陸前高田市の追悼式に参加した帰りに祖母の家があったであろう場所に行ったのですが、家の面影もなく、野球場となっていました。
…なんとも複雑な心境です
当時、私は5歳であんま覚えてないのですが幼稚園のバスで家に送ってもらった直後だったらしいです。また、次の日に行われる予定だった人生初のピアノの発表会も中止になってしまいました。秋田なので津波とかはなかったんですけど、すごく揺れて停電になりました。ほんとに怖くて辛くて、そして寒くて…。いま、15歳になって、今週の土曜日には中学校の卒業式があり、この春から高校生になります。これからも、震災のことは忘れてはならないし、思いとかそういうものも受け継ぐべきだと思います。いっぱい考えて、いろんな人に感謝を伝えたりして、笑って、大切に生きたいです
その時私は幼稚園の年長組にいたけど、地震のこと全く知らなかった。
小学3年生くらいになって、昔この様な地震があったことを知り怖くなった。
そして今、日本は地震だらけ。
地震を止められる訳ないけど、今になって東日本大震災から学ぶことは多い。
自分の身を守ることと、いつも誰かを大切にすることを。
私はあさっての卒業式で、東日本大震災をきっかけに作られた卒業ソング
「群青」を歌う。
この曲を精一杯心を込めて歌いたい。
"この10年で出会った東北の生徒の「今」"
今日で震災から10年。
今夜は、この10年でSCHOOL OF LOCK!が出会ってきた東北の生徒が、
今、どこで、何をしているのか。
今、どんなことを考えているのか。
時間の限り、聞かせてもらいます。
生徒のみんなは今夜の授業を聴いて思ったこと、感じたことを学校掲示板に書き込んでほしい!
とのことです!
(お知らせです。明日の授業テーマの投稿は私の都合でありません。出来たらですが朝投稿しておく可能性があります。)
私は当時保育園児だったので、細かい部分の記憶があまりありません。
ただ覚えているのは、急にストーブが消えて部屋が真っ暗になったこと、なんだか怖い警報の音がテレビから聞こえてきたこと、先生が真面目な顔で何かを喋っていたこと、いつもの保育園からの帰り道がやけに混雑していたこと、お父さんがロウソクに火をつけて、その周りで夕飯を食べたこと、、
本当に状況が混乱していて訳が分からなかったです。
私の住んでいる秋田県は被害の少ない県なのですが、同じ東北の太平洋側では何千人もの人が津波に飲まれたり、命を落としたりしているなんて想像も出来なかったです。
運良く生き残った私たちだからこそ、後世にもこの体験を伝えて、今こうして生きていることに感謝したいです。
正直、ここに書き込むか悩んだ。
私は当時2歳で全く記憶が無い。
だから「大変だったね」とか「頑張れ」とか、言う資格がない気がする。
言ったら口先だけになっしまう気がする。
ネット記事や新聞に載っている内容はできるだけ読んでいるけど。
学校で黙祷してその後もぼーっと考えてた。
辛かっただろうな。私には想像できないくらいやばかっだろうな。
絶対風化だけはさせない。
今回みたいな授業テーマにすることで後世にも伝えられるんじゃないかな。
震災当時6歳。自分の住んでるところは原発事故による避難はありませんでしたが、祖父母が住んでる所は避難指示が出ました。今はもう解除され、元の場所に戻れましたが、今もまだ帰れない人が大勢います。震災前、原発の近くのスーパーなどに買い物に行ったことがありました。そこは今も避難指示が出たままです。また、風評被害も無くなったわけではありません。でももっと福島にいる私たちの声を聞いて欲しいです。
まだ昨日の事のように鮮明に覚えてる。
本当に10年もたったのだろうかと疑ってしまうほど。。。
私は当時5歳。内陸部に住んでいたのが私達家族にとっては最もさいわいなことでした。でも、おじいちゃんおばあちゃんの家は、沿岸部で電話をかけても全く繋がらず、しまいには津波の情報を先に知ってしまい不安しかありませんでした。地元発信のラジオに問い合わせしても安否確認出来ずさらに不安がまして、1週間よく寝れてなかったこと覚えてます。
今日で10年。
今でもしっかり覚えてるし、今日学校で追悼した。
10年前の今日はピアノのレッスンに行く予定で、最寄り駅まで着いたところで地震が起きて、周りのお店屋さんの人達が出てきて口々に『揺れてる!』と、行ってた。結局ピアノのレッスンには行かずに家に帰って待機。それでも、怖くて仕方がなくて、周りでブロック塀にヒビ入ったり、うちのお風呂場のタイルにヒビ入ったりして、怖かった。夜になってもニュースからは悲惨なことがいっぱい起きていることだけ聞き取れた。怖かった。
東北の皆さんはきっと私なんかよりも100倍以上怖くて、悲しくて、辛い思いをされてた思います。
ご冥福をお祈りします。
そして、この先もこの震災の事を忘れないように生きていきます。
念送って良かったー!!
