今日であの災害から、5年。
自分は地震があったときには学校でふつうに授業をうけていました。
家に帰るまでは何も知らず、テレビをつけたときのしょうげきは今までに経験したことのないものだったと覚えています
大変なとこが、この日本で起きているんだと、思い自分もなんとかしたいと思いながらもまったく今までなにもできずにいる自分。
いまでもなんとかしないといけないといつも考えてるけど、なにもできずにいます。
でも、最近こう思い出しました。
毎日を大切に生きることが一番大切なんだと。
まだ、僕の力では、世界を変えることはできないから自分が持っているたったひとつのいのちを大切に生きようと思います。
これが五年たってようやくたどりついた答えです
午後2時46分、後期試験の下見の帰りの電車で1人黙祷してました。黙祷中に、親や中学、高校の仲間、そして好きな人への感謝を込めました。テレビは震災のことばかり。
Twitterのとあるツイートに、「過去のことを振り返りすぎや。もっとこの先の復興のことを伝えろよ」というツイートを見ました。最初は、確かにそうやなと思ったけど、本当にそうなのかと思います。過去を振り返らないと、その後の教訓として伝えられないし、きっと起こりうる南海トラフの巨大地震に活かせるはず。
とにかく今日は、被災地を思いながら過ごしそうです。
今日、僕の受ける高校の入学試験全ての日程が終了しました。
愛知県は他の都道府県より入試の仕組みがややこしいらしく、公立高校も2校受けれるんです。あと、問題もトップクラスの難易度らしく、僕も今年に入ってから勉強漬けでした。
なので今週は一週間ずっとテストと面接続きで、一週間ずっと緊張してないといけなかったので、精神的に全然だいじょばなかったです(笑)
原発は危険だからと今も反対のデモを行っている人がいる。原発は地域の活性化には重要なのだと原発のある県の人は話す。これまで私は活性化に必要なことはわかっているけど、危険なことに変わりはないから停止するべきという意見を持っていた。しかし先日読んだ新聞に原発のある地域の人は地域の活性化という理由だけでなく原発を否定されると原発を容認した私たちそのものも否定されることになるという意見もあるという記事を読んで驚いた。そこまで考えが及んでいなかったから今は自分の意見として確固たるものがない状態だ。最近は再生可能エネルギーが出てきている。しかしじゃあこれを原発のあった地域に設置すれば地域の活性化に繋がるのか。この原発の問題は意見の主張だけでなく相手の意見をしっかり理解してわかりあってから一つの決断にもっていくことが大事なのだと思う。
今日でちゃんと退部しました。
気分は複雑ですが、一番はスッキリしました。
放課後になにもないことに慣れていなく戸惑う部分もありますが、頭を切り替えて勉強に励みたいです。
思い返すと色々あった二年間だったなぁ…
ある意味自分らしい終わり方かもしれません。
あの日から5年。小学6年生で卒業式の練習に勤しんでたあの日。今でもあの日見たテレビの映像は忘れられません。私は1年に一度、この時期だけ震災のことを思い出して忘れてはいけないと思っている自分に時々疑問を感じます。最近では津波の映像がテレビで流れる時に視聴するか説明がされるようになりました。それほど、人々の心に大きな傷を残した震災に自分はどこか他人事のように感じている自分がいます。そんな自分が嫌なのも今の私です。
私は今看護学生をしています。看護師を志した理由は岡山県ではたくさん病院がありますが、東北には病院がとても少ないと聞いたことがきっかけです。また、あの日けが人に対して医療従事者の数が全く足りなかったことを聞いたからです。自分が看護師になることでなにかが変わるとは思えません。でも、今自分のできることを全力でやっていきたいと思います。
最後にこの震災で被害にあったすべての人々にご冥福をお祈りします。
初めまして!麻呂ノールです!
4,5年前から聴いていたのですが、やっとパソコンを手に入れ、
書き込むことができました!!
よろしくお願いします!
