あの日から8年経ちました。
8年前は避難生活等でとても苦しい日々を過ごしていましたが、震災直後からやっていたSOLが心の支えとなっていました。現在も時々SOLを聴いて、励まされたり勇気をもらったりしています。本当に感謝です!
今私は地元で教育に関わる仕事をしています。子供たちの心のケアを通して地元が元気になればと思い今日も頑張っています。
福島は自然も食べ物とかも素晴らしくてとても良い所です。ぜひ皆さん遊びにきて下さい!福島は元気です!!
本日、私はまだ中二ですが部活の部員の代表として卒業式に出席してきました。
別れと新しい世界の始まりを実感しました。
残りあと約一年、辛いことも乗り越えて頑張ろうと思えました!
あれから8年
今日学校で黙祷した。でも周りの人は、ふざけてた。自分は、しっかりした。本当にあれから8年経ったは思えない!
自分も東北の生徒!今の1年が震災のことが分からないのが信じられない
3.11から八年という時が過ぎました。私自身あのときは、海岸から100mほどのとこで遠足に行ってました。家に帰り少年団の練習にいくなり教頭先生から家庭科室に行きなさいと言われて、テレビであの映像が…もしあのままふざけてて海にいたら…今思うとすごく怖いです。
今を生きる若者だからこそ、命どぅ宝の言葉の意味がわかります。未来の鍵はこの震災で遠くへと旅立たれた人たちの分まで我々がつかみ取り、この日本、ひいてや世界のためにつなぐバトンのようなものだと認識をした今日この頃です。
【SOL生徒を自分なりに紹介☆】
先週紹介した生徒さんのRNを紹介致します!!!!!
3.4 #106 RN カロリーヌ
3.5 #107 RN 四葉のクローバー畑
3.6 #108 RN ゆりぷう
3.7 #109 RN かんまな
3.8 #110 RN どんぐりのパンケーキ
こんな感じでございました〜◎
いつも楽しみにしてくださっている方、見てくださっている方!!!
ありがとうございます⭐️嬉しい限りです❤️
お陰様で、毎日継続することが出来ています♪
これからもちろん、毎日更新頑張っていきますので是非是非ご覧ください"(ノ*>∀<)ノよろしくです☺︎☺︎♥
次は200回突破を目指します!!(`・ω・´)ノ
そして…!「あの日、見逃しちゃった…」とか「もう一度見たいな〜」っていう生徒さんのために、まとめを作成させていただきました♪いつでも何回でも見られますよ( ¨̮ )︎︎❤︎︎そちらも是非!!!✨
というわけで!この後、21:30過ぎに更新予定です☆
お楽しみに☆
PS.基本は21:30過ぎに更新しますが、忙しい時は放送終了後に更新することもあります!!!!
今年もあの日を忘れないための曲がYouTubeに上がりました。今年の曲は東日本だけでなく、熊本のことについても洋次郎先生は言われてました。
聴いたあとやっぱり記憶が薄れてきていることを実感しました。あんなに衝撃的だったのに,,,なんか悔しい気持ちになりました
土曜の夜一時ぐらいに地震あったけど大丈夫?
自分の地域は震度三でも結構揺れたから、震度四の岐阜の地域とか大丈夫かな?
