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旋律 #5

 そして、その時にふと気がついたことも尋ねてみた。
「あと、アイカちゃんは?おやすみ?」
その子は周りを少し見渡してから答えた。
 「マオもよくわからないんだけど…、アイカちゃんは、お休みだよ」
「なんで?」
「え?律ちゃん、知ってるんじゃないの?」
もともと大きな目をさらに広げて言う彼女に、私はさらに目を丸くした。
「なんで?なんで私が知ってると思ったの?」
「だってさ、アイカちゃん、金曜日帰る時ずっと『律ちゃんのせいだ、律ちゃんひどい』って言ってたもん」
 そう説明されても、私はただ首をかしげるばかりだった。
 アイカちゃんに何かした覚えは、ないんだけどな。

 とりあえずその子にお礼を言って、次は美亜を捕まえた。
「ねえ、なんかみんなが変な感じなんだけど。あと、アイカちゃん、金曜日何か言ってたんでしょ。何を言ってたの?」
 畳み掛けるように質問する私に、美亜は少し驚いていた。
「えっとね、みんなが変なのは多分アイカちゃんが原因だよ」

 美亜は私がジャングルジムから落ちた後の話と、金曜日のアイカちゃんのことを教えてくれた。
 幼稚園児の話すことなので辿々しく、とても長い話だった。要約すると、アイカちゃんは私がジャングルジムから落ちたせいで貴方から嫌われた、と騒いでいたらしかった。

 私が病院へ運ばれた後、アイカちゃんとそのお母さんは私の家に来た。その時母は私に付き添っていたので、少しの間留守番していた貴方が出た。
 隣でお母さんが必死で謝ってるのに、アイカちゃんは特に気にすることもなく、ワンピースの汚れを払ったりと退屈そうにしていたらしい。
 アイカちゃんのお母さんが電話か何かで外に出た時、アイカちゃんはいつも通り貴方に甘えようとした。でも貴方が彼女に向けたのは、悲しみと怒りとが入り混じったガラス玉のような瞳だった。
 そして貴方は、無言で病院へ向かった。

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サーカス小屋 #ブランコ乗りのルイス・キャロル

 愛してるわ、ルイス。

 その言葉を脳内で君の声に変換するなんて、僕ぐらいにしか出来ないんじゃないかな。それは誇らしいことだ。
 「僕も愛してるよ、アリス」
唇と一緒に両手を動かす。我ながら手話も上手くなってきた。
 君のあどけない笑顔が咲く。首を少し左に倒す癖が愛おしくてしょうがない。
 生まれてこの方ずっと耳の聞こえない娘に、ブランコ乗りを勧めた団長は何を思ったのだろうか。音楽も、カウントも頼れないのに、どうしてよりによってペアでの演技を。
 尋ねたことはなかった。「じゃあ、違う人にしようか」と言われる気がして怖かったのだ。彼は簡単に困っている人を拾ってきて、簡単に捨てる。飴と鞭なんて言うと聞こえはいいが、上げて落としているだけなのでタチが悪い。

 ルイス・キャロルの名を襲名した時、背の高い団長の影に隠れてやってきた少女はずっと笑っていた。目元を少し緩ませて、口を横に引き伸ばす、お手本のような笑顔だった。
 「この子がお前のパートナーだ。互いの命綱は互いが握っている」
彼は無機質な声でそう告げた後、口元だけを意地悪そうに歪ませ、「お前も一度、人を愛してみろ」と笑った。
 僕は君から恋を教わり、君は僕から愛を受け取った。ただ耳が聞こえないだけの君は、音だけでなく愛も知らなかった。

 100人を超える観客と、十数人のサーカス団員が閉じ込められている薄暗いテントの中。僕らが二人きりになれる場所だった。
 空中ブランコに掴まって、君と目を合わせる。その瞬間、僕らは本当に僕らだけになれた気がした。
 君の両手を受け取って、二人の体が弧を描く。この重ささえ心地いい。そして次は君が僕を支える。全てを君に委ねる。何も怖くない。
 君は僕の手を離した。

 午後11時のサーカス小屋、空中ブランコにぶら下がったアリスは声高らかに宣言した。
 「私がルイス・キャロルよ」
あれほどはっきりと話す彼女の声は、誰も聞いたことがなかった。静まり返るテントの中、長身の団長だけが口元を歪ませていた。

