今日は東日本大震災の日です。
もし、地震おきたとき、生徒のあなたはどんな行動をとりますか?
僕は小さかったけど、揺れた後で、津波の映像がテレビに流れていたのは覚えています。愛知県の自宅にいましたが、めまいのような揺れがしました。
みなさんより、年上で東北とは関係ない場所に住んでいますが汗書き込みさせていただきました。
15年前、私は、高校2年生でした。学年末考査で早く自宅に帰りテレビを付けて見ていたところ「地震で大きく揺れています。」と聞こえてきて初めては、「大きい地震があったんだ」ぐらいにしか思っていませんでした。しかし、テレビから流れてくる映像を見るたびに「本当にこれは日本で起きている事なのか?」と福岡に住んでいる私は、揺れも被害もなかったので、そう思ってしまいました。
しかし、スクールオブロックのおかげで考え方が変わりました。
それは、震災後初めての放送で当時のやしろ教頭の言葉でした。
その日の最後の放送でやしろ教頭が「言わないとそのまま一度も思わないかもしれないからあえて言いたいんですけど、一緒に今まで過ごして来た生徒が多分死んでしまって、「僕は死んでしまいました」とその子達は掲示板には書き込めないからみんなずっと覚えてろとは言わないけれど夜が来たらたまにでもいいから思い浮かべてほしい」という言葉に一緒にこの学校に夜10時から12時まで同じ時間過ごしてきた生徒の子がもしかしたらと考えると震災を身近に感じられるようになりスクールオブロックがきっかけで震災に対しての考え方も変わりました。
スクールオブロックを聴いて聴いていなければきっと考え方は変わっていなかったかもしれないと思います。 長くなってしまいすみません
こんばんは。学校掲示板に書き込みをするのは約10年ぶりくらいかもしれません。
震災が発生した当時は中学2年生、着の身着のままで自宅から家族と車に乗り避難することになりましたが、その際に地震でめちゃくちゃになった自分の部屋から愛用していたiPodだけ見つけ出して避難しました。
家族も仙台にある自宅も無事でしたが、2週間程は車中泊をしていました。街頭は灯っておらず、何度も繰り返す余震にビクビクしながら車の中で過ごす夜はとても不安で、その不安を紛らわしたい思いで自宅から持ってきたiPodでラジオを流していて、その時にSOLを初めて聴きました。同じときにどこかで聞いている生徒へ向けて言葉をかけてくれていることが、先が見えず真っ暗で永遠にも感じる夜に寄り添ってくれているようで、支えられたのを今でもはっきりと覚えています。
避難生活が終わり、中学3年生になり人間関係が上手くいかなかったり、受験勉強をしている時もSOLを聞いて元気を貰っていました。SOLを聞いて好きなアーティストに出会えたり、バンドをやるきっかけにもなりました。
SOLは私に前を向かせてくれて、たくさんきっかけをくれる存在です。あの時も、今も、いつもありがとうございます。
今日は3月11日。
15年前の今日は大粒の雪が降っていました。
地元が東北のため、進学で上京した今も毎年3月11日は東北の地元で過ごしています。
今日も地元で黙祷を捧げました。
当時、私は年長さんでした。14時46分に大きな揺れを感じ、泣きながらお母さんに抱きついて急いで逃げました。
気付いた頃には電気も水も止まっていて、食べるものも暖をとるものもなかったため夜は車の中で過ごすことになりました。車の中ではラジオがずっと流れていました。今振り返ると、震災の時の唯一の救いはラジオだったのだなと思います。
私は怖くて不安でずっと泣いていました。
小さいながらにただ事ではないことを感じたのだと思います。
いつもと違う状況と続く余震、鳴り続ける緊急地震速報。緊張感がずっと続いていました。
しかし、夜10時を過ぎた頃だったと思います。
食べるものもなく車の中にいると、近所のおばあさんが声をかけてくれました。
「うちにおいで。暖かいし軽食もあるから。」と。
近所の方のおかげで生き延びることができました。
あの日の恐怖も不安も何もかも鮮明に覚えています。ですが、これは、人を思って動くこと、助け合うことの大切さを、私の人生に刻んだ出来事でもあります。
これからも震災の記憶と、助け合いの大切さを忘れずに生きていきたいと思います。
校長教頭こんばんは。
