこに私は「少年」と声を掛けた。
「なあに?」
「ええと、その、餅、ありがとう」
「うん」
「これ、売ればいいじゃないか」
「いいの。おとうふとか、おさかなとか売ってるから」
「何で売らないんだ」
「かうのはたいへんってぼく、ちゃんと知ってるからね」
 得意気に言って、もう他の人に配りに行ってしまった。
 買うのは大変。確かにそうだ。でも、それをひとに言って自分のものを分け与えられる者など、今の時代にいくらいようか。彼らも貧しい思いをしてきたろう。今だってきっとそうだ。働けなくなった我々に見返りは望めない。それは明々白々であるというのに。与えないことは悪ではないのに。物乞いに施さなかったところで誰も責めやしない。皆苦しんでいるからだ。なのに、あの親子は何と無垢なのか。
 あの親子の純粋な笑顔を見ると、涙が溢れて仕方がなかった。
         
                              終

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輝ける新しい時代の君へ Ⅳ

 表情筋は殆ど動いていなかったが「オヤ坊や、嬉しそうだね。そんなに俺と会えて嬉しいかな」と、男は喜色満面で隣に座った。
 すると少年は少し俯いて、上目だけで男を見て、
「うん」
と頷いた。男はもっと薄い反応が返ってくると思っていたので、意外な反応に困った様にはにかんで、坊主頭を搔いた。
「あっはは、冗談だったんだが……そんなちゃんと言われると照れるなァ……」
「?なんでだ?」
 追及されると余計困ってしどろもどろになって、手と頭を横に振った。
「えええ、変なところで食いつかないでよ。子供って分からないなァ……。それよりも、俺ね、君の話聞きたいなァ。昨日はおばさんの家で何をしていたんだい?」
 少年は男の様子が滑稽でつい吹き出した。男も苦笑する。
「笑わないでよ」
「えへへ、うん、ごめん。あのね、きのうはたくさん本よんだんだ」
「いいね、俺も読書は大好きだよ。どんな本読んだんだい?」
「あのな、『どくもみの好きなしょちょうさん』っていう絵本を読んだ。おもしろかった」
「オオ、いいもの読むね。俺も宮澤先生の作品は好きだよ。若い頃よく読んだよ」
「みやざわ?」
「うん、宮澤賢治さん。『銀河鉄道の夜』って知ってるかい。アレ作った人。『毒もみの好きな署長さん』作った人も宮澤先生だね」
「へえ。『ぎんがてつどうのよる』おもしろいか?」
「アア、とても。でもね、君にはね、まだ少し難しいと思う。今何歳だい」
「うーん……六さいだ、とおもう」
 曖昧な回答に男は苦笑した。
「確かでないね」
 少年は踏み固められた地面に咲く西洋蒲公英を睨んで黙りこくった。嫌な質問だとか答えたくないとか、重大に考えているとか、そんなことではない。これは少年の癖で、話す事柄をまとめる時に機嫌が悪いような顔になり、固まってしまうのである。
 その所為で誤解されることも多い。好かれない理由の一つでもあった。
 しかし男は優しい目で黙って返答を待った。これが今の少年に必要なことだと分かっていたのかもしれない。或いは大した質問ではなかったためスルーされてもいいと思ったのか。