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東日本大震災から15年

私は今学校の研修旅行で海外にいます。岩手の学校では内陸でも毎年3月11日14時46分に黙祷の放送があるのが普通です。研修旅行と被っていることはずっと気になっていましたが特に話が無く、一人で黙祷するわけにもいかないので心の中でだけしようと決めていました。
ですが今日友達と話していて、「今日震災だよね、黙祷できないのかな」という話になり、さらに私とその子だけでなく同じことを気にしている生徒が沢山いることが分かりました。結果、その場の全員で日本時間に合わせて方角へ一分間手を合わせたんです。一緒にいた現地の生徒にも説明すると手を合わせてくれました。
なんか心に残ってます。世代的にも当時は記憶がないし小中の黙祷もやらされではあったので、あの場の何人が本気で祈ってたかもわからないですけど、誰かが残した思いが報われてるのを感じて嬉しくなりました。

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東日本大震災から15年~東北に住んでいる君と家族の話~

私は、東日本大震災の時はまだ1歳くらいだったのでほんとんど覚えていませんが、親から色々と話を聞きました。私は、東日本大震災の日はおばあちゃんの誕生日ということもあって山形にいました。そんな日に地震がおきました。山形も案外被害を受けたらしいです。そして、お父さんは11日も仕事があり、終わってから山形に来る予定だったのでお父さんだけが宮城に残っていました。お父さんはその頃仕事がちょうど終わり山形に向かう途中で地震にあいました。お父さんは職業柄地震があったら被災された地域に行く事になるのでまた仕事場に戻って被災された地域に行きました。そこから、半年くらいずっと家には帰って来ませんでした。そして、私達が宮城に帰った時に家はとてもすごい事になっていました。壁にはヒビが入り、テレビは倒れたり、家が傾いたりしました。そして今日私は、東日本大震災の式典のボランティアに参加しました。そこで震災を知らない子供達に震災の事を説明したりしました。私は、東北に生まれて東北で育ってきたからこそ、震災について勉強をしを経験していない方々にも伝えないと行けないとお父さんから昔から言われています。そのためあの日の事を忘れないようにし、あの日のような日がもう二度と起きない事を願っています。

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生きていることを実感する日。

2011年3月11日、私は大学のキャンパスで迎えました。春休み期間中、大学の売店で、新年度に向けての教科書の品出しバイトをしていました。その日もいつも通り出勤し、バイトメンバーと作業をしていました。作業中に、緊急地震速報とともに揺れ始め、次第に揺れが大きくなり、これはただ事ではないと思った私たちは、本来はやってはいけないのだけれど、凄まじい揺れの中、建物から走って脱出。揺れが収まって作業スペースに戻ると、自分たちのいた場所の天井が落ちていました。初めて「死ぬ」ということを感じた瞬間でした。当時、実家から大学に通っていたのですが、公共交通機関が止まってしまい、大学で一晩過ごすことになりました。避難所になった教室に友達もいて、本当に心強かった。硬い椅子に横になり、緊急地震速報がなるたびに建物の外に飛び出して、一晩を過ごしました。翌朝、大学が朝食として用意してくれたカップ麺の味が忘れられないし、無事に朝が来たことに安心しました。個人的に毎年、3月12日の朝は、特別です。この時期がくると思い出す授業があって、確か山口一郎先生と、とーやま校長・やしろ教頭が、泣きながら『上を向いて歩こう』を歌ってくれたことがありました。あとは逆電をした被災地の生徒さんに、今一番欲しいものを聞いたら「予約をしていた、RADWIMPSの『絶体絶命』」あの生徒さんは元気かな?まとまりのない文章ですが、いつどこで何が起きるかわかりません。今を生きていることを、大切にしてほしいです。

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東日本大震災から15年

私は宮城県の沿岸部に生まれ育ち、被災した当時は6歳でした。卒園式間近のことでした。
3倍以上歳を重ね、年齢的には大人になって
今年も黙祷を捧げました。

発災当時はまだ幼稚園生で、余震が強く夜中におばあちゃんの腕の中で泣いたこと、子どもながらに津波の映像を見てすごく衝撃を受けたこと、すぐに近くの公会堂に避難できるように1階の台所で母と隣り合わせで眠った夜のこと、中学1年生のときに亡くなってしまった祖父が、車に不安がる姉と私を乗せて、「じいちゃんが絶対守るからな」と強い眼差しで励ましてくれたこと。
停電で何も人工の明かりがないなか、星はきらきら輝いていたこと、全部全部覚えています。