私は15年前の震災の日、小学生でした。あの日の記憶は、今でも覚えています。もう二度とあんな思いはしたくないです。内陸に住んでいるので津波はこなかったものの、ライフラインが止まったので大変でした。3月の東北はまだ寒く、何着も重ね着をしたり布団を何枚も重ねたり、数少ないカイロを使って暖をとっていました。その時、生後3ヶ月の弟がいました。お母さんはその子を守りながら揺れに耐え、私は2歳の妹の手を取りながら必死に身を守りました。そのことを考える度、今元気な姿を見ると嬉しい気持ちになります。祖父母の家は宮城の海岸にありました。幸い、家は高台に近い位置にあったので無事でしたが、周りの友人は津波に巻き込まれたそうです。おじいちゃんは電車で帰るはずの帰路を、1人線路を辿って何時間もかけて家まで帰ったそうです。
今日、15年前のニュースを沢山みました。心からお祈りして下さる方がいる反面、心無い言葉沢山見られました。正直悲しかったです。お祝いの日にしてはいけないんですか?と反発する人。ニュースを小ネタにしてくる人。そんな人が出てきてしまうことが信じられないです。沢山の災害がある中、この日を教訓にして守られたものも沢山あると思います。だからこそ、許せないです。もっと考えるべきことがあると私は思っています。
長文失礼しました。
私は当時、2歳でした。15年前の今日。私は、親に連れられ、5つ上の兄の小学校にお迎えに行くところに地震が起きました。当時のことはいまだに鮮明に覚えていて、小学校の近くの信号機の当たりで大きな揺れを感じました。小学校の近所の人たちから早く避難して!と声をかけられて急いで、家に避難しました。
あの日から15年。小さいながらも震災を経験した身として、絶対に忘れてはならない。伝えていかなければならないと思っています。そして、生きていることが当たり前ではないということを胸に刻み、毎日を懸命に生きていきたいと改めて思いました。
今日であの日から15年。
当時小学1年生だった私には、震災の記憶が残っていない。5歳離れた妹は覚えているのに。
覚えているからこそ今も苦しんでいる人がいることは重々承知している。
でも、覚えていないのもつらい。福島県でも中通りに住んでいるから、そこまで被害があったわけでもない。はず。
あの日の記憶を忘れないように、風化させないように自らを削って活動されている方もいる中で、私はどんな気持ちでこの日を迎えればいいのか毎年わからなくなる。ただただ申し訳ない。
東日本大震災発生当時、私は2歳半でした。
記憶はほぼないです。
両親に話を聞くことがたまにありますが、
子供向け番組はどこもやっておらず、
放送されているのは災害関連のニュースだけ。
CMも同じものが永遠に流れ、
子育ての面でも大変だった、と話していました。
自分自身、何度か地震を体験して、
すこしの揺れでも、震えて何日も眠れなくなりました。
東日本大震災は、それの何倍も大きな揺れ。
被災された方々の不安や恐怖は計りしれず、
想像できません。
学校では、発生時刻に合わせて黙祷をしました。
残っている映像をみる度、心が痛みます。
経験された方、まだ生まれていなかった方、
みんなで語りつないでいくことが大切だと思います。
被災した全ての方々に、
御見舞いとご冥福ををお祈りします。
校長、教頭、こんばんは。
今日で東日本大震災から15年が経ちますね。当時自分は1歳で、何があったかはもちろん覚えておらず、歴史上の出来事としての知識しかありません。ですがこの経験を後世に語り継いでいく立場でもあると思っているので、今日の授業を聞いていろいろ考えられたらなと思います。
震災からもう15年なのかと思ってしまいます。私が住む茨城も津波の大きな被害があり隣の町へ行けば津波で流されてきたトラックのコンテナ、そして道路は液状化でガタガタ建物は傾いていたところが多くありました。
先日私は思いつきで福島県の南相馬、浪江町に足を運んで見てきました。こんなに海の近くにはなにも建物はなく国道走っていると時が止まったままだったなと思った場所もあります。
家族を大事にする場所はこの被災地と呼ばれた場所を見に行くと絶対に思う!大切は場所は大切な何かを失った場所を見るとわかるそんな気がしました。
この次は熊本から10年これも絶対忘れちゃいけない日だと私は思ってます。
私は今学校の研修旅行で海外にいます。岩手の学校では内陸でも毎年3月11日14時46分に黙祷の放送があるのが普通です。研修旅行と被っていることはずっと気になっていましたが特に話が無く、一人で黙祷するわけにもいかないので心の中でだけしようと決めていました。
ですが今日友達と話していて、「今日震災だよね、黙祷できないのかな」という話になり、さらに私とその子だけでなく同じことを気にしている生徒が沢山いることが分かりました。結果、その場の全員で日本時間に合わせて方角へ一分間手を合わせたんです。一緒にいた現地の生徒にも説明すると手を合わせてくれました。