校長、教頭、優しい♡
るるるのる→ありませんでした(´・ω・`)
家族がみんなで違う部屋で聴いててびっくりした!
素敵な夜を本当にありがとうございました!
今日は友達としりとりをしながら帰宅しました!
10年前、私は3歳。だから、ほとんど記憶がありません。でも、未来新聞を読んでその辛さが分かりました。
私が生きている中でそれほど大きな地震はなく、体験したことがありません。
だから本当の怖さとか苦しさは分からないけど、今日の放送を聞いて改めて学ぼうと思いました。
校長の家の前でめちゃくちゃ拝んできました笑笑
校長フルパワー携えて、これで受験頑張れそうです!!!
ありがとうございます!!
自分は震災当日都内の祖父の家にいた
そして14時46分揺れがきた、自分と弟はテーブルの中に入り、てーぶるをおさえる母、食器棚をおさえる祖母、その後揺れがおさまった時、当時警察官だった祖父から電話がきた、上司から帰宅許可をもらったらしい。
テレビを見ると津波の映像が流れ泣きそうになった。
そんな中で母が貧血になり救急病院に向かった。
そんな夜安全を考慮しテレビをつけながら寝ていると家に響き渡る緊急地震速報、もう訳が分からなかった。
東京でこんなに大変だったなら、きっと揺れが大きかったり、津波や原発事故があった東北は言葉では表わせないものだったんだなとこの年になって実感した。
昨日は逆逆電ありがとうございました!
実は今日、校長のお言葉に甘えて、校長の家を訪問させていただきました!
ご両親がめちゃくちゃ面白くて、温かくて、ホントに楽しかったです!!
セロリいただいたので、漬け物とか炒め物とかにして美味しくいただきます!!ありがとうございます!
10年前のこの日私は2歳でした。
記憶はあまりありません。
母から聞いた話だと、地震が起きたのは母と私が買い物に行って帰ってきたあとでした。
その後、母は弟がお腹にいたので家族で祖父母の家に避難しました。
*
黙祷。被害にあった方々へ。
このことは忘れてはいけない。
そう思いました。
私の住む地域は何事もなかったけど、あの時はテレビをつけるごとに悲惨な現状を目の当たりにしていたのは覚えている。本当に忘れられない日でした。
今だから思えるのはなぜあの時は何も力になれなかったのか。他人事ではない、大変な出来事だったのに。
あれから10年、自分も周りも色々変わってしまって、この10年の中で忘れてしまったものは多くあっても、あの日だけは今も忘れていません。
あれからもう10年が経ちましたね。
東日本大震災と福島第一原子力発電所事故
今思えば恐ろしいなと、思います。
10年前みたいな被害がまた起こらなければいいのですが、、でも今は10年前の災害をもとに、その災害が起こったとしても、対処ができ、被害を減らしていくために自分自身考えていきたい。
怖いけど。 誰だって、だけど前を向いていかなければならないよね。
東日本大震災から10年ですね。
あの時のことは今でも鮮明に覚えています。
私のおばあちゃんが岩手県の野田村出身でその年のゴールデンウィークを利用して現地の様子を見に行きました。
その時はまだ瓦礫が撤去されていませんでした。
その後2015年に修学旅行で再び野田村を訪れる機会があり、地元の方の案内で街の様子をじっくりみることができました。
海岸の水門は捲れ上がったままだったし,商店街が仮設のままだったりしていましたが,瓦礫は綺麗に撤去されていました。
最後に訪れてからまた時間が立っているので村の様子がどうなっているのかいつか見に行きたいと思っています。
野田村は塩とホタテの名産地です。
もし岩手の沿岸地域に行く機会があれば言って見てください。
とーやま校長の南三陸の漁港の写真の笑顔が素敵。ただ素敵って言うより心から明るい気持ちって感じで素敵。ご飯もおいしそう。番組の中継多くしてほしい。笑
小学一年生だった。
山形に住んでいた。
帰りの会をするのに
みんながワチャワチャしていた。
担任が15:00までには教室から出るように
って言っていた。
そんな時だった。
今まで感じたことないくらい揺れた。
「机の下入ってー」
って言われて、机の下に隠れた。
私は一人大泣きした。
雪が降ってて寒い中、
窓を開け、廊下に繋がるドアを開け、
防寒着を持ってすぐに逃げた。
外に出た時、雪で滑って転んだ。
