揺れた瞬間だけ鮮明に記憶が残っているあの日からもう10年経ったか。
私は、震災の7か月ほど前の夏休みに、フェリーで北海道に行くために、常磐自動車道を走って宮城県を訪れたことがあります。フェリーには仙台港で乗りました。
宮城県内で海の近くを走って、松島まで行った時の景色を少しだけ覚えています。多分写真も残っているはず。
一度訪れたことのある場所が津波に襲われ、また常磐道は原発事故によって通行止めになったということを考えると、…恐ろしい。とても複雑な気持ちになります。
でも、またいつか訪れてみたいです。
前回の「箕面市」は大阪府で正答率は100%でした!
今回は「上山市」です!
青森県→いいねスタンプ
山形県→キュンキュンスタンプ
神奈川県→ファイトスタンプ
三重県→おつかれスタンプ
高知県→うんうんスタンプ
勘でもいいので是非スタンプを!
10年前の今日、僕は体調不良で寝込んでいました。
その時テレビドラマを見ていたのですが、途中でドラマが中断されて急にニュース画面が映りました。
それは震災の速報でした。
その時、多くの人が逃げ惑っていてとても怖くなりました。
実際、僕の住んでいる所も揺れてより一層怖くなりました。
10年経った今もあの日の事は忘れられません。
かなり久しぶりの書き込み。
当時私は小6。小6やったけど鮮明に覚えてる。
10年前のこの日は講堂で茶話会やった。
6年生皆で講堂に集まりダンスや出し物をした。
たのしかった。でも、クラスメイトがダンスを踊ってる時に突然揺れてビックリした記憶がある。その後の茶話会がどうなったか覚えてないけど教室に戻る時に保健室を覗いてみたらテレビがついてて津波の映像が流れてた。驚いた。
あれから10年。その間にも熊本での地震、大阪北部地震、鳥取地震、西日本豪雨、鬼怒川の決壊、未曾有の大雪。そして、先月の東北の地震。本当に災害が多い10年。
そして、もうすぐやってくる南海トラフ。東日本大震災の教訓を無駄にしないように日々からできる備えをしていかなければならない。
自分も含め若い人たちがきちんと後世に伝えていかなければいけない。
今は携帯やカメラという媒体があるから言葉で伝えるよりは詳細に残せるけど昔にあった戦争や地震と言った災害は紙(新聞など)や語り部たちが主な媒体やったと思う。そう思うと本当に今は語り継ぐのには簡単なのかもしれない。だけど、それを行動に移すのは難しい。でも、こうやってここに書いてるだけでも行動に移せてるのかな。
さかた校長、こもり教頭、職員の先生そして、生徒の皆さんお身体には気をつけて下さい。そして、いつの日か皆が笑える日がくるその日を祈って!
東日本大震災から、10年が経ちました。
東北6県の復興状況はまちまちで、心の傷は未だ癒えていないはずです。
あの時、ああしたら という後悔も多いと思います。
自分は、小学3年の時に被災し、停電が3日間続き、寒い経験をした程度です。
詳しい経験はあとであげます。
家が津波で流されたとか、避難所生活をしたとかはないです。
その点では、自分より大きな被害なことの心中は察することもできないです。
皆さんは、10年が長いと思いますか?
短いと思いますか?
10年という時間は、あなたにとってどう感じますか?
そして、災害対策してますか?