なんか心に残ってます。世代的にも当時は記憶がないし小中の黙祷もやらされではあったので、あの場の何人が本気で祈ってたかもわからないですけど、誰かが残した思いが報われてるのを感じて嬉しくなりました。
私は、東日本大震災の時はまだ1歳くらいだったのでほんとんど覚えていませんが、親から色々と話を聞きました。私は、東日本大震災の日はおばあちゃんの誕生日ということもあって山形にいました。そんな日に地震がおきました。山形も案外被害を受けたらしいです。そして、お父さんは11日も仕事があり、終わってから山形に来る予定だったのでお父さんだけが宮城に残っていました。お父さんはその頃仕事がちょうど終わり山形に向かう途中で地震にあいました。お父さんは職業柄地震があったら被災された地域に行く事になるのでまた仕事場に戻って被災された地域に行きました。そこから、半年くらいずっと家には帰って来ませんでした。そして、私達が宮城に帰った時に家はとてもすごい事になっていました。壁にはヒビが入り、テレビは倒れたり、家が傾いたりしました。そして今日私は、東日本大震災の式典のボランティアに参加しました。そこで震災を知らない子供達に震災の事を説明したりしました。私は、東北に生まれて東北で育ってきたからこそ、震災について勉強をしを経験していない方々にも伝えないと行けないとお父さんから昔から言われています。そのためあの日の事を忘れないようにし、あの日のような日がもう二度と起きない事を願っています。
2011年3月11日、私は大学のキャンパスで迎えました。春休み期間中、大学の売店で、新年度に向けての教科書の品出しバイトをしていました。その日もいつも通り出勤し、バイトメンバーと作業をしていました。作業中に、緊急地震速報とともに揺れ始め、次第に揺れが大きくなり、これはただ事ではないと思った私たちは、本来はやってはいけないのだけれど、凄まじい揺れの中、建物から走って脱出。揺れが収まって作業スペースに戻ると、自分たちのいた場所の天井が落ちていました。初めて「死ぬ」ということを感じた瞬間でした。当時、実家から大学に通っていたのですが、公共交通機関が止まってしまい、大学で一晩過ごすことになりました。避難所になった教室に友達もいて、本当に心強かった。硬い椅子に横になり、緊急地震速報がなるたびに建物の外に飛び出して、一晩を過ごしました。翌朝、大学が朝食として用意してくれたカップ麺の味が忘れられないし、無事に朝が来たことに安心しました。個人的に毎年、3月12日の朝は、特別です。この時期がくると思い出す授業があって、確か山口一郎先生と、とーやま校長・やしろ教頭が、泣きながら『上を向いて歩こう』を歌ってくれたことがありました。あとは逆電をした被災地の生徒さんに、今一番欲しいものを聞いたら「予約をしていた、RADWIMPSの『絶体絶命』」あの生徒さんは元気かな?まとまりのない文章ですが、いつどこで何が起きるかわかりません。今を生きていることを、大切にしてほしいです。
私は宮城県の沿岸部に生まれ育ち、被災した当時は6歳でした。卒園式間近のことでした。
3倍以上歳を重ね、年齢的には大人になって
今年も黙祷を捧げました。
発災当時はまだ幼稚園生で、余震が強く夜中におばあちゃんの腕の中で泣いたこと、子どもながらに津波の映像を見てすごく衝撃を受けたこと、すぐに近くの公会堂に避難できるように1階の台所で母と隣り合わせで眠った夜のこと、中学1年生のときに亡くなってしまった祖父が、車に不安がる姉と私を乗せて、「じいちゃんが絶対守るからな」と強い眼差しで励ましてくれたこと。
停電で何も人工の明かりがないなか、星はきらきら輝いていたこと、全部全部覚えています。
人生の半分以上を「復興後」の景色を見て育ったので、震災の前の景色を時々恋しいと思います。
パズルのように散らばった断片的な記憶ですが、絶対に忘れずにこの日のことを伝えていきたいです。
今日も生命が誕生したり、天国へと向かう生命もあります。
震災を経験してからは、いのちのことを沢山考えるようにしています。
私の周りは奇跡的にみんな無事でしたが、
そうではない人ともこれまで沢山接してきました。
友人の中には、震災で身内を亡くした方もいます。
皆さんへ
今ある幸せを、大切にしてください。
今ある普段の日常を、大切にしてください。
震災が起きたとき、私はまだ生まれていません。だから震災当時の景色はテレビでしか見たことがありません。でも幼稚園の頃から震災の話はずっと聞いてきました。両親は震災のとき親戚で集まって新潟に逃げたそうです。先生は卒業式の準備をしていたという方や下校する生徒を見送ったばかりだったという方もいました。小さい頃はよく理解できていませんでしたが、大きくなるにつれ、震災がどれほど大変で悲しい出来事かわかってきました。