その日は、そのまま帰ることになった。
家に帰ってからも余震が続いて
机の下にずっと潜っていた。
3月9日に地震があったから
お母さんは、ご飯を炊いておいた。
おふろのみずをためておいた。
これは正解だったらしい。
水、ガス、電気がとまり、
食料は、炊いておいたご飯。だけ。
食べるものがあって
良かった。
宮城に住んでいる友達からの手紙が届いた。
その時、すごく嬉しかった。
友達は、私のところよりも2倍の揺れを
受けたはずなのに
手紙を読んで、私が元気づけられた。
ありがとう。手紙くれて嬉しかったよ。
私は10年前は5歳でした。
三重県もあの日地震がありました。
正直怖かったです。
今15歳になり思うことはこの事を忘れてはいけないってことです。
3.11から10年の今日だからこそ花は咲くかけて欲しいなぁ…
あと多分音源がないと思うけど、もしあったら「希望の道」か「仲間とともに」かけてほしいです。
前の2つの書き込みですが、本当は14:46に書き込みたかったんですけど、陸前高田での追悼式に参加するのでフライング失礼しました。
前の書き込みの続きです
10年でダメなら20年、30年…と どれだけ時間がかかっても、毎日毎日ほんの少しずつ前を向いていければ。
なんか長々書きすぎて、自分自身何が言いたいのかわからなくなってきましたが、震災を「恐ろしいもの」で終わらせて欲しくないです。地震を津波を経験していない人に「経験しろ」って言っても、それは無理があります。そうではなくて、テレビやラジオなどのメディアを通して情報を手に入れ、時間が作れるなら実際に(上記にもある)語り部の方の話を聞き、そこから学ぶことが出来れば。
失われた時間を戻すことは出来ない。でも、今後(起きては欲しくないが)大地震が起こって10年前のような状況となった時、3.11の経験を活かすことが出来るはずです。
「震災」から“目を背ける”のではなく“共に生きる”ということをすれば、亡くなった方も報われるのではないかなと、勝手ながら思ってます。
頑張ろう東北!頑張ろう日本!!
長文失礼しました。
長くてひとつに収まらなかったので、ふたつに分けて書き込みさせていただきます。
東日本大震災から10年
10年前の今日 東日本大震災が起こった。1万5900人(12都道県)もの方が亡くなり、今現在も行方不明者が2525人に(6県)上る。(R3 3/1現在)
自分の家では電気が止まっただけで、水道は止まらなかった。もちろん不便な生活ではあったが、宮城県内でも軽度の被害だったと思う。 だが、岩手県陸前高田市に別居していた父方の祖母が… そこ(岩手)で同居していたおじにあたる人は今現在も行方不明となっている。 こういった経験をしているのは自分だけじゃないだろうし、してないからといって同情しろとも言わない。ただ理解はしておいてほしい。
震災から何年かして、その祖母の家があったであろう場所へ行きました。確かに家があった証である基礎(?)の部分がありました。しかし基礎だけでした。道路を挟んだところに公園もあったのですが、遊具なども全部流されていました。家が流されるぐらいだから当然といえば当然なのですが、(公園が)あったであろう場所に何も無く、虚無感のようなものを感じたのを覚えてます。
今年はあの震災から10年という節目の年でもあります。自分に限らず人の記憶というのは薄れていくもの。そして3.11以降に生まれた人は、あったことを知らずに育ちます。それを“仕方ないこと”で終わらせないため“語り部”と呼ばれる方がいるのだと思います。震災が齎した被害や逆に教訓として後世へと語り繋いでいく。そうして実際に経験したことの無い人でも間接的ではあるが“あの日何があったのか、起こったのか”を知ることが出来ると思います。
「10年」という歳月を「『もう』10年」と捉えるか「『たった』10年」と捉えるかは人それぞれだとは思います。震災で失われた生命や震災前の生活は、どう願っても、努力しようとも戻っては来ません。 10年経っても心の傷が癒えていない人もまだまだ大勢いると思います。周りには「まだ引きずってるのか」なんて言う人がいるかもしれない。でも自分はそれでもいいと思う。10年でダメなら20年、30年…と どれだけ時間がかかっても、毎日毎日ほんの少しずつ前を向いていければ。
↓↓↓次の書き込みへ続く↓↓↓