今日の掲示板は読んでるとつらくて泣きそうになる。でも、見ないと。忘れてはいけないこと。
10年前、まだ小さかったし記憶もはっきりしてない、私の住んでる所はあまり被害は大きくなかったのに、昨日のことのように感じます。
毎年この時期になると、いろんな特集されるけど、怖くて目をそむけてしまう。怖くて写真とか映像を見ると泣きそうになる。
私の家は震度6で倒壊します。毎日、震度7が起こる可能性は70% 「死」なんていつ来るか分からない。
毎日、1分、1秒大切に過ごしたい。
私は、3歳でした。その時、私はスーパーの駐車場の車の中で、買い物に行っている母を父と待っていました。私はその時、風で揺れたのかな?って感じで地震とは思いませんでした。
今でも、避難している人がいるって知って胸が痛みます。
私は震災のとき3歳でしたが、記憶が少しあります。
丁度ある人の誕生日で、地震がきたとき誕生日パーティーの準備をしてました。
地震が来たときお母さんがお母さんは急いで窓を開けました。
そして食器棚が倒れないように押さえていたのを見ました。
私はお母さんに言われて、1つ下の妹とテーブルの下に潜っていました。
揺れが収まり、隣の家のMちゃんとMママ(Mちゃんのお母さん)、私、妹、私のお母さんでMちゃんの通っている小学校の体育館に避難しました。
夜は皆で赤飯(私の記憶上)を食べました。
少し冷たかった気がします。
その晩余震が多く、私は怖く泣いていました。
隣に居たMママに『大丈夫だよ。』と言われていた記憶があります。
家に帰ると家の中は悲惨で、食器はほぼ全て割れていて、TVなどの家具は全部倒れていました。
あとの記憶は本当にあやふやなので書きません。
私は内陸に住んでいたので沿岸に住んでいた方々より被害は無かったのですが、当時自分は小1で地震が来たときは一瞬何が起こったのか分からなかったです。停電はしたけど、ガスは通っていたので、母がお湯を沸かしてココアを作ってくれたことを覚えています。とてもほっとする味でした。
あれから10年経ったのかと思うとすごい短いように感じます。それだけ忘れられない出来事だと感じています。今でも津波の映像を見ると、実際に見たことは無いのに何故だか泣きたくなってきます(本当に謎…)。
今私が思っていることは、この出来事を風化させてはいけないということです。かといって、被災した人達を腫れ物扱いするのもどうかと思います。みんなで支え合っていく精神は良いことだと思いますが、今何を必要としているのかを互いに理解していくことが大切なことなのかなと思います(伝われ…!)。
僕はあのいきなり降ってきた雪を、防災無線から鳴り響くサイレンをまだ鮮明に覚えていますが、現在日本国民のおよそ1割は震災を体験していない、またはよく覚えていない世代だそうです。自分にできることは少ないですが、どんな些細なことでも後世に伝えていくことが大切なんだなと思いました。
10年前の今日、当時4歳だった私。
その日の記憶は断片的ですが、はっきりしているところも多いです。
勝手ですが、そのときの事を書かせてください。
2時46分、幼稚園からバスで帰ろうとしていて、園児は全員揃っていて
「あとは運転手さんが来ればすぐに出発」という状態でした。
その直後バスが大きく揺れて、先生が
「地震です!みんな降りて!」みたいなことを大きな声で叫びました。
私は何が起こったのか整理できないまま、バスを最後に降りてみんなで近くの小学校の3階に逃げました。
その幼稚園は大きな川の近くでした。津波は直接は見ていません。
天気が悪くて寒い日で、そこに泊まると聞いたときは本当に絶望しましたし、頭の中がこんがらがっていました。