でもこれよりすごかった東日本大地震は状況が想像できない。震度三でも部屋のドアとか窓がガタガタ揺れていて、でもこれよりすごく、もう起こった事なんて今でも実感がない。
私の父は宮城に住んでいます。父といっても両親は離婚したので父ではないし何年も会ってませんが世界でたった1人の私の父です。
父は震災の後に宮城に引越しました。父の仕事は震災によって出来たガレキの撤去と仮設住宅の建設です。私は父がそんな仕事をしているなんて想像もしませんでしたが高校に入ってふとFacebookで父の名前を検索しました。そしたら被災地の事や父の仕事の事がいろいろ書いてあってびっくりしました。奇跡の一本松の事とか宮城のおいしい物の事とかも書いてありました。
それまでテレビや学校の授業でしか知る事のなかった被災地の事を「父」という存在から教えてもらう事でより深く考え、感じる事が出来ました。私は多くの人のために働いてる父を誇りに思うし、たくさんの事を学ばせてくれて感謝しています。
いつか父に会って感謝の気持ちを伝えたい。
私が好きなドラマのセリフの中に「朝起きて行ってきます。と家を出た人が急に倒れて救命に運ばれてくる。どこの誰だか分からないけれど助けなくちゃという気持ちになる。普段当たり前のように生活しているけれど本当はすごい奇跡のようなことだと思うの。」というセリフがありました。
この言葉を聞いて確かに当たり前のように生活しているけれど本当は毎日当たり前に過ごすってすごい事なんだと感じました。
とうとう明日が第一志望の奈良県の公立一般の入試です。
もうここからできることは、寝て体調を整えるだけだって分かってはいるんですけどね…
他の人たちよりも頑張れていない気がして、不安です。
でもとにかく、明日で終わり。
頑張ってきます。
めちゃ不安やけど楽しみwww
29歳が夢をみたらおかしいかーーーーー!!!!!!!!!!笑
今日から卒業式の練習が本格的に始まりました。
1時間目に東日本大震災10日後に行われた卒業式の映像を見ました。
何故そのような状況でも式を行ったのか考えました。自分たちがもしその状況下に置かれたらと考えると辛すぎました。
私たちの卒業式がより良くなればいいなと思いました。
私の学校は福島ひまわりプロジェクトに加盟してるので、東北の方々のより早い復興を願ってます。
明日友達とディズニーに行くんですよ
でもふと思ったんです。明日楽しみだけど、明日が来る確証なんて残念ながらどこにもなくて。でも明日、あさって、その先のために毎日頑張ってる。
この間の星野源のライブに行って生きててよかったと思った。それは私だけでなく病気で倒れたことのある源さんも
生きる……簡単なことのようで奇跡のようなこと。明日が来るとは限らないけど、明日が来ると信じて生きている。それを何日も繰り返してきた。
3.11はとてもとても辛い日ではあるけど、「生きている」という実感を感じられる日でもあるな…
昨日と一昨日人生初めてのボランティアに行きました。ずっとやってみたかったけど時間がなくてできていなかったのですが、はじめてやってみるボランティアは雨の中のチラシ配り。想像以上につらく、受け取ってもらえないことばかり。でも、昼ごはんを食べにイベント会場に戻った時に自分がチラシを配った人と東北の人が出店している牡蠣屋さんがお話しして楽しそうにしているのをみて、じぶんが少しでも復興や、東北の人の笑顔を作ることができていると感じて、これがボランティアの喜びと復興の喜びと感じました。
そして改めて亡くなられた方のご冥福をお祈りするとともに東北の1日も早い復興を願っています。
という言葉が口だけにならないように今年は東北に兵庫からお邪魔させてもらいたいと思っています!東北のみなさん頑張ってください!