今日で東日本大震災から5年目を迎えました。被災者達はあの深く痛ましい傷を癒す事が出来たのでしょうか。被災地の復興を叫んでいるけど、課題はまだ山積みです。津波によって失われた場所がどのようになるかは楽しみであります。しかし、かつての光景が失われてしまうのが寂しい事であり怖い事でもあります。俺たちは前へと進みます。前へ進む事は怖い事ではありません。
明日からオーストラリアに短期研修に行ってきます。何ヶ月も前から勉強してきましたが、外国は初めてなので不安でたまりません。応援や海外での生活のアドバイスなどしてくださるととても嬉しいです。
黙祷するだけで偽善者扱いされるとは正直思ってなかった。偽善と騒ぎ立てる輩は何がしたいのだろうか?大勢の人たちが亡くなったこの時間に逆に何をしていたのか。Twitterのトレンドに偽善者と出ていた事に心を痛めています。
5年前の今日、私は小学5年生でした。ちょうど音楽のリコーダーのテストをしていたところでした。急に揺れ始め、変な揺れかたで少し気分が悪くなりました。でも東北の方々はこんなものでは無かったのだと思います。友達に仙台の人がいますが、その人も時計が落ちてきたり、とても怖かったと振り返っていました。また、北海道にはとまり原発がありますが、福島第1原発のように半径50㎞が立ち入り禁止区域になったら自分の家も含まれてしまうと気づき、正直、初めて原発の怖さや身近さがわかりました。復興には時間がかかると思いますが、これからも同じ日本人として共に頑張っていこうと思います。1日でも早く復興が出来ることを心から祈っています。
黙祷なうって言う人もそんなこというなと言う人もこんな日に○○しては不謹慎だとか‥。もっとそういうことを言う前に自分ができることあるだろ。私は今日という日を今からもさりに勉強とかテレビみるとかして楽しみ考え有意義に過ごすよ。
震災から今日で5年。自分の住んでいた地元の秋田でも停電し電気のない生活を経験しました。電気が戻ってテレビに映された映像は今まで見たことのないものでした。BUMPLOCKSで藤原先生がガラスのブルースを歌ってく、チャボべLOCKSであっこ先生が泣いていたのも覚えています。きっとまだ復興は進んでいないのが現状なんじゃないかと思います。今年こそは自分でボランティアなどよ行動に起こせたらと思っています。
来週の月曜日中学校を卒業します。
今日学校祭と三学期の終わりに書いている黒板に絵を書く文化?をやってきました。
いつもの黒板には卒業おめでとうの文字。
バカやってる時間も今日食べた給食も今日で終わり。3年間は速すぎたな。
来週、笑って(無理かな、号泣だ。)卒業してきます。
あの日、俺を支えてくれたのは、ラジオ。まだ携帯も持っていなかったからradikoなんてないけど、入りの悪いラジオを聴きながら被害の状況を知ったっけなー。
テレビよりもあの日は、ラジオが心を落ち着かせてくれた( ´,_ゝ`)
春灯 今年もこの季節なんだなって思いました。
何気なくとなりにいる友達。
喧嘩したりすることもあるけど、改めて大切だと思いました。
当たり前のように一緒にいる家族。
強くいってしまったり、ぶつかったりしてしまうこともあるけど、
ただ一緒にいることのありがたさがわかりました。
震災から5年。
毎日「普通」の生活が送れるわけじゃない。
あの日も、街はジオラマのように一瞬で壊れてしまった。
私が住んでいるこの街も、いつどうなるかわからない。
いつも支えてくれるあの人が、いついなくなってしまうかわからない。
テレビは震災のことばっかりで、つまらないって思う人はいると思う。
でも他人事だと思わないで。
今なら言える。野田先生の声聞こえました。
いつも一緒にいてくれる、
友達・家族・先生・生徒のみなさん・校長教頭・職員のみなさん
いつもありがとうございます。大好きです。
家族・友達にも伝えよう。
少し恥ずかしいけど、「いつもありがとう」って。
ありがとう野田先生。
ありがとうRADWIMPS。
だいすきです。
高校受験を終えて家に帰りテレビをつけるとものすごい津波の映像だった。ただただその映像に驚いて地震の怖さを知った。知り合いがいるわけではないけど、同じsol の生徒である東北の人たちのことを考えた。