それを聞きたいです。
最後に、亡くなられた方々、
そしてご遺族の皆さんに、謹んでお悔やみ申し上げます。
10年前、私は幼稚園が早帰りで、家で家族と過ごしていたところでした。
揺れたと思ったら、食器棚から食器がたくさん落ちてきて、家具も倒れて。
地震の怖さを知らなかった私は、震えながら家族と外に避難したのを覚えています。
まだ小さかったので、うまく状況を飲み込めず、でも周りの家から避難してきた大人たちの顔を見て、とても恐ろしいことが起きたんだということを知りました。
黙祷の時は、やっぱり涙が出ました。
この日のことを、忘れてはならない。
私も、これから生まれてくるこの災害を知らない人たちに、記憶を受け継いでいきたいと思いました。
どうしても伝えたいなって思ってコメントしました
当時私は小学6年生でした。
3月11日は卒業式練習してました。
卒業式練習の休憩中に隣の友達にスクールオブロックの話をしてました。初めて仲間を見つけたと思いテンション上がってました。
その時スクールオブロックのスペルはって話してました友達と「lock」とはもり、なとよく分からないタイミングで地震が来ました。
それからスクールオブロックを聞くのが怖くなりトラウマになりました。
それからスクールオブロックをずっと聞くのをやめてました!
ですが、去年スマホを壊れたきっかけでラジオ聞くようになりラジオといえばと思い出し何となく聞いてみました。そしたら全然聞けるようになってました。むしろ元気をもらいました。それからずっと今はリスナーとして聞いてます
楽しラジオいつもありがとうございます(o^▽^o)
もう東日本大地震から今日で10年なのか…長いようで早かった10年だったなって思います。私はその時4歳で記憶には無いのですが、年を重ねていくごとに震災について知るようになり、津波で人や家が飲み込まれていくのを見ているとなんとも言えない気持ちになりました。でも、対策はきちんとしたいなと思いました。私は地震が起こった2時46分に学校で黙祷をしました。そして、少しでも何か自分にできる事、例えば募金だったりを積極的にしていきたいと思いました。東日本大地震でお亡くなりになられた方々、ご冥福をお祈りいたします。
私は、黙祷する時のサイレンの音が苦手です。心臓がキュッとなる音が、すごく怖いんです。でも、被災地の方々や復興を祈る気持ちは強くあります。だから今年も、1分間の黙祷と向き合えました。
10年前、テレビの前に映る被災地の光景に、震えたことを覚えています。
私は、強く記憶に残ったこの震災のことはきっと忘れないと思います。
ほんとにこんな日にこんなことを言うのは間違ってると思いますが、13日誕生日なので校長教頭!!
お誕生日おめでとうて言って欲しいです!!!
お願いしますもう明日からめちゃくちゃ頑張るので!!!!
あと教頭ライブお疲れ様でした!!
震災から10年たった。辛いこともたくさんあります。私は、sol、みんな、先生と出会って元気もらったり、励ましてもらったり、支えてもらってます。人は、一人では生きられない。私もたくさん辛いこと、今でも辛いことがたくさんあります。でも、みんな、私にもsolがついてます。私は、sol、先生のおかげでがんばってます。ほぼ 毎週 病院。検査があります。
明日受験です。
落ちないよう頑張ります。
校長、教頭応援よろしくお願いします
あの日あの時私は幼稚園帰りのバスに乗っていました。私の家は幼稚園から他の友達よりも随分遠く、いつも最後の一人でした。今でもよく覚えています。隣に座っていた先生と運転手さんと笑いながら話をしてました。そしてちょうど下り坂の道に差し掛かったとき、車体が前に動いたんです。先生はすぐに私を抱えて守ってくれました。その後も前後に動くバスの中で私たちは震えながら揺れが収まるのを待ちました。運転手さんは早く私を家に帰してあげないとと揺れが収まってすぐに家に向かってくれました。その後、どんな状況だったのか私は覚えていません。地震が起きた瞬間の出来事しか覚えていないということは、それだけ恐怖や不安も含めて印象深いという事だと思います。