人生の半分以上を「復興後」の景色を見て育ったので、震災の前の景色を時々恋しいと思います。
パズルのように散らばった断片的な記憶ですが、絶対に忘れずにこの日のことを伝えていきたいです。

今日も生命が誕生したり、天国へと向かう生命もあります。
震災を経験してからは、いのちのことを沢山考えるようにしています。
私の周りは奇跡的にみんな無事でしたが、
そうではない人ともこれまで沢山接してきました。
友人の中には、震災で身内を亡くした方もいます。

皆さんへ
今ある幸せを、大切にしてください。
今ある普段の日常を、大切にしてください。

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3月11日から15年

 震災が起きたとき、私はまだ生まれていません。だから震災当時の景色はテレビでしか見たことがありません。でも幼稚園の頃から震災の話はずっと聞いてきました。両親は震災のとき親戚で集まって新潟に逃げたそうです。先生は卒業式の準備をしていたという方や下校する生徒を見送ったばかりだったという方もいました。小さい頃はよく理解できていませんでしたが、大きくなるにつれ、震災がどれほど大変で悲しい出来事かわかってきました。
 そして2022年3月に福島県沖地震がありました。緊急地震速報の音で目が覚め、咄嗟の判断で布団に潜りました。今まで経験したことないくらい大きな揺れで、家が壊れるのではないかと錯覚したほどでした。揺れが収まってから家族でリビングに集まりましたが、ずっと怖くて震えていました。でもきっと東日本大震災はもっと大きな揺れでそれに加えて10メートルの津波がきました。その時、震災にあった人たちがどれだけ怖い思いをして震災後を過ごしていたのかを本当に知ったような気がしました。それでもまだ理解しきっていない部分があるかもしれません。
 福島県は原発事故の影響でまだ避難所で生活を送っている人がいます。その人たちに一刻でも早くいつもの日常が戻ってくることを祈っています。

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東日本大震災から15年。

校長、教頭、こんばんは。今日で東日本大震災から15年ですが、私は当時5歳で、保育所にいました。今日は家族から聞いた話と震災でも強かったとあるものの話をしたいと思います。

私は14時46分、地震発生当時は保育所で昼寝中でした。昼寝中の地震であったため、自分だけでなく他の人たちも布団をかぶって怯えていました。
その頃母は、自分を迎えに会社から車で向かっている途中でした。しかし、保育所到着直前にして、津波がすぐそこまで来ていて、車をバックして母は少し高めの小さな階段に避難しました。すると波は時間が経つにつれて徐々に高くなり、最終的に車は窓のあたりまで浸水してしまいました。そして母は近くを歩いていた自分の友達の父と保育所の中まで行き、奇跡的に会えました。

父は新しい家の設計を当時の祖母、そして住宅会社の1人と構想を考えていましたが、その後地震が来て、父は自衛隊であったため、すぐに救助に向かわなければならなかったため、すぐに出動しました。もちろん自分は状況を分かっていないため、母が来る前は、「もう会えないのか…。」という悲しさしかありませんでした。

そして震災を乗り越えたとあるものというのは、自分がいつも乗っていた路線「仙石線」のとある車両です。その車両は、東松島市にある野蒜(のびる)駅を発車後に緊急停止しましたが、なんと奇跡的に津波の被害を一切受けることなく無事でした。仮に、津波の勢いがさらに強かった場合はその車両は飲み込まれて悲惨なことになっていたので、まさに奇跡の電車だなと思いました。

これらの教訓は後世に語り継がれるべきであると思います。もう二度とこのような災害は経験したくないと改めて感じました。そしてこれからも前を向き続けます。

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15年前

東京に住んでいるのですが震災当時
LINEも普及しておらずメールと電話のみだったので
青森にいるおばあちゃんや親戚と何日も連絡が取れず
とても心配で涙が止まりませんでした。
テレビをつけた時の衝撃今でも覚えています。
15年前は中学2年生だった私も今年で30歳になります。
何年経っても忘れてはいけないし
将来子供がうまれたら語り継いでいきたいです。

