表示件数
0
0

転生するのも案外良くないものだ p.6

 その上、記憶力の低下は著しい。
 必死で覚えた英単語や趣味だったギリシア語、難解な漢字熟語などは相当忘れてしまった。義務教育レベルの世界史も曖昧だ。

 中でも固有名詞に関しては深刻である。

 例えば、毎日の通勤に使った駅の名。愛読した書物の題名。よく飲みに行った同僚や高校時代からの旧友の名。気付いた頃には思い出せなくなっていた。今の、コマ=リャケット語を操る私にとっては馴染みなく規則性も意味もない文字列であるからだろうか。思い出せた名は全てリストアップした。あまり多くはなかった。家族、親しい親戚、何人かの友人。

 しかし日を追うごと名前と顔が一致しなくなった。

 出来事の記憶はあるが、それが誰との記憶だったのか、思い出せない。読者諸氏には、大事なことは何度も思い返すことを強くお勧めしておく。

 最近、私を産んだ異形の顔を見て、私は泣き崩れた。
 私の頭の中に、前世の母の顔がないことに気付いてしまったのだ。
 私の思い描く母親像は、全長二メートルの、硬い鱗に覆われた、鋭い爪の、大蜥蜴だった。私は名前のリストの一番上の『家族』の欄を確認した。不器用な文字の羅列は、私の全く知らないものだった。

 その瞬間、私は、私が人間である資格を完全に失ったように感じた。

 否、今まで醜く足掻いていただけで、実際はこの世界にコマ=リャケットとして生まれ落ちた時点で私は人間である資格を喪失していたのだ。今まで認めようとしなかっただけなのだ……。

 これからもっといろいろなことを忘れていくだろう。いつか日本人としての精神を失いコマ=リャケットの倫理に迎合せざるを得なくなる日が来るかもしれない。日本語もいつまで覚えていられるか分からない。今残っている記憶のどこまで忘れてしまうかも不明だ。

 だから私は、今のうちに、私が覚えているもの全てを書き残す。

 いずれここに記したことの一切を誰も解読できなくなったとしても、所詮私が、人間の振りをした化物であったとしても、私がかつて人間として、日本人として、生きていた証左となるなら。


×年×日 橋田勇作

0

転生するのも案外良くないものだ p.5

 ただし不満がない訳ではない。

 例えば宗教学的に見れば、宗教は古代的なアニミズムがあるようだが、立派な神殿や聖典、確固たる教義は存在しない。

 御天道様にお祈りを捧げる、埋葬する、といった文化はある。しかしキリスト教をはじめとする前世に存在した宗教、また街の方の宗教のような、支配と結びついた宗教ではない。一神教と支配について好んで学んだ身としては非常に残念である。

 人文科学の点から見ても、我々の使用言語にはそもそも文字がない訳だから歴史研究や文学の発展もないに等しい。勿論口伝の神話や寓話は存在するが、それ以上の『文学』は私が見たところ存在しないようである。私は前世、本、殊に文学や古代史書、天文学書をよく好んで読んだのでその点落胆した。

 また、コマ=リャケットには文字がないと述べたが、文字を覚えられる者が殆どいないのである。
 
 集落の中で公用語を話せる者は一割程度、その上記述が可能な者は一人といった具合である。それにはやはり鱗と鋭い爪で武装した使い勝手の悪い指という身体的な特徴の原因もあるが、主な理由としては知能の低さにあるであろう。

 元は人間である私も今では立派にコマ=リャケットである。知能の低下に抗う術は持っていなかった。

 まず思考力が低下していることが分かった。計算は随分遅くなった。小学生の頃と比べてもあまりにも遅い。
 それに、高校や大学で当然に説明のできた理論が理解できなくなった。知能の低下に気が付いたときに一つ一つ確認したところ、虚数が理解できなくなっていたのだから驚きだ。

 補足しておくと、コマ=リャケットの脳機能は十年程度で成熟する。私が他の者よりも極端に知能が低い訳でもないようだ。