まだ家に帰れていない方々、知り合いが行方不明のまま今日を迎えてしまった方々、どうか諦めずに頑張って下さい
{坂田氏(校長)⊿∃小森氏(教頭)}こんばんは。僕の10年前は、保育所で昼寝をしていました。昼寝をしていたら突如大きな地震が襲ってきました。僕は恐怖のあまり布団に潜り込んでしまいました。
その1時間後保育所の周りを見てみると、津波が来ていました。あの日は本当に怖かったです。幸い僕の家のところまで津波は来ていませんでしたが、この日は保育所の生徒全員で死ぬのではないかとずっと怯えていました。
家に帰って詳細を見ると最大震度7,マグニチュードは9.0だということを知りました。
今までにない数字を見たので、もう言葉が出ませんでした。
そして10年後、僕は15歳で中学3年生となりました。10年前のあの日を思い出すと、その日がどれだけ大きな出来事だったのかがすごく伝わってきます。東日本大震災では多くの命が失われました。
この出来事は思い出したくないとしても決して忘れてはいけないと思います。震災の怖さを胸に入れておきましょう。
3.11から未来へ。
10年前、私は幼稚園生でした。震災が起こった時たまたまテレビをつけていて、地震や津波のニュースを見て、すごく大変なことが起こっていて怖いなと感じていました。
あれから10年経って、被災地は段々復興しているけど、未だに行方不明の人もいて、改めてとても忘れることの出来ない災害だなと思いました。やっぱり大地震は他人事のように思ってしまいます。でもいつどこで地震が起こるか分からないので、今日を機にちゃんと他人事だと思わず、防災対策をもう一度しっかりしようと思います。
東日本大震災当時、2歳3歳なんなら生まれてない子もいるのかと思うと急に時の流れを感じました。
そして、忘れてんじゃねぇぞと言わんばかりに起きた、先月の福島県沖地震。
忘れるわけないやろあんな未曾有の大地震。
今日掲示板に書き込まれた書き込みは、
ひとつひとつ全て読みたいと思います。
東日本大震災により亡くなられた方々の
ご冥福をお祈りします。
そして、いままで頑張って生きてきた被災者そして全国みんな、ほんとによく頑張ってるよ。まずはこの10年ちゃんと生きてきた自分を褒めてあげましょ。生きてきたのは誇れることだよ。偉いよ。いろんなことがあったしこれからもいろんなことがあるだろうけど、その都度みんなで考えながらもがきながら一緒に頑張って、生きていけたら嬉しいなと思います。
復興イラストを今年も描いたから、送りたかったんだけどどうやら送れないらしい……。
今年はSOL!バージョンで描いてみたのだが……。
当日、7歳。テレビで流れた映像が、何年も何年も昔の事なんじゃないかなと思ったことを思い出します。
身近にあった災害さえも、信じられないほどだったので、東日本大震災は特に信じられませんでした。
サンド先生のお話をテレビでみたり、特集のニュースを見るたびに、ちゃんと避難の準備をして、実際に危ないと思ったら逃げないといけないなと思いました。
これからも、一歩一歩、みんなが先に進めますように。
SOLの職員名簿みてたらスネオ先生発見したししかも船長になってるし、すっちゃん先生相変わらずだしヘルツ先生とカヲル先生めっちゃ安心感あるしジェーン先生また会いたいしダンガリー先生もまた会いたいしっていうかヘルツ先生とカヲル先生とすっちゃん先生めっちゃ会いたいし
涙出てきちゃったぢゃーん!!!
先生たちの黒板めっちゃめっちゃ変わらないね、あの感じ変わらないね!!!((泣))
いやこんなつもりじゃなかったんだけど、
何年かぶりに書き込み反映気にし始めてる(笑)
もーう!!!
明日は仕事なのでたぶん放送聴かずに寝ると思うけど!!!