東日本大震災から今日で8年ということですが当時私は4、5才でした。どのチャンネルをつけても津波の映像や避難状況などしか流れてなくて親に[どうして同じのしかしてないの?つまんない]
と言っていたそうです。まだ小さかった私は震災の怖さを知って居ませんでした。面白い番組がしてないからつまらない。どのチャンネル見ても同じ映像しか流れない。小さい私にとって別次元の話でした。でも一回だけ震災状況の番組を親と観たときテレビに[死]という文字があってそこに桁違いの数字が書いてあって何かあったんだなってことはわかりました。
早いものでもう8年です。いや、まだ8年です。
東北のみなさん。震災があったからわかったこと。失ってから気付いたこと。いろいろな思いがあると思います。
今日は震災を振り替える2時間です。
あの日、何があったかよくわからない人がいます。(私とか)
今日2時間よろしくお願いします。
AKさんの曲聴きあさってたら
翔太さんとのコラボ曲あるやないか
ビックリ
DAYS4のインタビューの一部をみてそれから3月14日の放送後記を見ました確かに普通ならば特番をしてニュースをだしてそうゆうのが一番なんだろうと感じました!だけどそれでは子どもたちはさらに傷をつけさらに嫌になるそんな気がしたんだなって私はメディアには忘れられた被災地茨城のものですリクエストが今日できるのであればperfume研究員のワンルームディスコをお願いします!なぜかあの時ずっと聞いていたことが脳みそを駆けめぐっていた曲です
私のクラスには実際に被災した子がいます。
思い出すのも辛いはずなのに、当時の話をしてくれました。
その友達は外で遊んでいたそうです。そして、地震が起きた。
怖くて泣いている子もいたそうです。
園庭の遊具はボロボロに壊れていたそうです。
ちょうど海側に山があり、津波は来なかったらしいですが、隣の町は津波で流されてしまっていたそうです。
理科の授業では、放射線についての勉強をしました。今まで知らなかったことをたくさん知れてよかったです。
津波の怖さ。そんなの、実際に体験していないとわかりません。でも、こういう災害があったことを後世にしっかりと伝えていくのが大切だと思いました。
テーマ性のある書き込み 209
『乃木坂46 7th YEAR BIRTHDAY LIVE DAY4編 ver.9』
体調を崩し気味で、少しあげるペースが遅れてなってます。作成はしてあるので、上げれるときに上げておきたいと思います。
今夜一本目は、アンコールを振り返り。
MC⑥
→なぁちゃんのスピーチがありました。
スピーチの全文は後であげたいと思っています。
EN1 つづく
→なぁちゃんが震えながら歌いきったこの曲。改めて聴くと、感動する曲で、なぁちゃんの声の震えにより、さらに感動が来ました。
EN2 シンクロニシティ
→なぁちゃんの卒業前日に、見事にレコード大賞を受賞したこの楽曲。1人だけ衣装が違うんだけど、それがまたいい感じになっていた。
EN3 ダンケシェーン
→最後の「やっぱ乃木坂だな〜〜だな〜」を言えて喜んでいたなぁちゃん。いくちゃんが歌詞を変えて、「なぁちゃんの温かいその背中が好きだった」もすごくやれました。
EN4 帰り道は遠回りしたくなる
→乃木坂46の西野七瀬がラストだろうと思って見ていました。
いつも以上に可愛くて、すごく最高でした。
その後、ファンにありがとう&メンバーひとりひとりと、ハグや握手!
(メンバーに対しての感謝の言葉も…)
スタンプ全推しで!
したっけね〜(^ω^)
初書き込みです。僕は小学校1年生の時に東日本大震災を体験しました。ちょうど少し前に東京から千葉に引っ越してきて右も左もわからないなか大きな地震を体験しました。急いで机の下に避難しましたが、目の前にお地蔵さんの置物が落ちてきて首が外れた瞬間は今でも覚えていてとても怖かったです。津波の動画がニュースで流れるたび、ここは本当に日本なのかと疑っていました。
そんな僕は明日中学校の卒業式があります。3年間の中でたくさんの思い出ができ、とても充実していました。その裏で熊本や北海道で地震があったり、広島で豪雨災害があったりと自然災害が多くありました。千葉では大きな災害はありませんでしたが、いつ起こるかわからないのが自然災害なので万全の対策をしていきたいと思います。
東北ではやっと町に活気が戻ってきたとニュースでやっていました。僕もいつか東北に行って観光客という立場で町にさらなる活気を取り戻したいと思います。
自分の地元は大きく変化したわけではない。
停電をしただけだった。
情報がないからラジオで情報を仕入れる。
それのみだった。
東北で地震にあって海岸部や、福島では、地震によって、日常のある日が急に変わってしまった。
日常が変わって、それが戻ってくるということはない。
失うものの方が多いし、得ることの方が少ないと震災から数ヶ月後に現地に行って感じた。
まだ幼い自分でもそれを感じた。
もうそれから、8年。
小学生だった自分も今では高校生。
年月の流れは速いって痛感するばかりです。
今日の放送、東北の生徒の声をしっかり聴いていきたいって思ってます。
私の思う平和は
戦争や争いが起こらないこと
貧困や食料不足などで苦しんでいる人を減らすこと
災害や事故などでの死者や被害者を減らすこと
だと思います。
その為には共通して人との繋がりが大切だと思いました。
困っている人を見たらすぐに行動することで多くの命が救われると思います。
1人でも多くの命が救えるよう私ももっと周りをよく見て、何かあると感じたらすぐ行動できるようになりたいです。
質問なんですが、逆電って急にかかってくるものなんでしょうか?どうしても明日、すみかのみんなと話したくて話したくて。でも、家の電話なので、無理かなあと思ったりしています。何かすみかのみんなと話せる方法はないでしょうか?