幼稚園の硬いカバンを枕にし、薄い布を布団にして寝たあの感覚を今でも鮮明に覚えています。それから、夜中に目が覚めたときに見た先生たちの何かを真剣そうに話し合う姿。
それから翌日、父親が迎えに来てくれて、無事帰りました。そのとき一緒に避難した皆も無事だったそうです。
避難した小学校を出た瞬間、
大人の人の膝まで浸かった真っ黒い水と、たくさんの瓦礫でとこが道なのか分かりませんでした。
私の家族は、近くにある高台の親戚の家へ避難し、全員無事でした。
でも、そこから見た変わり果てた街並みにショックを受けました。
建物がほとんど残っておらず、土だけが広がっていたのです。
その後しばらくして、(転入先の)幼稚園へ向かう朝。
元々通っていた幼稚園のバスが、大きな川に突っ込んでいました。
10年が経過した今、改めて考えると「出発の時間があと少しでも早ければ。」と考えるだけで怖くなります。
だからこそ私がこうして生きていられるのは当たり前ではないと思います。
SOL!の生徒の皆さんにも、
「自分が背負っているのは自分の人生だけではない」ということを考えていただけるとありがたいです。
私もこの10年という節目をよく考え、地元のために、人のために、頑張って行こうと思います。
長くて拙い文章を読んでいただき有り難うございました。
僕は丁度幼稚園から家に帰ってきたばかりで、長く大きな横揺れが3回も立て続けに起きたのを覚えています。
地震の次の日には福島第一原子力発電所事故が発生し、外に出ることを控えるようにしなくては行けなかったのですが、当時幼くてあまりよくわからなかったので何か大変なことが起こってしまった。このまま家に住み続けられるのかなと不安でした。
覚えてる。
なにもできなくて、ただ怖くて、おばあちゃんにしがみついてた。
緊急地震速報の音、テレビ越しに街が津波に飲み込まれていく様子…。
幸い、自分たちの地域には大きな被害はありませんでした。
でも、水も電気も使えなくて辛かったし、
なによりも寒かった。
だけど、それでもみんなで助け合って夜を共に過ごしました。
私の家はお店を開いているので、食料や飲料などはある分全てをご近所さんに分けていた記憶があります。
そして、その日はみんなの温かい言葉で満ちていました。
「大丈夫だからな!」
「心配しないで」
「一緒に頑張ろうね!」
震災の記憶を思い出すのは辛いけど、
あの日、みんなで一致団結して協力し合い、お互いがお互いを思いやって、助け合っていた瞬間を思い出すととても胸が温かくなります。
今もコロナで大変なことが世界各地で起きているけど、きっとお互いがお互いを思い合い、助け合っていけば、コロナが流行る前には戻れないかもしれないけど、新しい日常にきっと向かえると思います。
自粛や予防など、これまで自分で出来ることはみんな頑張ってきたから、これから先は1人じゃなくて、みんなで支え合っていくことが必要だと思います。
あともう少し、みんなで乗り越えようね!
今日はいろいろなメディアなどで、10年前のあの大きな事を取り上げている…
10年前は、幼稚園生だったから当時のことは全然分からない。
最近になって、毎年取り上げられるニュースとかを見て知ることがほとんど。
熊本地震のときは自分も少し揺れを感じたけど、ほぼ地震は経験したことがない。
さっき見ていた特別ドラマで心に刺さった言葉がある。
「気持ちって『分かる』か『分からない』だけなのかな」
というような言葉でした。
確かにそうなのかも知れないと思った…
私には、分からないのが本音。
だって、経験したことがないから。
でも、感じることはある。
被災者の人たちの言葉や思いを感じられる。
少なくとも、その言葉はや思いは、私には伝わってきている。
完全にではないけど、伝わってきている。
掲示板で被災者の生徒の書き込みを見て、このことを伝えたいと思った。