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旋律 #4

「律、おいで。帰るよ」
下りるのに手こずっていると、私を抱こうとするあなたの腕が伸びてきた。
 隣にいたアイカちゃんが怒りで顔を真っ赤にしてこちらを睨んでいるのを視界の隅でとらえる。
 貴方の手が私に触れるか触れないかという時、アイカちゃんは私を思い切り突き飛ばした。幼稚園児の力なんて大したことないけれど、貴方の手を信頼仕切っていた私はほとんど力を入れていなかった。
 ふわっと体が浮き、頭上に湿った砂が見えた。貴方が驚いたように私の名を呼ぶのがなぜか遠くで聞こえた。

 気づけば、地面に寝ていた。横から押されたので思ったよりも遠くに飛んだらしく、こちらへ駆けてくる貴方が見えた。頭がぼうっとしていたけれど、不思議とどこも痛くはなかった。先生が園舎から飛んでくるのが見えて、そこで私の記憶は途切れている。
 唯一わかったのは、貴方の腕の中にいると言うことだった。

 次に目を開けた時、私が寝ていたのは園庭の油っぽい砂の上ではなく、そわそわするほど真っ白なベッドの上だった。同じように白い天井が目に飛び込んできて、自分がどこにいるのかわからなくてどうしようもなく不安になり、視界が涙で滲んだ。
 だから、貴方が「律」といつも以上に美しく温かい声で呼んでくれた時、ベッドの反対側にいた母のことなど目もくれず、迷いなくその意外と広い肩に抱きついた。
 私の短い腕ではとても背中まで手が回らなかったけれど、貴方は優しく頭を撫でて一言、「よかった」と呟いた。

 頭を打っていたので数日検査入院したけれど、その後は今まで通り生活できた。退院したのが金曜日だったので、次の月曜日からは普通に幼稚園に通った。
 入院中にアイカちゃんとそのお母さんは一度うちを訪ねてきたと母から聞いた。どんな話をしたのか気になったが、母の年齢を感じさせない綺麗なその横顔を見ていると、なぜか聞けなかった。

 「律ちゃん!」
教室に入った私を迎えてくれたのは、美亜ただ一人だった。
 もちろん他の友達も、私が声をかければ答えてくれたが、自ら駆け寄り、話しかけてくれたのは彼女だけだったのだ。
 違和感を覚えた私は、近くを通りかかった女の子を捕まえ、聞いてみた。
「ねえ、何かあったの?」

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旋律 #3

 その日の迎え時間、事件が起きた。
 私は貴方を待って園庭のジャングルジムに登っていた。今もなお連絡を取り合っている美亜と、アイカちゃんも一緒だった。幼さというのは恐ろしく、数時間たてば二人ともあの険悪な雰囲気などすっかり忘れていた。
 「ねえ、お休みの日、何して遊んだの?」
美亜は私たちの顔を交互に見て尋ねた。
「美亜ちゃんは?」
「私はね、ゆみちゃんと縄跳びしたよ」
ゆみちゃんというのは彼女の妹だ。当たり障りのない答えだった。
 するとそれに対抗するように、アイカちゃんが口を開いた。
 彼女が自慢げに話したのは、なんとも優雅な休日だった。今思えばどう考えても見栄を張った嘘なのだけれど、滞りなく話すアイカちゃんを見ると、幼い私は信じ切ってしまった。
 海辺の別荘、ママの作るアップルパイ、白いリボンのついた麦わら帽子。
 どれも私には縁のないものだった。
 ふと、アイカちゃんを妬んでしまったのだ。
「私は、蓮くんと市民プールに行ったよ。スライダー楽しかったな。そのあとデパートに行って、蓮くんはジュースとぬいぐるみも買ってくれたんだ」
一息でしゃべってからアイカちゃんに目を向けると、起こっているはずなのに冷たい瞳が睨み返してきた。
 何も気づかない美亜が一人何か話していたが、少しも耳に入らなかった。アイカちゃんの刺すような視線を受けると、なぜか罪悪感に襲われた。
 逃げるようにあたりを見回す。門から入ってくるお母さんたちの中に、一人妙に派手な格好の、金色の頭が見えた。遠目でもわかった。
 「蓮くん!」
 アイカちゃんから逃れられたことにほっとして、思わず大きな声を出してしまった。みんなが一斉に貴方の方を向き、当然アイカちゃんも視線を動かした。
 貴方はまとわりついてくる園児をよけるように大股でゆっくりと近づいてくる。ジャングルジムの下まで来ると、のんびりと顔を上げた。