今日は東日本大震災があって10年経ちますが、私の住んでいる沖縄では昔、沖縄戦があり6月には必ず平和学習をして風化せず、次の世代に伝わる様にしています。東日本大震災も同じように、多くの方が助かる為にあの日のことをしっかり学ぶことが、私達の使命にも感じます。
凄くひさびさに書き込みます。私は、スクールオブロックがきっかけで震災への考え方が変わりました。
私は、10年前高校生でした。学年末の試験期間中で早く自宅に帰れた私は、テレビを見ていました。
ニュース番組を見ていたのですが「スタジオが揺れています。」と聞こえ「地震か、結構大きいな」と思ったもののあまり気にも止めていませんでした。
しかし、次々とテレビから流れてくる映像を見て、九州に住んでいる私は、「これは本当に日本で起こっている事なのか?」と思い、どこか違う国の出来事のように思っていました。
私の、考え方を変えてくれたのがスクールオブロックの初代教頭のやしろ教頭の言葉がきっかけでした。
震災後、最初のスクールオブロックの放送最後の黒板で、「昔、無意味に悲しいことをしちゃいけないと言われたけどもしかしたら言わないとそのまま一度も思わないかもしれないから言いたいんだけど
、この学校生徒がもし、亡くなってしまって「僕は死んでしまいました。」とその子達は掲示板に書き込めないからみんなずっと覚えてろとは言わないけど、夜が来たら、たまにでもいいから思い浮かべてあげてほしい。」という言葉でした。この言葉を聞いて、この震災の考え方や思いなどが凄く変わりました。やしろ教頭の言葉が無ければきっと考え方も変わらなかったかもしれません。本当にスクールオブロックを聴いていてよかったです。長くなりすみません。
10年前の今日。
私はこの日の記憶がありません。
ですが、多くの人の命が奪われ、何もかもが失われました。
記憶がなかろうと私は絶対に忘れません。
ご冥福をお祈りします。
yahooで3.11と検索するだけで一人10円寄付されるので皆さんもぜひ!!
(スマホ持ってから毎年検索してる
私は当時小1で児童会館にいて地震というものがよく分からずとりあえず体育館に集められて親が迎えに来るまですごい不安だったな、、
今日卒業式がありました。
入場前からムードメーカーの男子が号泣していてもらい泣きしました。
3年ってあっという間ですね。
私は、人見知りで最初は誰とも仲良くできずにいました。
この3年で、クラスで、部活でたくさんの友に出会うことかできました。
そして、今日は東日本大震災があった日。
当時私は年中でした。
記憶はあまりはっきりしていないですが。
周りの大人がたくさん動いてくれていたことは覚えています。
この日のことをしっかりと伝えていこうと毎年思います。
今日、3月11日、あの時小1だった僕は高2となりました。数々の著名人の方々が宮城に足を運んでくんでくださり、東北を盛り上げてくださいました。先代とーやま校長も南三陸、陸前高田にきて宮城の良さをSOLの廊下において発信してくださいました。ここまで自分が生きてこれたのは当たり前でなくありがたいことなんだなぁと痛感しました。生徒のみなさん、黙祷はしましたか?これから私たちはこの地震を後世に語り継ぎ、大人になっても3・11を知らない世代に話して、今後同じような災害にあったらどう対処するのかをみんなで確認しあうことが大切だなと思いました。このようなことを行うのが犠牲になった方々への礼儀というかなんというか、生き延びた人の責任なのかなと思いました。生き延びたからには1日1日を大切にし、勉強部活ができることを大切にしましょう。生き延びたからにはもっと生きたかった人のために強く生きましょう。生き延びたからには‥
僕たちはもうすぐ中学三年生になります。クラス替えがあるので今のクラスを思っきり楽しもうと思います
10年前は4歳の年中で保育園にいました。
鮮明な記憶までは無いのですが、
何があったのかは覚えています。
地震の直前、僕は寝ていました。
地震の直後、友達などと共に公民館に行きました。
すぐにみんなの親が迎えにくることが決まり、
僕は祖父母にと共に家に帰りました。
その瞬間瞬間もずっと地震が続いていました。
テレビもつかず、インスタントの食品を
ずっと食べていた記憶があります。
テレビがついてニュースには、
津波の映像が沢山流れていました。
経験してもないのにとてもトラウマになりました。
経験された方々はもっと怖かったと思われます。
それから海に行くのが少し怖いです。
記憶にある限り最近の地震がとても強かったので
未だに怖いです。