この「伝えたい」思いを絶やさないこと。
それが、大切なんだと思う。
だから、ここに書き込んで伝えたい。
あなたに届いて……
東日本大震災当時、私は4歳で宮城に住んでいました。
地震発生後、保育園から引き渡されて母と1歳だった妹とともに帰ったのは、物が散乱して天井にひびがたくさん入った家。もちろん電気や水は通っていませんでした。幸い私が住んでいた地区は津波の被害がありませんでしたが、たまたま父が出張中で、帰ってくるにも道路が寸断されていたり交通機関が止まっていたりしたので帰って来れず。。母一人の手で幼い私と妹の世話をするのは大変だったと思います。そこから何日間も水と電気の通っていない生活が続き、やっと水を供給してくれるトラック(?)が来たと思ったら7時間待ち。幼い私たちを連れて7時間待つことは出来ないので、お風呂に溜めてあった水や近所の人が水を分けてくださったりして、何とか堪え凌ぐことができたそうです。
当時のことは何となく覚えている程度ですが、あれから10年、我が家には常に水のペットボトルや懐中電灯などがたくさん備えてあるようになりました。私も宮城を引っ越してからはこの日について考える機会がどんどんなくなってきてしまっていますが、絶対に忘れてはならないことだと思います。
あの日犠牲になった方々も、元々は私たちと同じように生まれてきています。みんな平等のはずなのに、たまたま東北に居合わせた人を無差別に落としていく地震は憎くて怖いものです。私たちはそんな犠牲になった人たちの分まで、毎日に感謝しながら生きるべきなのではないかなと思いました。
・田舎なので道端が花だらけ。もう春だね〜
・給食の時間、セカオワ先生の曲がいっぱいかかりました!セカオワNOONだ!笑
・明日の卒業式に向けて、みんなで準備。全生徒でちょっとずつ書いたモザイクアートが、ものすごい出来になっててびっくり。写真撮りたかった、、
・嫌なこともあったけど。
・明日の演奏、頑張るぞ!!
今日、学校の放課後に先生方に体育館を開けてもらい、バスケすることが出来ました!!
以上、報告でした!
十年前は私が2歳の時。全然記憶がなくて残念。だって地震のことを深く考えられないから。
地震のことをもっと詳しくなっていこうと思ったりしています
私は当時幼稚園の年長でその時は家でテレビを見ていました。
急に揺れ6才だった私でもヤバいと感じる程でした。
母は岩手のおばあちゃん、ひいおばあちゃんに電話をし「大丈夫」と話たりの途中で電波が悪くなり切れたような気がします。何度もかけては途切れという感じだった気がします。
私ももっと話したかったけど、母を優先しなければと感じたんです。最後の電話になるなんて…
父はその日仕事だったけど、1回帰ってきてくれました。一旦帰っていいと言ってもらえたと聞きました。
今こうやって書くだけで思い出して辛い。涙が出てきます。
本当は書きたくなかった。でも書くことによって他の地域の人に伝わってくれるって信じてるし、私達が震災を覚えてる最後の世代だ。と言われてきました。
なので書き込もうと思いました。親にも友達にも言ったことないです。長女だからそういうとこ見せたら嫌だし、思い出させちゃうし、恥ずかしいって感じてるんです。
ニュースとかスピーチとかで綺麗事並べて話されるのがすごく嫌です。自分の事だからだからどうしろってことはないけど、辛さを分かってほしいとかじゃなくて、言葉に表せないけど、そういうことなんです。
毎年この時期になると、学校で文集が配られる。
私は思う。
どうしてこうも才能とかある人とない人の差が酷いんだろう。
ちなみに私は3年間全く文集に作品が載りませんでした。
もうこれは私の才能が凡人すぎるんだな。うん。
もし私が凡人じゃなかったら、私は底辺なのか?