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「トッキュウジャー」と“3月11日” 後編

「前編」の続き。

例えば、敵は“闇(作中では黒い霧のように表現される)”とともに街に襲来し、あっという間に街を“闇”で飲み込んでしまったりします。
また、“闇”に飲まれた街は外部から認識されなくなり(=地図から跡形もなく消えたようになる)、“闇”に飲まれた街の中や街の住民は文字通り時間が止まったような状態になる描写がされています。
さらに、敵の侵攻によって主役陣営の“レインボーライン”の線路が“寸断”されたり、“烈車”が行方不明になっていたりもします。
他にも主人公たちは“闇”に“故郷”を“奪われて”、“故郷”に帰るために“烈車”に乗って旅をしていたり、主人公たちの故郷の名前が“昴ヶ浜”とどこか“海沿い”を思わせるものになっていたりもしています。
…と、どことなく放送の3年前に起きた出来事を思わせる要素が散りばめられているんです。
あと物語最大のネタバレになるので詳しくは言いませんが、主人公たちに隠された大きな“秘密”も“震災”の“傷跡”を思い起こさせるようなところがあります。
そういうわけで、「トッキュウジャー」もまた、“震災”の影響を受けて作られた作品であると考えることができるんです。
ただ“鉄道”モチーフは「トッキュウジャー」のメイン脚本家が過去に手がけた「仮面ライダー電王」でも使われていて、「トッキュウジャー」自体登場人物の立ち位置が「電王」と重なるところもあるので、全て“震災”の影響でああなったというのは無理があると思います。
まぁ“震災”以降に作られたアニメや特撮は意識・無意識問わず“震災”の影響を受けてしまっているとはたまに聞くので、「トッキュウジャー」は無意識のうちにそうなってしまったのかもしれません。
まぁもし“意識してやっていた”としても、そんなことは口が裂けても言えないと思いますがね…

そういうわけで、「烈車戦隊トッキュウジャー」と東日本大震災が関連しているかもという個人の考察でした。
あくまで“個人の考察”だから、気にし過ぎないでね。
あと今YouTubeで「トッキュウジャー」の配信をやっているから、興味がある人は途中からになるけど観てみて。
後悔はしないから。

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3.11

私は震災の日、一歳だったので記憶はありません。しかし自分があの日どのように過ごしていたかは何度か聞いたことがあります。
私は母と市外にお出かけに行っているときに地震が来ました。地震はそこまで大きくは無かったものの、ライフラインが止まっていたため家に帰ることが難しく近くの母方の実家に避難しました。そのとき、おばあちゃんが私や母・親戚がご飯で困らないようにお店に駆け込みおにぎりなど食べやすいご飯を買ってきてくれました。おばあちゃんは普段からおしゃべりでお店の人とも仲が良かったことでご飯を買うことがまだ出来たそうです。「食べ物をたくさん買うこと」がその当時100%良い行動だったかは分かりません。もしかしたら、慌てて買う人がたくさんいたから食べ物がなくなったのかもしれません。(山形県は被災後、多くのスーパーやコンビニの食べ物がなくなりました。)しかしこの行動を良い悪いではなく「事実」として記憶しておくことが、何か次に繋がられるきっかけになるのではと思っています。また父方のおばあちゃんも普段の関わりのおかげで近くのガソリンスタンドでガソリンを獲得できたそうです。
とはいえこの話を聞くと、どれだけ普段の関わりがいざとなったときに力になるのかを感じさせられます。おばあちゃんのように積極的に関わることはできませんが、ゆっくりでも地域との関係を作っていきたいです。

今日の授業で聞く言葉が記憶のない私たちが知る「きっかけ」となりますように。

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3.11から15年

今日で、
東日本大震災から15年が経ちますね。
あまり自分のことは事細かに書くことはないのですが、
今年は特に思い入れが強いのでここに書き残そうと思います。

当時のわたしはまだ小さく、
祖父の家にいました。
当時のことは今でも鮮明に覚えています。
たくさんのものが崩れ、
壁にかけてある絵が落ちてくるのではないかと不安でした。
内陸に住んでいるため、
津波の被害に遭うことはありませんでした。

ですが最近、
被災地へ足を運ぶ機会がありました。
当時の鮮烈な説明に、
心が酷く痛みました。
津波を経験していないわたしは、
自分が思っているより被害はとても大きく、
人々のかなしみは大きいのだと知りました。

地震と隣り合わせの日々。
最近は小さい地震が頻繁に起こっていて、
いつまた大きな地震に見舞われるかわかりません。
だからこそわたしたちは被災した方々へ祈りを捧げながら、
日々を歩いていくしかないのかもしれません。

明日を生きる人が、
少しでも笑っていられるように。
そう祈りを捧げながら、
わたしは今日も歩いていきます。