東日本大震災は忘れてはいけないが、我が地元をめちゃくちゃに破壊し、甚大な被害を出した阪神淡路大震災、4年くらい前に起きた熊本地震も決して忘れてはいけない。
「卒業」高橋優
作詞・作曲:高橋優 編曲:浅田信一
高橋優先生が東日本大震災の後、2011年4月にSOLに来校したとき、10代の声を直接聴いたことで制作されたこの楽曲。
「学校からの卒業」ではなく、「悲しみからの卒業」を願いこのタイトルになったそうです。
ちなみにこの曲が収録されたアルバム「この声」には、とーやま校長とやしろ教頭がスペシャルサンクスとしてクレジットされています。
今日、聴きたい。
形はなんであれ、母校っていいよね。
それから。
わたしはこの学校に入学するまで、県外の知り合いっていうのはイトコとか部活の遠征先とかしか関わりがなかったのですが、
一気に全国区になって、
いろんな災害も病気もあるなかで
やっぱり、どんな事柄も日本だけじゃなくて世界共通だなという認識に変わったように思います。
2011年よりも、だいぶ個々のできることの幅が
ひろがってきたんじゃないのかなあ。
とーやま校長が就任してから1年経つ前のできごとでした。
当時必死に、この掲示板教室で、そう、まさにクラスメートの安否を確認していました。
繋がりづらかったけど、職員さんがほんとうに掲示板動かしてくれていて、
いろんな、ほんとうにいろんなおもいで溢れかえっていたこの学校。
忘れもしない。
今も安否のわからないここの生徒も居ます。
でもここに書いたら、何処かで繋がるかも知れません。
そんな気持ちで、此処のOBとして、書き込みにきました。
わたしは今、一旦離れた福祉職の、障害者雇用枠という雇用形態で裏方のお仕事をしています。
しかし現場は福祉施設ではありません。とある種類の病院です。
先日職場では防災訓練が行われました。
わたしは勤務時間の関係で参加できませんでしたが、できれば参加したかったです。
此処のいろんな、郊外授業に、いろんな理由で行けなかったわたしは、2015年の8月にようやく未確認フェスティバルに参加することができました。
職員のみなさんにも、此処の生徒ちゃんたちにも
会うことが叶いました。いつもレスをもらっていたひとたちです。
その時、誰と会えるか。それはもう、その時しか有り得ません。
此処に来たばかりの24歳の頃はものすごく何に対しても怯えていて、臆病で卑屈でした。
わたしは20歳になる前の年に生死を一度彷徨い、20歳になってからしばらくして、中越地震を体験しました。
絶望になった10代最後からしばらく、いろんな葛藤もありましたが、わたしは今を生きることができていて、それはとてもありがたいな、と
思えるようになってきています。
いろんなことがほんとうにほんとうにある中で
じぶんで考え、時にはだれかに聴いてもらい、
そこからどうにかこうにかじぶんの考えが定まっていくことができることを、願ってやみません。
10代のみなさん、10代になる前のみなさん、
10代以降のみなさん。
年を重ねる事は、必ずしも悪いことばかりではない。にんげんは、ひとりのようでひとりじゃないし、ひとりじゃないようで、ひとりだと私は思います。
みなさんのラジオネーム、たいせつにしてみてください。
まだ私は小学校2年生で授業参観の日でした。島根に住んでたから揺れは感じなかったけれど、母親と家に帰ってきてテレビで見た映像が今も頭から離れません。ヘリコプターで上空から大きな声で報道するキャスター、田畑を飲み込んでいく津波。その時はわけも分からず怖さもあまり考えていませんでしたが、成長して地震とはなにか、津波とはなにかが分かるにつれて怖さが増幅し、今思うとあのニュースの映像は現実なのに現実じゃないようで信じられない光景でした。
一時期は"人が亡くなる"ということに敏感になり、怖くて、眠れない日も多くなりました。"人が亡くなる"ということはその人にどう頑張っても会えなくなるということ。いつか私の周りの誰かも死んでしまう、また大きな災害が来るかもしれない。毎日が当たり前じゃないってこういうことなんだと思いました。今年もこの日を迎えることで、今ある全てのことが有難くて奇跡なんだと思う気持ちが強くなりました。
今日、10年がたって自分では全然記憶にないがニュースで津波の映像を見てとても怖かったし人が逃げてるのを見て飲み込まれそうになったりしているのがとても苦しく怖かった、きっとその当時見ていた人はもっと怖かっただろうと思う
今日の授業とは違いますが失礼します。
明日、ついに国立大学後期試験です。
ようやく明日で全てが終わります。
やれることだけをしてきます。
明日終われば、やっとやりたいことが出来る!