1年生の時同じクラスの人からグループLINEの招待が来た。その子たちから1年生の時グループに招待されたからよろしくってスタンプを送ったらフル無視、修学旅行の時は誰が私となるかで空気悪くなるし、もう関わりたくないと思っていたのに・・・
また何か言われたらどうしよう・・・
怖くて仕方ない。「明日学校で参加しないの?」とかいろいろ言われたらと
考えたら学校に行きたくないです。
こういう時グループには参加した方がいいんですか?誰がレスで意見とか送って欲しいです。
一瞬にして、世界が変わったと思った。ラジオもテレビも、日常見ていたもの全てが。震災後してから、向かえた生放送教室からの放送。最後にやしろ教頭が言った、「思い浮かべて」の言葉が、今でも残っています。
◎3/12(火) sumika先生
◎3/13(水) 小林由依ちゃん(欅坂46)
◎3/14(木) 秦基博先生
3日連続のゲスト講師来校は最高過ぎますなぁ(≧∀≦)
今週も豪華ですねー!!!❤️
特に水曜日は…欅ヲタが大集合して掲示板もすごい盛り上がりを見せそうな予感…!!w
とーやま校長のテンションもおかしくなりそう…w
桜嵐的には、sumika先生が特に楽しみですねー!( ¨̮ )︎︎❤︎︎久々なので嬉しいです(*´∀`*)♥
今週も楽しみにしてまーす(*´艸`)
今日で8年。今、君は何を思うか。
まず、今日という1日を振り返ってみてほしい。この日は、特に今生きている日本人にとって、頑張って生きなきゃいけない日だった。そして、今日感じたことを、考えたことを心に刻み前に進んでいかなければならない、今日からまた1年後に向けたスタートの日だった。さぁ、どうだっただろうか。
僕は高台に住んでいたからこうして生きる使命を得ることができているが、この日のことは今でも忘れられない、忘れられるはずがない。この日の、薄赤くいっそう陰惨な雲の下、真夜中に光続ける気仙沼の石油コンビナートの火。気仙沼から100キロを超える場所からも見えた。その時、僕は小学3年生で感受性もまだ豊かとはいえない年齢ではあったが衝撃的で、今までの光とは何か違う、黒ずんだ赤い炎に見えて仕方がなかった。そして、ラジオ、電気が復活してからはテレビで震災の情報を得て、映像で見たときには悲惨過ぎた。ごめんなさい、小学3年生の僕はとても呑気に生きていた。場所も場所で、両親や自衛隊の方の食料や水の配布など苦しい生活を強いられてはいなかった。だから、正直、上辺だけだった。
そのような薄い日々を過ごしていた僕も中学生になると、恩師に出会った。野球部の監督だ。監督は日々、信念を持ち、物事の本質を追求していた。そして、毎年、3月10日になると生徒を集めてある話をしてくれた。「明日は、今生きている人にとって、一番頑張って生きなければならない日なんだ。俺だって、できるなら、実際に現地に行って復旧そして、復興の手伝いをしたい。だけど、それは俺にはできない。君たちだってそうだ。だから、どうするのか。頑張るんだ。一年に頑張る日はそうそうないけど、明日がその日。思うだけじゃだめだ。君たちが、学生という立場で何ができるのか、考えて行動に移すんだ。そうしないと、生きている価値はない。」と。それから、僕は毎日恩師の言葉を思い出し、度々、今日のように文を綴ったり、その年齢でその日に感じられたことを留めるようにしている。
今日、僕は何ができただろうか。今日という特別な日に何を感じ、何を思い、何をしたかが、これからの未来の豊かさを決めていく。日本の未来を語る前に、今の自分を、想像されうる未来を今日、自分で考えてみてほしい。
停電して、断水して、食べ物がなくて。
ありえないくらい星空が綺麗だった。みんなで協力してバケツリレーをした。炊き出しのひとつひとつがすごく美味しかった。