自己承認欲求の塊かもしれないけど、高校ではみんなに褒められたい。認められたい。
私は地震も津波も経験してない、
遠く離れた南の地から今私ができることってなんだろうって考えることしかできなくて悔しい
10年前。私はまだ2歳。なんの記憶もない。なんの記憶もないけど震災当時の恐ろしさは語られるだけで伝えられる。実際はもっともっと恐怖があったと思う。東北地域の人はさらに恐怖があっただろう。
大切な人にいきなり別れを告げられるつらさ、体験したことのない揺れが続いた恐怖、私たちが思う何倍も恐ろしいもの。今日、学校で2時46分、黙祷を行った。黙祷が終わり、顔を上げると、当時の様子を想像していたのか、クラスの数名が泣いていた。先生も泣いていた。私も泣いた。母といきなり離れる、別れを告げられることを想像したら、涙が止まらなかった。こんな恐怖、いつ訪れるかなんて誰もわからない。誰も知らない。だから怖い。今日、この日が忘れられず、ずっと語り継がれますように。
そして私もこれから20年、30年経ってもこの日を忘れません。
スマホを持っている方々へ
LINEアプリを開き、ホームボタンを押すと検索できるところがあります。そこで3.11と検索すれば震災復興のために10円寄付できます。自分のお金ではなくLINE社が出してくれるので安心してください。知っている方々も沢山いるでしょうが、まだ知らなかった方々、是非検索してみてはいかがでしょう。
ちなみにLINEアプリじゃなくてもYahooで検索すれば寄付されます。なのでパソコンからでもOKですよ。
あれから10年。
幼稚園の頃の記憶なんてほとんどないのに
あのときの記憶はちゃんとあります。
震源から離れていた私の地域でも家の屋根瓦が崩れるなどの被害がありました。
上手く言葉に表せないけど、
「これは10年経っても決して忘れてはいけないことなんだ。」
と思いました。
こんばんは。震災から10年が経ちました。あの日私の記憶に残るほどの地震がありました。私はすっと岩手で育ってきたので気持ちがわかります。ぜひ校長と教頭と今の岩手県について話がしたいです。
早いですね・・・。10年たつの。私は保育園児でした。お昼時間に私は震度4の地震を経験しました。私は地震だけで済みましたが、岩手などでは本当に大変だったとことと思います。テレビで津波の映像を見ると胸が苦しくなります。こんな震災はもう二度と嫌です。なんで日本はこんな地震大国なんでしょうね・・・。もう嫌です。私が言うのもなんですが、過去にとらわれずに未来に向かって毎日を大切に懸命に生きることが大切だと思います。みなさん。頑張りましょ!
思い出したくない日でもあるけれど、この日からは
たくさんの芸能人の方々が宮城県沿岸部などにたくさん来て下さり、ボランティアして頂いたこと未だに忘れません。そんな中、たくさん写真を撮って下さり、私にとって元気の素でした。
そして、お母さんのお腹にいる時から聴いていて今でも大好きなEXILEさん方も来て下さり、1年後には「Rising Sun」をリリース。この曲は毎年この日になれば1日と言っていいほど聞きます。
人生を変えた1曲であり、勇気・希望を与えて頂いた「 Rising Sun」一生忘れることなく聴き続けます。
10年前、ボランティアとして来てくださった芸能人の皆さん。アスリートの皆さん。この場を借りて言わせていただきます。本当にありがとうございました。一生忘れません。
今日は東日本大震災から10年という節目の年、節目の日でありまたその日に私は中学校を卒業しました!中学校でたくさん防災について学びました。役に立てたらと思い募金をしました!!!!10年という年月が経っても2011年3月11日に起きたことを忘れません。
もうあれから10年か。
どうしても阪神淡路大震災の方がよく使う高速道路が倒れたり毎日見てる街が火災にあったりしてて印象が強いんだけどあの時阪神淡路大震災と同レベルの地震と津波があって自分の愛する山形県も被害にあったんだなあと思うとやっぱり怖い。