毎日なにごともなく生活できることが、自分がとてもありがたい環境にいることを実感させられる。
東日本大震災から5年
長いと感じるか短いと感じるかそれは人それぞれだと思う。
ただ起こったことを忘れてはいけない。
今も避難している人がいる、昔のように生活できていない人がいる、先が見えていない人がいることを。
今私がこうやって毎日学校に行き授業を受け、自分の好きな部活をとことん出来ていることに感謝をしないといけない。
私が出来ることはちっぽけだけれど出来ることは何でもやっていきたい。
そして、同じことを繰り返さない様にしないといけない。
南海トラフの大地震、1人でも多くの人が生き残るために、1人も被害が出ないようにするにはみんなで真剣になって考えていかないといけない。
東日本大震災から5年。震災は多くの人々の命を奪いました。また、今もなお原発事故の影響で故郷に帰ることができない方々がたくさんいます。私の住む地域では、幸い被害は大きくなりませんでした。ですが、あの長い長い大きな揺れは今でもよみがえります。本当に怖かった。水が止まってしまったことは辛かった。寒いなか5時間並んだ。早く早くと怒りながら割り込んで来る人もいた。お風呂だって入れない。トイレも流れない。出てくるのは泥水。本当に悲しかった。忘れてはいけない。絶対に。被害にあわれたすべての皆様にご冥福をお祈り申し上げます。
今日の14時46分は、7限の授業でした。SGHのプログラムで、学年全員が揃っていたので、黙祷を捧げさせてもらいました。今まで、学校で全員で黙祷を捧げるなんてなかったので、5年という節目にできたことが私にとって、とても有意義なものでした。
また、今日は日番でした。それは同時に、日誌を書く、ということです。日誌には、昨日の生放送授業のことを書きました。3.11を忘れないために、私の思いの丈を書きました。昨日の掲示板にも投稿したように今まであの日から逃げていた私が、少しではありますが、向き合っていくことができています。これも昨日の授業や、「未来新聞」、掲示板に投稿してくれたみなさんのおかげです。ありがとう。
これから、秦基博先生のライブに行ってきます。今日という日に、楽しみがあることに感謝です。2016年3月11日は、私にとって特別な1日です。
生きているって、本当に奇跡!
震災で亡くなった人の分まで 毎日を大切に生きていきます!
あっという間に卒業した!泣かないようにと思ったけど今までの事を思い出したら泣いちゃった(照)
明日は入試!今度は嬉し涙を出せるように頑張るぞ!!!
今日は東日本大震災から5年。
今日は偶然、家に携帯を忘れて学校に登校してしまいました。
でも、いざ震災が起こったら電話も使えないし、メールも電波が悪くて使えないから、今の状況がわからない恐怖が身に染みてわかりました。
今日コンビニでお菓子買ったとき、募金しました。
私に出来ること。
限られています。でも、それでも東北の人たちの支え、為になるなら、いくらでもやりたいと思います。
昨日のSOLで東北の人たちの声が分かりました。
TVニュースや新聞ではなかなかあのような、生の声は聞けません。
原発の問題もまだまだ改善されてないし、余震も続いていますが、せめてこのSOLにいるみんなは仲間です。
これからも私に出来ること、こつこつやっていきたいと思います。
そして、いつか東北に遊びにいきます!
あの日は友達と遊びに行く為に自転車に乗ってた。埼玉の南部は震度5弱。起きた時は最初は受け止められなくて、前に停めてあったカブの荷台から(何故積んでたかは知らないけど)水が噴き出してるのを見て初めて現実に起こってると認識できた。
あれから5年。今度は復興と並行して「伝えて」いかなきゃいけない。原発だってそう。第一声は「想定外」。無意識に「私達は知りませんよ」って政府が言ったようなモン。ラジオやテレビ、本やネットとかで知る事、伝える事が必要って感じる。昨日の授業からも、自論からも。
震災から5年目ですね。
地震が怖いのか。津波か?放射線?