SCHOOL OF LOCK!!の卒業式にも参加できる!
溜まってた録画、ライブ映像全部見える!
さあ、あと1日だけ。頑張ってきます。
今日、家に帰ってきてお母さんに「今日黙祷あったね」
といったら、「そんなこともあったね」
恐らくお母さんが不意に言った言葉だろうけど、なんとなく
「何忘れているんだろう。」と思った。
3.11。この出来事は忘れてはいけないのに、何だか風化していると思った。
忘れちゃいけないのに。
私はあの時4歳で正直あまり覚えていません。
おじいちゃんの家に避難して、おじいちゃんは震災関係の番組を一切見せなかったと両親が言っていました。でも、震災を経験したからこそ何か自分にできることはあるのではないかと思っています。
私は6歳で3/12に卒園式の予定でした。預かり保育のときに地震が来ました。友達と一緒に丸くなってそれを先生方が囲って守ってくれました。母に連れられて家に帰る途中、道路が割れているのを何度も見ました。私の家も半分壊れてしまったので1週間は車中泊し、その後祖父母の家に行きました。とても怖かったのを覚えています。大切なものはほとんど壊れてしまいました。スイミング友達の1人は沿岸に泊まりに行っていて、無事ではありましたが、津波を見たと言いました。「怖かった。この世の終わりだと思った」と。
でも、車中泊をしていたとき、父の友人が徳島県から車を走らせて、物資を届けてくれました。嬉しかったです。ガスボンベやお菓子、レトルト食品、友人の奥さんが作ってくれたおにぎり…本当に助かりました。人の暖かさにも触れられた出来事でした。
今日の2時。テレビで当時の映像が流れた。
水。人間にとって一番大切で、一番危険だと思う。
2時46分。黙祷をした。涙が溢れてきた。
今まで、震災のことで泣いたことがなかった。どこかで他人事のようだったのかもしれない。
でも、当時の映像を見て、被害にあわれた方の気持ちを考えたら、何て言葉にしていいか分からない。生きたくても、生きることを奪われた人達がたくさんいる。
10年という時を経て、私は10年前のこの日を、ようやく理解できたのかもしれない。
私は福島が大好き。正直、地元よりずっと好き。人も町も景色も食べ物も、全部が魅力ばかりだ。
これからも、福島を、東北を、応援します。
2011年3月11日、僕は福島県内の保育園にいました。14:46分、カタカタと小さい揺れがきて「地震かな?」と思ったのもつかの間、急にズドーンと大きな揺れを感じました。まだ6歳とはいえ、恐怖を覚えました。揺れた時間が体感では10分くらいに感じました。
祖母が海から50mくらいのところに住んでいたので震災から1週間後に現地に行ったら家の基礎しかなくて震災が奪ったものの憤りの思いを持ちました。
祖母は津波からにげることができたので会えたときは嬉しさで頭と心がいっぱいでした。
今までの9年と364日間、つらい記憶だからといって忘れようとしましたが、10年目の今日、東北で生きている人としてこの体験は伝えなくてはと思いここにつたえました。
今年の2月13日に福島で大きい地震があったときに震災の記憶を思い出しましたが、10年前を乗り越えたのだからどうにかなるという風潮が日本中で起こったときには人と人のつながりの大切さを改めて感じさせられました。
復興にはまだまだ時間がかかりそうですが、さらに10年後の岩手、宮城、福島の3県が2011年3月11日の14時45分の頃のようになることを祈ります。