日本中どこにいても地震が起こってもおかしくないから日々防災に努めておかないといけないなぁ。
私は当時小学3年生でした。
被害がない地域に住んでいたため被災された方々がどれだけ大変な思いをされたのか私には映像を通してしか感じることが出来ませんでした。
しかし、大学進学と共に地元を離れ北海道に来たことで東日本大震災が身近になったように思います。友人の中にも東北出身の子がたくさんいて、大きな被害にあった地域出身の子もいます。
あまり深くまでは話を聞けないけれどきっと私には想像出来ないような怖い思いをしたのだろうと感じました。
SNSなどでもたくさん呟かれていて中には心無い言葉を書いている人もいるけれど、今日のことは絶対に忘れてはいけないことだと思います。
10年前は幼稚園を卒業するかしないかぐらいの時期でした。
詳しいことは覚えていないのですが、私は幼稚園から家に帰り、習い事のバスに乗るためにマンションを出た頃に地震が来ました。マンションの強化ガラスがすごく揺れていたことは覚えています。
詳しいことを覚えていないけど、この地震によって起きたことは忘れたくはないです。
ちょうどあれのあった年度だけ、岩手にいた。山の中だったんで、停電くらいしか被害は無かったのだけども、地震が起きた瞬間はちょうど学校にいて、泣いた子とかも居たな……。
私は当時3歳でしたが、なんとなく記憶はあります。幼稚園から母の車で帰る途中だった気がします。山形県なので、津波などは無く、停電は1日は続いたそうです。
私は、どのくらい大変だったとか、記憶がないので伝えきれませんが、この震災があったことは、絶対に忘れないし、伝えたいと思います。
友達に、震災の原発事故によって、山形の方に移り住んできたという子がいます。お父さんは、福島にいると聞いています。
初めて知った時は、直接被害に遭われた方も、近くにいるんだな、と思いました。
あの日小学2年生だった。
私にとって大好きな先生がいたけど
苦手だった小学校生活。
笑顔になれることがたくさんあって、
辛かったこともあったけど、
あんな悲劇が起こるなんて知らなかった。
帰りの会でみんなで歌って
あー今日も楽しかったって思ったのに
急にすごく揺れてガラスが割れて
ぎゃあーってみんなで叫びながら
机の下にいるしかなくて
集団下校して家に帰った。
もうその後の記憶はあまりないけれど。
被災地の人たちはもっともっと悲しくて
つらくて怖くて叫びたかったんだろうな。
悲しい別れに何年経っても向き合えてなくて
立ち直れてなくて
東京に住む私にはわからないくらい辛いんだろうと…
今日3.11の映像がニュースで
午後からずっと流れてて
こんな悲しい苦しい辛いことが起きてたんだ、
自分がその立場になったらどうなるんだろう、って考えたら怖くて悲しかったです。
コロナで大変だっていうこの時期だけど、
みんながコロナに追われて大変な毎日だけど、
だからって忘れちゃいけないんだ
と思った1日でした。
10年前の今日、私は保育園にいておやつの時間でした。楽しく友達と話している時揺れを感じ始め先生達の携帯のアラームがなって机の下にみんなで潜りました。揺れ自体は本当に小さくて、気づいた人は少なかった。揺れが終わった後は東北の方で大変なことになっているなんて分からず
「全然揺れなかったね。」なんていって何事もなかったかのように過ごしていました。家に帰ってきてからテレビで津波のことを知って怖くなってテレビをみたくなくなるほどでした。
そして、私はその日本当に小さな揺れしか感じなかったですが私には絶対に想像することの出来ないほどの恐怖や揺れを体験したとおもいました。
今は理科の勉強であの地震がどれほど大きなものだったのかより詳しく知ってもうあんなことは起こってはいけないとおもいました。
私はまだ5歳。
幼稚園からの帰り道、母の自転車の上で揺れを感じた。
ちょうど、踏切を渡ったところで、あまりにも揺れていたので、自転車から降りた。
家のすぐ近くまで来てたし、近所の人しか通らない道だったので、事故にはならなかった。 本当に良かった。
