「え、長くない?」
「10年前ここにいて、どっかの学校いってまた戻ってきたとか?」
「なんで誰も何年いるか聞かなかったんだろ。」
迂闊だったと言って笑う二人。瑛瑠は黙って聞いていた。
「そういえばさ、今年から担任らしいね。何年ぶりかで。鏑木先生担任とかずるいって、先輩方言ってるの聞いた。」
「おー、恐っ!女子人気高いしなー。」
脱線は続くよどこまでも。
「今年からなんですか?担任職。」
瑛瑠技師の軌道修正。
「そうそう。まあ、年齢的に管理職だしね。副主任とか学年主任とかさ、生徒指導部とかでも全然アリなのに。」
「去年なんだっけ。わー、覚えてない。」
瑛瑠はこんなやりとりを見るのも初めてだ。ここまで話は拡大するのか。
鏑木先生が好かれる理由を聞こうとして、思わぬ情報が沢山はいるものだ。
「じゃあ、どうして今年担任なんだろ。」
「鏑木先生、なぜあそこまで人気なのかと。
お二人は、どんなところが好きなんですか?」
二人は再び顔を見合わせる。
「瑛瑠ちゃんておもしろい子…。」
「超直球じゃん。」
目を丸くしてから答える。
「なんだろ、先生っぽくないところかな。」
「基本生徒は放置だよね。放置っていうか、任せてるのかな。」
「うんうん。ひとりの人間として見てくれてるよね、子どもとか高校生とかの前に。」
「ほら!さっきもさ、勉強でもしとけって言ってたじゃん?鏑木先生なら、勉強しろとは言わないんだよねー。」
「でもさ、鏑木先生に勉強しろって言われたらやる。」
「言えてる。やっぱ鏑木先生担任でよかったよねー。」
よほど好かれているようだ。
「ずっと人気なんですか?」
「うん。先輩から代々受け継いできてるの、鏑木先生の評判は。」
代々……。
「どれくらいここにいらっしゃるんですか?」
「んー……10年は確実にいるはずだよ。10年前の写真に載ってたの見たもん。」
「初めまして。ちょっといいですか?」
2人は驚いたように顔を見合わせる。
そして、笑った。
「初めまして。」
「大丈夫だよ。」
楽しそうに笑う2人を、瑛瑠は首をかしげることで笑う理由を問う。
ひとりの子がにっこりする。
「初めましてって、使い道あるんだね。
そうやって話しかけられたの初めて。」
そういうことか。では、何と言うのだろう。
尋ねると、ちょっと考えるようにしてもうひとりが答える。
「ねえねえ、とか?」
そう言いながらまた2人は笑う。
声をあげて笑うことが、今までにあっただろうか。はしたないと言われたか。はたまた、そもそもそこまで楽しいこともなかったか。
なんだか、羨ましいと思ってしまう。
「ごめんね。で、どうしたの?」
顔を向けてくれた。
「鏑木先生のことなんですけど……。
お二人は、中等部からの方ですか?」
「うん、そうだよ。」
「あ、瑛瑠ちゃんもファン入り?」
にこにこする彼女たちに瑛瑠は驚く。
「どうして私の名前……」
もちろん瑛瑠は彼女たちの名前は知らない。
「珍しい名前だったから、黒板のあの張り紙見て覚えちゃった。かわいくていい名前だよね。」
今日はたいそう名前が褒められる日のようだ。
「鏑木先生の何を知りたいの?さっき十分質問に答えてたと思ったけど。」
面白そうに彼女たちは聞いてきた。
応えあぐねていると、
「高校。」
と返ってくる。チャールズがよくわからないことを言うから、普通の質問にさえおかしな反応をしてしまうではないか。
チャールズを心の中で睨み、先生に応える。
「はい、楽しそうなクラスだと思いました。」
「そうか。」
初めて先生が笑うのを見た。
この先生が好かれていることが、なんとなくわかるような気がした。
「いい奴らばかりだから、すぐ馴染めるさ。
じゃあ、気を付けて帰れよ。」
「はい。また明日、先生。」
大人とは。先生とは。学校とは。
鏑木先生とは。
また明日,と、そう言ってしまった。また明日も自分は来ると、みんなと会うと。
自然に出てきたその言葉に、何より自分が驚いている。
そして、今日のクラスメートと先生のやりとりを思い出す。出来ないと思っていたこと。もう少し時間がたてば、もしかするともしかするかもしれない。
敬服すべきは鏑木先生の人柄なのだろう。難しいこの年齢に対応できるだけの力量が、彼にはあるのだと瑛瑠は思う。
クラスには、まだ数人残っていた。
そのうちの、瑛瑠の近くの席で話している女の子2人に声をかけてみた。
声の主は鏑木先生。
「は、はい!」
手招きをしている。
手をかけた鞄を置き、先生のもとへ。一体何だろう。
「これ、家の人に。」
家の人に。渡せ、ということだろうか。
これ、といって渡されたのは封筒。
「わかりました。」
ありがとうございますと伝え戻ろうとすると、呼び止められた。
「慣れそうか?」
慣れそう、とは。
『慣れが早いですね。』
チャールズの声がよみがえる。
なんかやだなって思った 大人が言うこと
先生も 親も 未来のこと 将来のこと って言う
今が良ければいい なんて聞こえが悪いけど
今が良くなかったら未来なんて考えられないし
今さえ良ければいいって例えそうだったとしても きっと未来なんて 将来なんて どうになってなるだろう
死ぬような思いなんてしたことなくて
明日死ぬかもよって毎日大切にしなよって言われても
明日に死ぬより生きてる確率の方が高いんだし
忘れちゃうことの方が多いし
10年先なんて想像もつかないし
歳をとるなんて怖いし
やっぱり、今だけでいい
毎日LINEをしてる人がいて
話すことがなくてもおはよう、とかおやすみをくり返して
つながってる
寂しさ吹き飛ぶ
それが好きな人だったら尚更
そんな毎日が続くといいな.
家に帰ろうと
自転車を精一杯こぐ
ただ、一本道
惰性に少し身を任せ
ふと空を見上げる
ああ、ただ青い空に
夕日を浴びた無窮の空に
影を纏わせた雲が
それもまた夕日を浴びて
連なっている、どこを見ても
思い思いに浮いている
もう一度、力いっぱい漕ぎ始める
そうしたら、まるで
あの空を渡っていくようで
あの雲をすり抜けていくようで
前方に広がる夕景に
自由落下する、重力加速度が増していく
ああ、その時の心臓の高鳴りと言ったら
その時の、えも言えぬ爽快感ときたら
風を一身に受け、それでもなお追いつかない
深淵の、切り裂くような蒼さの宙ときたら
しかしその時、気づいたのだ
自由落下の旅はもう終わり
壮大な、荘厳な夕に
浮かぶ、私の家を見つけたのだ
振り返れば、遠く燃える斜陽が
私の目をも真っ赤に燃やさんと、その咢を開けている
夏の暮は、こんなもんじゃあないぞと、威嚇している
下校中の旅人は、しっかりと目に焼き付けて
決して忘れは致しませんと言ってから、自転車を泊め
そして、家の戸に入るのだった