10年前。私は4歳だったから、とても鮮明に覚えてる訳ではありません。でも、あの瞬間、いろんな物が倒れてガタガタ震えたこと。寒くて、近所の人たちと集まってあったかくし合ったこと、避難所にいる多くの人。真夜中の余震が怖くて泣いたこと、スーパーやガソリンスタンドの長い長い行列。など、今よみがえってきたことが沢山あります。何度思い返しても、怖かったことは事実です。でも、私よりも辛く悲しい思いをされた方が同じ県にいると考えると、心が痛いです。被災した宮城県に住む身として、災害の怖さを伝えていかなければならないと思いました。
震災から10年たった。私の心の中は、ぽっかり穴が空いてる。私は、震災もたくさんの病気も経験してる。回りの景色も変わってしまった。忘れられない。私は、今、病気が悪化してる。
2011.3.11、あれからもう10年経った。
僕は道南(函館)に住んでる。
当時、僕は年少。その日はいつも通り幼稚園に行き、帰るところだった。
家の玄関に入った途端、ドアがカタカタとなり始めその後に大きな揺れが来た。僕はよく分からずにただ立ちすくんでいたが、親は急いでドアを開けてテレビをつけていた。
僕はあまりにも衝撃的な映像に驚いた。その記憶は未だに覚えている。
その後の津波による被害はほとんどなかった。
まさか東北地方であんなに大きな被害が起きていたなんて考えてなかった。
あれから10年経った今、自分たちより前の年齢の人達であの出来事を覚えている人は少ないと思うし、僕と同じ年齢層でもあまりいないと思う。でも決して風化させてはいけない記憶であるのは確かなこと。忘れたくても忘れてはいけない。
このことを教訓に今後も防災に関することを考えていきたい。そしてこの事を未来に繋げていきたい。
今日はお休みします。
楽しい事を楽しく伝えられるそんな日じゃないので。
そして、2日間お休みしたことを謝ります。
寝てたり、色々と用事があって中々来れなくてごめんなさい。
また、明日は、活動します。
今日は、寂しいく、悲しい現実と向き合いたいと思います。
祝!200回!
今回のアンケート内容は「東日本大震災について」です!
実際被災しました→いいねスタンプ
揺れは感じました→キュンキュンスタンプ
被災せず、揺れも感じてなく、当時地震をメディアで知りました→ファイトスタンプ
なにも覚えていません→おつかれスタンプ
生まれてません→うんうんスタンプ
3月11日のこと、覚えてる。忘れられない。津波と震災が怖い。私も震災を経験してる。あの日のことを思い出して泣きそうです。
2011年3月11日。
私は小学校1年生でした。
いつも通り掃除をしていたときのこと。
突然、経験したことのない揺れに襲われました。
電気も消え、最初は何が起こったのかまったく
分かりませんでした。
校庭に避難し、母親に引き取られて下校しました。
家の中は、無惨な姿に変わっていました。
近くの避難所からクラッカーをもらい、私と母は
一夜を過ごしました。
父は、福島で仕事をしていました。
1週間帰ってきませんでした。
ようやく帰ってきたとき、それは今までに見たことない
くらい疲れきった姿でした。
伸びきった髭が、それを物語っていました。
電気が止まっていたこともあり、また、私が住んでいた
のが都市部だったこともあり、津波の映像を見たのは
発生から約1週間後でした。
こんなに黒い海を、私は見たことがありませんでした。
たった数分で、街が1つ2つと消えていく。
当時の私の頭では、まだその事の重大さを理解出来て
いませんでした。
あの日から、今日で10年。
私は今、何不自由なく生活出来ていると思います。
でも、あの日のことを忘れたことは1秒たりとも
ありません。
私たちが1番すべきこと。
それは、東日本大震災を忘れないことだと私は
思います。
みんなの心の中に、花が咲いていますように。