数日後、建築士である父以外の家族で、母の実家である、北海道へ一時避難した。
今日、2時46分、私はその時は知らなかった思いも込めて、黙祷を捧げた。
みんな幸せが嬉しいから、そうであって欲しい。
陸前高田市の追悼式に参加した帰りに祖母の家があったであろう場所に行ったのですが、家の面影もなく、野球場となっていました。
…なんとも複雑な心境です
当時、私は5歳であんま覚えてないのですが幼稚園のバスで家に送ってもらった直後だったらしいです。また、次の日に行われる予定だった人生初のピアノの発表会も中止になってしまいました。秋田なので津波とかはなかったんですけど、すごく揺れて停電になりました。ほんとに怖くて辛くて、そして寒くて…。いま、15歳になって、今週の土曜日には中学校の卒業式があり、この春から高校生になります。これからも、震災のことは忘れてはならないし、思いとかそういうものも受け継ぐべきだと思います。いっぱい考えて、いろんな人に感謝を伝えたりして、笑って、大切に生きたいです
その時私は幼稚園の年長組にいたけど、地震のこと全く知らなかった。
小学3年生くらいになって、昔この様な地震があったことを知り怖くなった。
そして今、日本は地震だらけ。
地震を止められる訳ないけど、今になって東日本大震災から学ぶことは多い。
自分の身を守ることと、いつも誰かを大切にすることを。
私はあさっての卒業式で、東日本大震災をきっかけに作られた卒業ソング
「群青」を歌う。
この曲を精一杯心を込めて歌いたい。
"この10年で出会った東北の生徒の「今」"
今日で震災から10年。
今夜は、この10年でSCHOOL OF LOCK!が出会ってきた東北の生徒が、
今、どこで、何をしているのか。
今、どんなことを考えているのか。
時間の限り、聞かせてもらいます。
生徒のみんなは今夜の授業を聴いて思ったこと、感じたことを学校掲示板に書き込んでほしい!
とのことです!
(お知らせです。明日の授業テーマの投稿は私の都合でありません。出来たらですが朝投稿しておく可能性があります。)
私は当時保育園児だったので、細かい部分の記憶があまりありません。
ただ覚えているのは、急にストーブが消えて部屋が真っ暗になったこと、なんだか怖い警報の音がテレビから聞こえてきたこと、先生が真面目な顔で何かを喋っていたこと、いつもの保育園からの帰り道がやけに混雑していたこと、お父さんがロウソクに火をつけて、その周りで夕飯を食べたこと、、
本当に状況が混乱していて訳が分からなかったです。
私の住んでいる秋田県は被害の少ない県なのですが、同じ東北の太平洋側では何千人もの人が津波に飲まれたり、命を落としたりしているなんて想像も出来なかったです。
運良く生き残った私たちだからこそ、後世にもこの体験を伝えて、今こうして生きていることに感謝したいです。
LOVE&HOPEでとーやま校長が食べてるやつどれも美味しそう。行きたい!
正直、ここに書き込むか悩んだ。
私は当時2歳で全く記憶が無い。
だから「大変だったね」とか「頑張れ」とか、言う資格がない気がする。
言ったら口先だけになっしまう気がする。
ネット記事や新聞に載っている内容はできるだけ読んでいるけど。
学校で黙祷してその後もぼーっと考えてた。
辛かっただろうな。私には想像できないくらいやばかっだろうな。
絶対風化だけはさせない。
今回みたいな授業テーマにすることで後世にも伝えられるんじゃないかな。
震災当時6歳。自分の住んでるところは原発事故による避難はありませんでしたが、祖父母が住んでる所は避難指示が出ました。今はもう解除され、元の場所に戻れましたが、今もまだ帰れない人が大勢います。震災前、原発の近くのスーパーなどに買い物に行ったことがありました。そこは今も避難指示が出たままです。また、風評被害も無くなったわけではありません。でももっと福島にいる私たちの声を聞いて欲しいです。
今日、面接を受けて高校受験を無事全て終えました!第1志望の結果がすごい不安…
今日から全力でゴロゴロします!