復興はまだまだ時間がかかる。
被災者に大変でしたね。なんて言葉は言えない。
経験してない、自分が大変だなんてなんでわかるんだ?
放射線で福島産の物が売れないって聞く。
業者がちゃんと測ってるんだ。
そのうえで売られてるんだから大丈夫。
福島の桃は美味しいぞ?
東日本大震災から、5年。
小学校六年生。お世話になった、先生方への謝恩会のリハーサル途中で体育館で揺れを感じたのを覚えています。ざぁっと、木々の揺れるような、何か大きな目に見えない大きなものが近づくような、そんな音が聞こえたかと思うとぐらっと揺れました。
ランドセルを背負って、足早に帰路についたこと、家のテレビを祖父母と弟とみたこと。ニュース速報で、慌ただしい放送フロアからのアナウンサーの焦りの色が見える音声とともに、東北の映像が映されていました。
言葉がでませんでした。
午前0時を過ぎた深夜3時59分。長野でも震度6強の地震が起きました。
私の住んでいるところからは離れた、栄村の地震でした。
その後、2時間後にも震度6弱の地震が同じ栄村で起きました。
あれから5年。
まだまだ復興は進んでいない現状。
毎年のこの日のニュースで、初めて知る現状。
もっと知っていかなければいけない事が、たくさんあると改めて思いました。
忘れてはいけない。
今、私たちが生きていることはなによりも1番大事なものだってことを。
自分の1番の宝物だってことを
どんな運命になろうと一生懸命に生きればそれでいい。
楽天、嶋基宏のあのスピーチ
「見せましょう!東北の底力を!」
まさしく、東北の底力が問われる時、同時に国の力も問われる。
しかし、小規模の集落や小さな市、町はほとんど手付かず。
今、この状況を変えられるのは自分達だけ。
どんなに苦しくたって辛くなったって前を向いていこう。
その先に少しでも希望、光、夢、楽しみが残っているんだから。
長文、失礼しました。
ただ、1人の宮城県民として、これが言いたかったです。
私たちの代で来世に伝えなくてはいけない、そのことを肝に命じてください。
私はまだ小4でした。ちょうど調理実習があって早く帰ることになったあの日。みんなで外で手を振って別れているところでした。地震だ、校庭に集まれ、と叫んでいる友の声も、足が不自由な母が心配だとなく泣き声も、私の耳には入らず、ただただ目の前の恐怖に立ち尽くすことしかできませんでした。
私の住んでいる市にも津波は来ましたが、私の住むあたりまでは来ませんでした。それでも私たちに与えた恐怖は、とても大きいものでした。
あれから5年。被害の跡も薄くなり、人々からあの恐怖が消え去りつつあります。それでも私たちはこの震災を、この恐怖を忘れてはいけないと思います。忘れないことが、いまだに苦しんでいる人への応援に、支えになるのではないかと思います。
あの日から5年。明日、中学校を卒業します。いまここまで成長して中学を卒業できること、今こうして明日に思いをはせることができること、そして今日を、明日を、生きていられることに感謝して、明日の卒業式を迎えます。
私は、あの日のことを、一人の被災者として、絶対に忘れません。
【長文失礼しました。】
昨日のGIRLS LOCKS!で、
応募した「朝写メグランプリ」の、メールが読まれたぁ~!!
初めて~!
こしふう~!