当たり前って幸せ。
どうも、久しぶりの書き込み、おとまさです。
あの日、僕は幼稚園を卒園したばっかりで、その記念に家族で四国に旅行に行く、その途中でした。突然、車の中のアナログテレビから緊急地震速報が流れ、幼かった僕でも、何かとんでもないことが起きるんじゃないか、と思っていました。しばらくして、津波が到達。思わず「これって、映画……?」と呟くほどにその黒い波が現実味を帯びていなかったことを覚えています。
あの日から8年。僕は九州に住んでいて、あまり地震に対し「この辺は大丈夫だ」と思っていました。しかし熊本地震が起き、その考えは180°変わりました。
もう起きてしまったこと、失ってしまったこと、それは事実であり、変わりません。大事なのはこれから僕たちが、あの日を忘れずに後世に伝え、災害から身を守れることだと思います。
1日でも早い復興を、そしてこれから先、こんな悲しいことが起こらないことを願います。
3/11の時、私はその時は中学生でした。あの時は自分のことで一杯で、何もわかっていませんでした。あの日、お昼すぎにテレビをつけたとき、迫ってくる黒色の津波。それを見て、何が起こっていたのかわからず、ただ呆然とテレビを見ていたのを覚えています。
きっと、テレビ越しであんな何も考える事ができなくなるほどだったのに、実際のその場に居合わせていた人たちは。そのことを思うと今も言葉が出ません。
しかし、日を追うごとにテレビなどの報道も薄れ、私は人が培ってきたそのすべての事が揺らいでしまった、あの出来事をどこか遠くのことと、心の隅では思っていてしまいました。
数年経って、故郷を出て、暮らし始めていた時、自分の生まれ育った熊本でも地震が起き、初めて他人事ではなく、いつ起こるかわからない。そして、絶対起きないなんてない。身近な出来事だったんだと思い知らされました。
実家に一ヶ月後に急いで車で帰ったとき、故郷の変わり果てた姿に、何も言葉はでませんでした。きっと、東日本大震災のとき、被災地の人たちはこれ以上のとてつもない絶望や。苦しみがあったんだ。と。
先日。今住んでいる岐阜でも少し大きな地震があり、どうしたらいいのか冷静になんてなれませんでした。
経験しないとわからないこと。きっと熊本や東日本大震災はこれ以上の揺れだったわけですから、私の想像しているより遥かにその場にいた人たちはパニックになり、どうしたらいいのかわからない状況の中で必死に逃げ、生き延びてくださって今少しずつ復興へと歩んでいるんですね。
本当に自分の意識の低さを痛感しましたし、今でも被災された方にどう言葉をかけたらいいのか、むしろこんな考えていた私に言葉をかける権利があるのかわかりません。実に無力だとおもいます。
本当に被災された皆様。今でも避難の生活を余儀なくされていらっしゃる方もいると思います。。
一日でも少しずつでも、笑顔が戻れることを、お祈りしています。
今日であの日から8年が経ちました。僕は当時小3で、大きい揺れで避難しました。幸い、クラスのみんなが無事で怪我をした人もいませんでした。でも、停電、水が出ない、ライフラインが一気に停まって絶望的でした。海からは遠いですが、僕の住んでいる地域は最上川が流れているので、いつ氾濫するかわからず怖かったです。
辛くて、怖くて、絶望的で、忘れたいと思う人がいると思います。思い出したく無いという人がいると思います。でも、忘れてはいけないし、しっかり覚えておかなければいけないことだと思います。
被災地の復興の為に、僕が身近に出来るのは募金に協力することです。積極的に頑張ります!そして、一日も早い復興を願います。
頑張ろう東北!頑張ろう日本!
