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「                    」

あまりにも、と蟻は言った。

あまりにも幼稚な感情活動であったよ。原稿用紙のほとんどすべてを空白に費やして、最後の行にたった一言。これは一体どういうことだい?

蟻は言い終えると大きく息を吐き、大仰に手を振りかざしてから腕を組んだ。
その言葉に僕が激昂するとでも思っていたのか横柄な態度とは裏腹に身を硬くしていたが、僕が微笑むと蟻はそれはそれで嫌な顔をして僕の続く言葉をなんとか否定したいようであった。

そうか、そうか。君の眼から見ても幼稚であったか。確かに単語の一つや二つで表せる表現などたかが知れている。僕の単細胞的とも言えるような感情活動では、この言葉を思い出すので精一杯だったようだ。

僕が困ったように微笑むと、蟻はもう一度嫌な顔を作った。

そうだ。こんな短い言葉など時間にして僅か。機械に任せれば一秒もかからないものを、机に座ってペンを持ち一昼夜かけて漸く捻り出すとは生物的に馬鹿だ。時間対での効率が悪すぎる。蟻はその間に百倍、二百倍の成果を挙げられるぞ。

嫌味の中の得意顔。蔑みと憐憫と僅かな自負心の影を原稿用紙の上に落とす蟻に、僕は封筒を引き出しから持ってきながら言う。目は紙の上に踊る短い言葉たちを見ながら。

なんでだろうねぇ。僕はこの言葉をたしかに書きたかったのに、紙の上に書いてしまうとどうしてもかっちり嵌らないんだ。もっともっとたくさん形容してみたり比喩も沢山使ったのだけれど結局全部無駄に思えて、書いては消してを繰り返して。残ったのは簡単で原始的で、限りなくシンプルな言葉だけど、だからこの手紙から多くのことを感じ取ってほしいんだ。

情報はその文字しか無くとも?

無くとも。どうして多くの余白を残したか分かるかい?

悩んだ時間の視覚的表現か?

いや。実は余白は、もう埋まってるんだ。




そこには僕が書きたかったすべてが書かれている。

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鉛塊

宙に漫然と漂う巨大な鉛。
の、ような。
九年前。気づいたらそこにいた。
過去。もっと輝く未知だった。が。
そいつがいる、
青い空間を押しのけて
――万力をゆったり締め上げるように、
浮かんでいることが。
現在。日常となってしまった。
それが現在。さも当然、既知の事実。
見慣れた一枚の風景画。
と、なりぬ。
奴は。
鈍色の鯨とも似つかない。生命体ではないが。
が、しかし。それはどうしても生きている。
そのようだ。
観測的事実。
墜落はしないようだ。
だが、しかし。倦怠感のような巨大鉛塊は。
”気付いたら”いなくなっていた。
と、いうこともないらしい。
事は確かだ。と思う。
観測的希望。
空の一角を圧迫している。そんな程度の。
重さ。圧力。大きさ。存在。
やはり、倦怠感のような。
拭っても取れえぬ、疲労感のような。
もはや。奴を見上げることなど。
とうの昔にしなくなった。
見て。注視して。何が変わるのか。
届くわけでもあるまいし。
奴は影のみしか落とさない。
何も落とさない。
落ちないものを気にしていたって、
それこそが杞憂、というものではないか。
のうのうと。無いふりをして。
奴がいないふりをして。
――依然、空からの圧は感じるが。
歩くしか、ない。そう思い込んで。
黙り込んで。盲点に入れた。わざと。
わざと偶然的に。
鈍色の巨大鉛塊が浮かび続ける。大空。
勝手に。いつの間に。いたのに。
いつまでもいる。勝手に消えない。
いつの間に、消えてくれない。
いつの間に僕は。
消えてほしくない、と。
そう冀ったのだろう。