まだ昨日の事のように鮮明に覚えてる。
本当に10年もたったのだろうかと疑ってしまうほど。。。
私は当時5歳。内陸部に住んでいたのが私達家族にとっては最もさいわいなことでした。でも、おじいちゃんおばあちゃんの家は、沿岸部で電話をかけても全く繋がらず、しまいには津波の情報を先に知ってしまい不安しかありませんでした。地元発信のラジオに問い合わせしても安否確認出来ずさらに不安がまして、1週間よく寝れてなかったこと覚えてます。
今日で10年。
今でもしっかり覚えてるし、今日学校で追悼した。
10年前の今日はピアノのレッスンに行く予定で、最寄り駅まで着いたところで地震が起きて、周りのお店屋さんの人達が出てきて口々に『揺れてる!』と、行ってた。結局ピアノのレッスンには行かずに家に帰って待機。それでも、怖くて仕方がなくて、周りでブロック塀にヒビ入ったり、うちのお風呂場のタイルにヒビ入ったりして、怖かった。夜になってもニュースからは悲惨なことがいっぱい起きていることだけ聞き取れた。怖かった。
東北の皆さんはきっと私なんかよりも100倍以上怖くて、悲しくて、辛い思いをされてた思います。
ご冥福をお祈りします。
そして、この先もこの震災の事を忘れないように生きていきます。
念送って良かったー!!
校長、教頭、優しい♡
るるるのる→ありませんでした(´・ω・`)
家族がみんなで違う部屋で聴いててびっくりした!
素敵な夜を本当にありがとうございました!
今日は友達としりとりをしながら帰宅しました!
10年前、私は3歳。だから、ほとんど記憶がありません。でも、未来新聞を読んでその辛さが分かりました。
私が生きている中でそれほど大きな地震はなく、体験したことがありません。
だから本当の怖さとか苦しさは分からないけど、今日の放送を聞いて改めて学ぼうと思いました。
校長の家の前でめちゃくちゃ拝んできました笑笑
校長フルパワー携えて、これで受験頑張れそうです!!!
ありがとうございます!!
自分は震災当日都内の祖父の家にいた
そして14時46分揺れがきた、自分と弟はテーブルの中に入り、てーぶるをおさえる母、食器棚をおさえる祖母、その後揺れがおさまった時、当時警察官だった祖父から電話がきた、上司から帰宅許可をもらったらしい。
テレビを見ると津波の映像が流れ泣きそうになった。
そんな中で母が貧血になり救急病院に向かった。
そんな夜安全を考慮しテレビをつけながら寝ていると家に響き渡る緊急地震速報、もう訳が分からなかった。
東京でこんなに大変だったなら、きっと揺れが大きかったり、津波や原発事故があった東北は言葉では表わせないものだったんだなとこの年になって実感した。
昨日は逆逆電ありがとうございました!
実は今日、校長のお言葉に甘えて、校長の家を訪問させていただきました!
ご両親がめちゃくちゃ面白くて、温かくて、ホントに楽しかったです!!
セロリいただいたので、漬け物とか炒め物とかにして美味しくいただきます!!ありがとうございます!
10年前のこの日私は2歳でした。
記憶はあまりありません。
母から聞いた話だと、地震が起きたのは母と私が買い物に行って帰ってきたあとでした。
その後、母は弟がお腹にいたので家族で祖父母の家に避難しました。
*
黙祷。被害にあった方々へ。
このことは忘れてはいけない。
そう思いました。
私の住む地域は何事もなかったけど、あの時はテレビをつけるごとに悲惨な現状を目の当たりにしていたのは覚えている。本当に忘れられない日でした。
今だから思えるのはなぜあの時は何も力になれなかったのか。他人事ではない、大変な出来事だったのに。
あれから10年、自分も周りも色々変わってしまって、この10年の中で忘れてしまったものは多くあっても、あの日だけは今も忘れていません。
あれからもう10年が経ちましたね。
東日本大震災と福島第一原子力発電所事故
今思えば恐ろしいなと、思います。
10年前みたいな被害がまた起こらなければいいのですが、、でも今は10年前の災害をもとに、その災害が起こったとしても、対処ができ、被害を減らしていくために自分自身考えていきたい。
怖いけど。 誰だって、だけど前を向いていかなければならないよね。