8年前、私は小学2年生でした。学校の中を歩いていたのと新しくなったばかりの校舎で耐震化がされていたので揺れを感じませんでした。家に帰ると、お母さんから東北の方で大きな地震があったと聞きました。当時の自分は、東北なんてどこにあるのか、地震でどんなことが起こるのか知りませんでした。正直言って、土日の番組が全て地震情報でつまらなかいと思ったいたのが当時小学2年生の自分です。でも、今はそんな事は全く思ってないし、むしろそんな風に思った自分がバカだと思っています。
震災から8年経つと、震災を経験していない人や知らない人が増えていると思います。そして、震災があったことも薄れているように感じます。(東北の方では、そんな事はあまりないかもしれませんが、私が住むところではそんな風に感じられます。)震災のことを後世にきちんと伝えて、次起きた時に1人でも多くの人の命が残るようにしていくのが私たちの役目ではないかと思います。
8年前はまだ5歳だったけれど、この日の記憶は鮮明に残ってるし、これがきっかけで夢が出来た。
この夢は8年経っても変わってない。
5歳で人生が少し変わった、絶対に忘れてはならない
初めて書き込みます。今は高校1年生です。
東日本大震災の時自分は小学2年生でした。地震が起こったときは学校にいて、最初は何が起こったのかよく分かりませんでした。でも周りから聞こえる友達の泣き声を聞くと現実味が出てきて急に怖くなりました。親が学校に迎えに来てくれて帰る途中にマンホールが隆起していたり、液状化しているいつもの帰り道を見ていつもの日常は何処へ行ったのだろうと思ったのを覚えています。
震災は一瞬にして日常とを非日常に変えるとても恐ろしいものです。今も仮設住宅に住んでる人もいます。その現実は変わりません。だからこそそういった人たちにも前の生活に戻れるような手助けをする人たちがもっと増えて欲しいと思います。
はじめて書きます。
あれから8年、何気ない日常が壊された日…
日本で本当にこんなことが起きているのかと自分を何度も疑った。しかしそれは現実だった…
あの日、多くの人の日常が壊れた。
助けてあげたい、何度も思った。しかしまだ小さかった私は助けることができなかった。でも、多くの人が被災地に行きボランティアをしている姿を見て感動した。今、15歳となっても私はまだ助けたい。という気持ちがある。
言葉だけでは申し訳ないと思うが言いたい。
[頑張れ!頑張れば必ず報われるから!]