今初めて、未来新聞を読ませて頂きました。
僕は安全な場所にいます。そのため、被害を受けられた方の気持ちを100%理解することはできないのかもしれません。
しかし、それにしてもあまりにも知らなすぎたことに気づきました。
5年が経ち、地域によっては復興したのかもしれない。一方、全く進んでいない地域もたくさんある。知識としては知っていました。でもあくまで他人事でしかなかった。それに気づき、とても悔しくなりました。
絶対に風化させてはならない。僕たちが語り継いでいかなければならない。このことは昨日の授業を聴きながら何度も書き込んでいましたが、今日読んで改めて思いました。
この未来新聞は、SOLの生徒でない人にも読んでほしい。政治家やメディアの方々にも復興地(所謂「被災地」を言い換えています)の方々の本当の気持ちを知ってほしいと思います。
また、職員の皆さん、校長、教頭、未来新聞の発行は来年以降もずっと行っていって頂きたいです。
宜しくお願いします。
長文失礼しました。
被害を受けていないのに、心がはち切れそうなくらい苦しくなる。昨日の放送のあと、ONE OK ROCK先生のBe the lightを聴いて、涙が止まらなくなって今日まぶたが重かったのに、また涙が溢れてしまった。忘れません。この震災から学ぶことはいくつもあるし、それが今の自分を作っているひとつでもあります。簡単に多くの人の命を連れていく自然災害が、憎い。
どうか東北の空には、星が沢山沢山輝きますように。見守ってくれますように。
改めて、震災で亡くなられた方々へご冥福をお祈りするとともに、これからの東北の発展を願います。
明日は我が身と思って、当たり前に思えてしまうかけがえのない命、生活を、自分なりに大切にします。
あの日の事、今でも覚えています。
テレビをつけて流れてくる映像をみて
想像を絶する自然の驚異を実感すると共に、
現実であってほしくないと思うばかり。
いつものようにラジオをつけると、聴こえてくるであろう校長教頭の声は、とても重く力強かった、一方で、目頭が熱くなっていることもすぐにわかった。泣いて哀しんでる二人の姿に、自分も熱いものを抱きました。でも震災から5年が経っても、変わらず生徒に寄り添って、1番に生徒に寄り添い、共に困難を乗り越えようとしている校長教頭の放送を聴くと、震災のあの時この放送を聴けて良かったな、って思います。SCHOOL OF LOCK!!にいる先生が変われど、この5年変わらず熱い思いをもって声を届けてきてくれるかぎり、SCHOOL OF LOCK!!も、あの時繋いでくれた思いも、変わらず私達生徒に残っているんだなと思いました。これからも全国の生徒の声を、そして校長教頭の声を、ずっと伝え続けてください。
5年前の今日、私は小学6年生だった。卒業式の練習を終えた後の休み時間に地震がきた。今まで経験したことのない揺れ、悲鳴、泣き叫ぶ声… 目と耳に伝わる全てのことが全て信じられないことだった。そしてその後のニュースで流れる映像にただただ衝撃を受けた。
あれから5年。高校生になった私。あの日に体験し見たものを一度も忘れたことはない。何年経とうと忘れることはない。今年もまた被災地に祈りを。
あの東日本大震災からもう、5年が経ちます。 私は震災当時、小学四年生でその時は学校にいました。 あの時の恐怖は、ずっと覚えています。 それから、たくさんの方々が復興支援をしてくださり、暗かった気持ちも少しずつ元気になってきました! 本当にありがとうございます‼︎ そして、この震災は忘れない、忘れてはいけない出来事です。
五年前、私は中学2年生でした。電気がつかない暗闇の中で沢山起こる余震に怯え、津波が来るのではないかという不安に襲われていました。そんななか唯一私が持っていた公共の電波であるウォークマンのラジオ。いつもの校長、教頭の声が聞けて涙が出たのが今でも忘れられません。本当に安心しました。感謝しています。
私は今大学生になり、宮城県へ引っ越してきました。私の家の近くには仮設住宅があり、まだまだ復興には時間がかかるのだと感じました。
今日で震災から5年ですね。
あの時の私は中学1年生で京都に住んでました。
あの日の時間は部活を終え帰ってる途中でした。
帰ってくるといつも聴きなれていたラジオから流れたのはこの地震の速報でした京都も少し揺れてたみたいです。
あの後の津波はテレビで見てても恐ろしく、阪神淡路大震災を経験している母は見ることを拒むほどでした。
5年言うと長いようで実は短い。
復興はまだまだです。
この震災を機に私たちも地震のことでいろいろ考えたと思います。
私は春から大学生になります。
これからではありますが被災地のことを知り、自分が今できることをやって行きたいです。
最後になりますが、
この震災で被害にあったすべての皆様にご冥福をお祈りします。
今日という日は、誰かにとって忘れたいほど辛くなる日で、誰かにとっては絶対に忘れられない大切な日で、誰かにとってはなんてことない日々の一部でしかない。
今日を楽しみたい人は目一杯楽しめばいい。今日、泣きたい人は目一杯泣けばいい。
こんな日だから言うことだけど、いつもそう思っています。
あっという間に卒業式が終わってしまいました。 中学校3年間、短かったと改めて感じています。 みんな涙を流して、旅立ちの日にを歌い、最高の卒業式になりました!