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告別の詩

今日もまた下らない太陽が上り
真っ青な空は吐きそうな程です
全身の気怠さは昨日の後悔達で
いつまでも僕の踝を掴むのです
こんな何でもない冬の朝だから
縮こまった体を少しだけ震わし
また今日も行くべき場所へ行く
目的などとうの昔に忘れました
こんな僕をこんな所に繋ぐのは
死ぬことさえ面倒に思う怠惰と
この世への未練かのような顔で
僕の心に居座り続ける恐怖です
自分の為に生きられるほどには
僕は強くなんてなれなかったし
誰かの為に生きられるほどには
僕は優しくなんてなれなかった
僕に死ねるだけの勇気があれば
僕はもっと幸せだったでしょう
努力することを覚えられたなら
僕はもっと幸せだったでしょう
それでもその何方でもない僕が
幸せだなと思う瞬間があるから
この世界はやっぱり意地悪です
僕の襟を掴んで離さないのです
貴方はこれをただの詩だと思い
また溜め息をつくのでしょうか
何れにせよ僕の中の浅ましさが
やっぱり僕は嫌いでなりません
誰に伝える気も無いかのような
こんな長ったらしい詞たちさえ
貴方は何故か拾ってくれるから
やっぱりこの世界は意地悪です
そんな詞ももうすぐ終わります
ですが最後に一つだけとすれば
僕は貴方のように生きたかった
それしか言うことは無いのです

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月の涙 6

 翌日早朝。私たち姉妹は人もまばらな駅の入り口にたたずんでいた。日はまだ完全に登りきっておらず、藍色に染められた空が寝起きの目に痛いほど鮮やかに写る。昨日はあの後本を読む暇もなく、出発の準備だけして寝てしまった。完全夜型の私に早寝早起きは相当負荷だったらしく、先ほどからあくびを何回かかみ殺している。夏の朝はそれでも爽やかな始まりだった。今日も暑くなりそうだ。
 しばらくして、圭一さんが来た。今回の旅程は途中まで圭一さんの軽自動車で移動することになっている。そこから電車とバスを乗り継いで半日かけて氷枯村に辿り着く予定だ。軽自動車でやってきた圭一さんを見つけると、妹はぴょこぴょこ動き出した。これから始まる旅に心躍っているのだろうか。私は開いていた本に栞を挟んだ。
「お久しぶりです、圭一さん」
「お久しぶり。顔見るのは半年ぶりだね」
声は昨日聞いたけどね、と笑う圭一さん。朝早いのに全く隙のない笑顔だ。朝型の人なのだろうか。
「陽波ちゃんも久しぶり。大きくなった?」
「お久しぶりです。そうですか?」
半年前はこれくらいだったよと手を胸あたりに当てる圭一さんと、そのもう少し下を主張する妹。朝から元気がないのはどうやら私だけのようだ。

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分厚いレンズで教室を見渡して
今日も思うんだ「何もない一日だ」
いつものペルソナを鞄から取り出して
眼鏡外して顔を覆った

絶対的安全地帯はもう存在しないから
僕の適切な関係解を探そうか
繋ぐ糸が撚り合わさって出来上がるのは人物像
当たり前の嘘を毎日に溶かしてゆく

ねえねえ本当に僕ら偽っていないかい?
「仲良く 楽しく」なんて簡単じゃないし
僕ら純粋を汚しあってさ もう知ってんだ
自分知ってるから顔隠してるんだよ

大きな仮面 "僕"はわからないだろ?
泣いても嘲ても決して伝わらない
目穴から覗けば誰だってそうなんだ
心臓守る肋の様に僕の自我を守っていてくれ

吐きたての嘘温かいでしょ?
夜には冷えて君の心臓を刺し貫くから
愉快だ愉快だ 
仮面の奥 伽藍瞳は無表情のまま

いつか仮面が外れなくなって
「まあいいか」って笑っていた
浮かべている作り笑いが
張り付いて離れない

哀しいときも苦しいときも
僕は薄情な笑みを湛えたけど
泣きたいんだ叫びたいんだ
無表情で突き飛ばしたくないんだよ

顔から引き千切って粉々に砕きたい
露出した僕のホントの顔を誰か守ってくれ
そんな奴はどこにも存在しないのさ
顔を毛布に埋めて眠る

アイデンティティに巻き付いた
茨が刺さってほどけないの

君よ 僕の心を見透かしてくれ
汚いところも全部々々
僕の涙を掬い上げてくれ
こんな僕に手を差し伸べて

一緒に心から笑いたいんだ