ありがとうございました。
あの時は自分が保育園に通ってた最後の年だった。迎えに来た母は、何故か分からないがずっと先生と話をしていた。思い出せば、そのときに「地震」と「津波」というフレーズが行き交っていたのは覚えてる。
家に帰り、毎日のようにNHKのEテレをつけたらなんだか見慣れない日本地図に、赤と白の線が入った小さい図が出ていた。その頃は、津波が日本に来ているともわからずテレビを観ていた。
ふとした瞬間母は、テレビを1チャンネルに変えNHKニュースにした。
妹が「何でチャンネル変えるの?」と言っていた。
母は、「お願い今日だけ観させて。あなた達にも知ってほしいから。」って言っていた。
なぜ変えられたのかはまだ分からなくでも、母にチャンネルを変えてと言えるような雰囲気ではなかった。
それから、母がいろんなチャンネルを忙しく行き来しているとNHKニュースから津波の予想到達時刻と、津波の大きさが出ていた。
母は、「こんな時にもテレQ(7チャンネル)はこんな番組流して」と言っていた記憶がある。
そんなことを言っていると、いつの間にかヘリコプターのうるさい音と、アナウンサーの少し落ち着きの無い声と、とある県の上空の映像に変わっていた。
それから数分すると、海というところから海水が道路に入って行く様子が映っていた。
自分の知ってる海は、有明海ぐらいしか知らなく、海にも連れて行ってもらったことが、まだなかったので、干潟ではない普通の海水がある海がとても珍しく、黙って映像を観ていた。
そんなことを思っている間、母と娘は、津波のことについて話をしていたが自分には理解が難しかった。いつの間にかテレビは津波が押し寄せる映像に変わっていて、主に木が沢山流されていてこんなにゴミが流されている風景に唖然としていた。
それから、夜ご飯を食べ終えまだニュースが流れてる中僕は眠くなり眠りに着きました。
そんなことを覚えています。
「LIVE!LOVE!SING! 生きて愛して歌うこと」
このドラマ知ってる人いますかね??
地震に関するドラマだった。。これは、私が凄い心の奥で残ってるドラマです
3月11日が誕生日や何かいいこと記念日の人たちの声を聞いて思った。
僕らが語り継ぐべきは「2011年」の3月11日に起きた「東日本大震災」という名前の、歴史上最大規模の地震災害であって、「3.11」という日付の名前そのものじゃないから。歴史に残る事件、事故、災害があれば人はみな○.○○って略すけど、大事なのは日付じゃなくて、そこで起きた出来事、被害、強いて言うなら、それが起きた年。そしてそれを語り継ぐことだから。省略しないでちゃんと、その出来事の名称を使うべきだと思うな。
だからあえて言います。
「2011年の」3月11日に発生した「東日本大震災」にて亡くなられたすべての方々に、追悼の意を表します。
そして、「3月11日」が誕生日、何かいいこと記念日のみんな、おめでとう!
今絶賛お店います!
前のは時間なくて来れなくてめっちゃ後悔してたんで嬉しいです!!
壁一面(2面だけど笑)絵!!!
すごすぎる、ファイルもパンパンに絵入ってて
カフェオレのフテネコも可愛いし美味しい!!
また来ます!!!!
近くないけど何度もきたい!!
あとでガチャガチャして帰ります〜
(グッズはお金ないから今度で笑)
東日本大震災から今日で8年。
私は当時も関西圏に住んでいましたが、揺れました。小学1年でした。幼かったこともあり揺れて怖かったという漠然とした記憶だけ残っています。
神戸であった阪神・淡路大震災が身近なので神戸と東北陸前高田が交流会をしていることもあり、この日は忘れません。
地震はいつ起こるかわからない、災害で、大切な命を失わないように、災害対策防災グッズの再確認が必要だと思いました。
↑タイトルは私が聞いた言葉です。
3.11を元にした舞台を一緒に観に行った人が、被災者の方から言われたそうです。
『3.11が近くなると特番が増える、取材が増える、けれど3月以外もずっと私たちは懸命に進んでいる、進もうとしている。それを3.11にだけ急に「可哀想」と言うのはやめてほしい。3.11にだけ慰めて数日経つと忘れられてしまうのが一番悲しい』
そういった内容だったと思います。
それが自分の態度を改めようと思ったきっかけになったので投稿しようと思いました。
結局、私も3.11に投稿してしまっているあたり、自分でも出来てはいないのですが、この言葉が届くことを願います。