明日は僕の通ってる学校の卒業式です!いままで一緒にいた友達とももうお別れ…泣。共に笑いあった仲間、大好きだった先生、そして好きな人ともお別れです。悔いのないように明日を迎えたいと思います。涙でないよーにがんばるぞー!
昨日、第一志望の一般後期試験受けてきました!!!
国語難しかったなww
結果はどうかは半々ってところです。
さて、今まで応援してれた皆さん!本当にありがとうございました。
まだこの先も頑張るよって皆さんはどこかで止まって悩み、くじけてしまうかも知れません。
ですが、後ろを向くことがあっても、悔しくて涙を流すことがあっても。、決してそこから逃げてはいけません。
自分の夢に向かって1日1日を全力で駆け抜けてください!!
心から応援しています!!!!!!!!!!!!!!!
絶対泣くとか言っときながら、ぜんぜん泣かんかった(^_^;)ずっと笑ってたんで、卒業っていう実感があんまない…
最後まで明るくて、楽しくて、騒がしくて、さいこーのクラスでした!!
このクラスで幸せだったなぁ〜…(o^^o)
あの日を思い出しながら、黙祷をしました。黙祷しながら、泣いてしまった。拭いても拭いても、涙が止まらない。被災地の宮城に自分が生まれた意味を考えながら、これから復興のために活躍できるような仕事に就きたいと改めて思った。
あの日から5年。私が小学6年の頃でした。はやく学校から帰ってきたあの日ニュースをみてほんとに日本でおこっていることなのかと衝撃をうけたことを覚えています。5年もたち区切りの年であるかのようなきがしているひともおおいとおもいます。でもぜんぜん区切りなんてついていない。まだ復興できていない現実があるんです。時間がたったように感じるだけで福島や宮城などの東北はあの日から変わったことなんてほんの少しなんです。私は岡山県民です。でも親戚が東北にいます。いま東日本大震災は昔のことのように扱われていますがいま解決しなくてはいけない重要な問題なのです。3.11の今日だけでなくどうか毎日忘れずに生きてほしいです。生きていられることはあたりまえじゃない。奇跡なんだと。生きたくても生きられなかった人もいるのだと。
最後に震災で亡くなった方々のご冥福をお祈りします。
ニュージーランドから黙祷を捧げます。
風化されつつある5年前の出来事、
絶対に忘れちゃいけない。
亡くなった方々に心からご冥福をお祈り申し上げるとともに、
一分一秒でも早い東北の復興を祈っています。
未来新聞を読んで、同じ東北に住んでいるのに起きている現状が全然違う
私たちは停電しただけで済んだけど、被災地は住むところもない、水もこない、電気も通らない、電波も通じない。
震災当時は毎日のように伝えていたのに、最近は月命日付近の時にしか取り上げてくれない
このままだと風化してしまうのではないかと思っている
今日の昼のニュースでこの5年は終わりではない、また新たなスタートだと言っていた
まさにその通りだと思う
また震災前の東北に戻るのは何年も先になるかもしれないけど、一歩一歩進んでいくことを願っています!
応援してます!
頑張りましょう!