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『祝福は似合わない』#3 Fin.

小さく笑って、私は絆創膏を持ってきた。
「諒さん、指出して」
 へそを曲げた子どものような面倒くささを持っている彼は、なかなか指を出さない。そんなに切れているわけではないと思うけれど、今の彼に必要なのは、休憩である。
「諒さん」
 語気を少し強めると、子どものような彼も子どもではないから引きを知っている。多少ぶすくれた顔ではあるが、おとなしく指を差し出す姿には笑みをこぼさずにいられない。
「この書類が悪いんだ。僕は悪くない」
「はいはい、誰も諒さんが悪いなんて思っていません」
 今だけは、仕事のことなんて忘れてしまえばいいのに。
 本当に、損をする人だと思う。これは、嫌味だ。
 なんて、吐き出しようのない燻りを、小さいながらも確実に育てながら絆創膏を巻く。彼が怪我をしたのは向かって右人差し指、つまりは彼の左手人差し指だった。
「なんだか指輪みたい」
 ちょっとだけ笑って吐いたこのセリフは、私なりの意地悪のつもりだった。一会社を背負う社長にあるまじきアクセサリーね、と。
 それが伝わっていないはずはないのだけれど、一瞬の間をおいて、彼はさらに不機嫌そうに睨み、口を開いた。
「言っておくけど、それはキミの役割じゃないからね」
 なんでもない休日昼下がり、そう言って書類整理に戻ってしまった彼に、私とコーヒーは置いてけぼりをくらった。

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『祝福は似合わない』#2

 あーでもないこーでもない、なんでみんな僕の邪魔ばかりするんだ、なんていう言葉をまた生産しては手を動かす。器用な人である。先程憎まれ口は叩かれたものの、これは別に嫌われているそれではないのだとわかる。本当に切羽詰まっているのだろう。私には手伝ってあげることはできないから、コーヒーだけでも入れてあげようとソファから腰を上げた。
 ついでに私の分も入れようと、マグカップを二つ並べる。一方は月の模様があり、もう一方はマグロを模した魚がプリントされてある。以前使っていたマグカップを割ってしまった時、キミのはこっち、そう言って彼が出してくれたものであるが、やはり感性については疑問を感じずにいられない。そうは言っても、お気に入りにしてしまっている時点で私の負けである。コーヒーメーカーに、水と挽いたコーヒー豆をセットし、スイッチを入れる。するとタイミングが良いのか悪いのか、彼のただならぬ声音が聞こえてきた。だから私は、マグカップもそのままに、慌てて様子を見に行ったのだ。その後に思わずため息をついてしまったことがバレなくてよかったと、今だから思う。
僕の邪魔をしてそんなに楽しい?僕の血はおいしかった?そう彼が話しかけるのは紙。どうやら手を切ってしまったらしい。思っていた以上に疲れているのかもしれない。色んな意味で。
 小さく笑って、私は絆創膏を持ってきた。

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『祝福は似合わない』#1

 今日も今日とて仏頂面の彼は、ぶつぶつと文句を口から量産しては、その割にはやいスピードで仕事の書類であろう紙の束たちを整理していく。そういうところを見ると、やはり仕事ができる人なのだと思う。
 こんな天気の良い休日の昼下がりに、クーラーのきいた部屋でただただ仕事をこなしていくほかに過ごし方はないのだろうかと甚だ疑問ではあるが、口にはしない。そうして幾度となく嫌な目を見てきたからである。人間とは、学ぶ生き物だ。だから、私もただそんな彼をソファに座って眺めるだけなのだが、この時間は嫌いではない。眉間に皺を寄せているときのこの人の顔は、ゲームが欲しいのにクリスマスプレゼントが図鑑だったときの子どものような顔をしている。いつもは意地の悪い楽しそうな顔をしているものだから、日ごろやりこめられている分、やり返してやったようなそんな気持ちになる。
 こうして眺める時間は、最近また増えたように感じる。テリトリーに入ることを許されたとでも言おうか。人は、ずっと見つめられると居心地の悪いものだと思う。彼は特にそういうのを嫌っていると、感覚的に思っていた。そもそも彼は、興味を抱く対象が特殊である。心を許した相手とそうでない相手との差は歴然としており、対応もまた顕著だった。本来私は、興味を持たれない側の人間のはずなのだけれど。
 そんなことを考えながら視線を外さずにいたら、ばちっと音が鳴る勢いで目が合う。気象予報士でなくともわかる爆弾低気圧だった。
「なんでキミはそんなに僕の邪魔をしたいの。そこのおもちゃを使っておままごとでもしてなよ」
 訂正。何をどうしても機嫌の悪い彼は機嫌が悪い。そこのおもちゃというのが比喩ではなく本物のおままごと用のおもちゃなのがこの人の人柄をさらにわからなくするアイテムなのだが、まあ今に始まったことではない。

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『偽善とは』

 僕が育ったのは、自然が綺麗なところだった。近くには川があり、晴れた日には光が反射して、川辺に咲く花や木々はそれを見て眩しそうに、そして嬉しそうに風に撫でられていた。近くに寄ると透き通って見えたその川には、たまに魚やカニなんかが顔をのぞかせていて、僕を天敵と見なすとすばやく陰に隠れ、そして見えなくなる。かくれんぼはいつも彼らの方が上手だった。鳥が歌う声もよく聴くから、綺麗であるここは彼らにとって危なくもあるのかもしれない。そんな穏やかでいて危ういこの場所が僕は好きだったし、みんなここにいれば幸せだと思っていた。今、このビルの立ち並んだ光景に窮屈さを感じざるを得なかったし、僕の中の何かが枯渇していたから。
 いわゆる都会という町に出てきて、僕はまるで砂漠に打ち捨てられた草食動物のように、緑を求めた。しかし、求めた先に現れたのは光を弾いて輝く川なんていう宝石箱ではなく、何色とも形容し難い大量の水の塊だった。これを人々は海と呼ぶのだろうか。
 覗いても、濁った色しか見えない。工場も近くにあるし、良くないものがたくさん流されているのだろうと悟った。小さくため息をつき、元来た道へ足を返す。そこで、小さく躓いた。僕を躓かせたその石の陰からは、カニが姿を現した。人的排水によって、ここまで住処を汚されているなんて。僕が1番最初に抱いたのは、かわいそうだとういう感情である。このカニは、綺麗な水を知らない。自分に害のある物質が住処を侵しているかもしれないのに。それも、人間という極めて恣意的な原因に。
 その時、このカニだけでも綺麗な場所で生きてほしいと思った。もう少し進んだ場所に、川が海に合流する、比較的綺麗な場所がある。そこに、逃がしてあげよう。
 そう思ってからは速かった。着くと、やはり先の海よりは断然綺麗でいて、僕はほっとしたのだ。やっと綺麗な場所で生きていけるね。そう声をかけてカニを放した。
 僕が害を加えようとしていたと思っていたのだろうそのカニは、放されると一目散に僕から離れた。長生きしろよ、と海へ入ったのを見届けて、身を翻した。多少だけど、海が綺麗だったから最後まで姿が見えたな。可愛かった。

 そう微笑む僕の頭上から、腹を空かせていたであろう鳥が、海めがけて降り立ったことを、僕は、知るべきだった。

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