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旋律 #2

 私たちが幼稚園に行くと、誰からともなく園庭に飛び出してきて貴方を囲んだ。アイカちゃんは強引にみんなを押しのけ、嬉しそうに貴方に抱き着く。そのとき、ちらっと隣の私に視線を流すのが、なんとなく嫌だった。
 それでも私が貴方と幼稚園に行くのを喜んだのは、去り際に、その指輪のいっぱいついた手で頭をなでてくれるからだった。指輪のごつごつとした感触さえも愛おしく、貴方のことがより一層大好きになった。
 そして何より、私が知る限り貴方は、私以外の子の頭を撫でなかった。なぜかは分からなかったけれど、自分は特別なのだと思えて嬉しかった。

 「ねえ、律ちゃん、ちょっとずるいと思うんだけど」
みんなが砂遊びをしている中、アイカちゃんは私を一人呼び出した。もっともらしく、わざわざ園舎の裏に。
「なにが」
彼女の腰に手を当てる仕草がなんとなく気に障り、分かりきっていることを聞いた。
 「蓮と一緒に幼稚園来たり、頭撫でてもらったり。ずるい、ずるいよ」
目に涙を浮かべるアイカちゃんは、悔しくも今思い出せば可愛かった。
「そんなこと言われても困るよ」
聞こえないように、小さく呟いた。
「とにかく、蓮とお似合いなのはアイカなんだから。蓮はアイカと結婚するの」
アイカちゃんは言ってやったと笑っていたけれど、私の頭は、砂場に残してきたお気に入りのスコップがとられてはいないかという心配でいっぱいだった。
 「そういうことだから」
アイカちゃんはフリルのついたスカートを揺らしながら駆けていった。

 「結婚…!」
改めて彼女の言葉のダメージを受けたのは、お弁当を食べているときだった。
 きっとあれが、初めて人を憎いと思った瞬間だった。周りが呆れるほど、のんびりとしていておおらかな子どもだった。そのせいで、要領の悪いことをしてしまうこともしょっちゅうだった。
 でもこの時、私は確かにアイカちゃんを憎んでいた。
 恋する乙女心というと聞こえはいいが、実際人を憎んで羨んで、愛する気持ちはもしかすると半分もないのかもしれない。と言っても、それはある程度成熟した人間の話だ。当時の私はまだまだ純粋だった。貴方を愛する気持ちだけでできていたといっても過言ではない。そう思っていた。

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旋律 #1

 近頃よく、貴方と居たときのことを思い出す。十年ほど前だろうか。私は幼稚園に通っていた。当時のことはほとんど忘れてしまったはずなのに、貴方のことだけははっきりと覚えている。
 それは、蒼い月の光にかざして見るガラス玉のようにくすんで。でもしっかりと、私の脳裏にへばりついて離れない。

 貴方が通っていた高校は、県内で唯一音楽科があり、楽器や施設の設備が整っていた。貴方は普通科だったけれど、何度もメンバーチェンジをしながら細々とバンドを続けていた。ギターボーカルを務める貴方の声は美しかった。
 顔立ちは整っていて、面倒見もよく優しかったから、相当女の子たちには人気だったのではないだろうか、と今になって思う。
 そんな貴方が私の名を呼ぶたび、私はなんだかくすぐったくて、もう一度呼んでとせがんでは貴方を笑わせていた。

 貴方は二年生になると、時々授業を休むようになった。当時の私は特に深く考えず、幼稚園への送り迎えを母に頼まれている貴方を見て、一人飛び跳ねて喜ぶのだった。

 「律、幼稚園行くよ。かばん持って」
貴方は私に話しかける時、目元を崩してはにかむように、それでもどこか泣き出してしまいそうな不思議な笑みを浮かべる。それは、私が一度だけ見たことがある、貴方が学校の友人に見せていた表情とはまったく違うものだった。
 「ちょっと待って」
私は玄関に居る貴方に聞こえるよう、リビングから大きく呼びかけた。
 貴方は私を待つとき、その派手なスニーカーのつま先で玄関のドアをとんとんとつつく。その時の表情がなんだか可愛らしくて、私は度々わざと玄関で待たせた。
 
 幼稚園に行くと、貴方は私の友人たちからも人気があった。その中でも一際印象に残っているのは、アイカちゃんという私より背の高かった女の子だ。
 その子は生意気にも、貴方のことを「蓮」と呼び捨てで呼んだ。貴方はとくに気にしていなかったけれど、私はそのことが不満だった。
 ほとんど生まれたときからそばにいた私も、「蓮くん」と呼んでいたのに、どうして数か月前に出会ったこの子が呼び捨てなのか。まるで恋人みたいではないか。子ども心にそう思った。