そして2022年3月に福島県沖地震がありました。緊急地震速報の音で目が覚め、咄嗟の判断で布団に潜りました。今まで経験したことないくらい大きな揺れで、家が壊れるのではないかと錯覚したほどでした。揺れが収まってから家族でリビングに集まりましたが、ずっと怖くて震えていました。でもきっと東日本大震災はもっと大きな揺れでそれに加えて10メートルの津波がきました。その時、震災にあった人たちがどれだけ怖い思いをして震災後を過ごしていたのかを本当に知ったような気がしました。それでもまだ理解しきっていない部分があるかもしれません。
福島県は原発事故の影響でまだ避難所で生活を送っている人がいます。その人たちに一刻でも早くいつもの日常が戻ってくることを祈っています。
校長、教頭、こんばんは。今日で東日本大震災から15年ですが、私は当時5歳で、保育所にいました。今日は家族から聞いた話と震災でも強かったとあるものの話をしたいと思います。
私は14時46分、地震発生当時は保育所で昼寝中でした。昼寝中の地震であったため、自分だけでなく他の人たちも布団をかぶって怯えていました。
その頃母は、自分を迎えに会社から車で向かっている途中でした。しかし、保育所到着直前にして、津波がすぐそこまで来ていて、車をバックして母は少し高めの小さな階段に避難しました。すると波は時間が経つにつれて徐々に高くなり、最終的に車は窓のあたりまで浸水してしまいました。そして母は近くを歩いていた自分の友達の父と保育所の中まで行き、奇跡的に会えました。
父は新しい家の設計を当時の祖母、そして住宅会社の1人と構想を考えていましたが、その後地震が来て、父は自衛隊であったため、すぐに救助に向かわなければならなかったため、すぐに出動しました。もちろん自分は状況を分かっていないため、母が来る前は、「もう会えないのか…。」という悲しさしかありませんでした。
そして震災を乗り越えたとあるものというのは、自分がいつも乗っていた路線「仙石線」のとある車両です。その車両は、東松島市にある野蒜(のびる)駅を発車後に緊急停止しましたが、なんと奇跡的に津波の被害を一切受けることなく無事でした。仮に、津波の勢いがさらに強かった場合はその車両は飲み込まれて悲惨なことになっていたので、まさに奇跡の電車だなと思いました。
これらの教訓は後世に語り継がれるべきであると思います。もう二度とこのような災害は経験したくないと改めて感じました。そしてこれからも前を向き続けます。
東京に住んでいるのですが震災当時
LINEも普及しておらずメールと電話のみだったので
青森にいるおばあちゃんや親戚と何日も連絡が取れず
とても心配で涙が止まりませんでした。
テレビをつけた時の衝撃今でも覚えています。
15年前は中学2年生だった私も今年で30歳になります。
何年経っても忘れてはいけないし
将来子供がうまれたら語り継いでいきたいです。
「前編」の続き。
例えば、敵は“闇(作中では黒い霧のように表現される)”とともに街に襲来し、あっという間に街を“闇”で飲み込んでしまったりします。
また、“闇”に飲まれた街は外部から認識されなくなり(=地図から跡形もなく消えたようになる)、“闇”に飲まれた街の中や街の住民は文字通り時間が止まったような状態になる描写がされています。
さらに、敵の侵攻によって主役陣営の“レインボーライン”の線路が“寸断”されたり、“烈車”が行方不明になっていたりもします。
他にも主人公たちは“闇”に“故郷”を“奪われて”、“故郷”に帰るために“烈車”に乗って旅をしていたり、主人公たちの故郷の名前が“昴ヶ浜”とどこか“海沿い”を思わせるものになっていたりもしています。
…と、どことなく放送の3年前に起きた出来事を思わせる要素が散りばめられているんです。
あと物語最大のネタバレになるので詳しくは言いませんが、主人公たちに隠された大きな“秘密”も“震災”の“傷跡”を思い起こさせるようなところがあります。
そういうわけで、「トッキュウジャー」もまた、“震災”の影響を受けて作られた作品であると考えることができるんです。
ただ“鉄道”モチーフは「トッキュウジャー」のメイン脚本家が過去に手がけた「仮面ライダー電王」でも使われていて、「トッキュウジャー」自体登場人物の立ち位置が「電王」と重なるところもあるので、全て“震災”の影響でああなったというのは無理があると思います。
まぁ“震災”以降に作られたアニメや特撮は意識・無意識問わず“震災”の影響を受けてしまっているとはたまに聞くので、「トッキュウジャー」は無意識のうちにそうなってしまったのかもしれません。
まぁもし“意識してやっていた”としても、そんなことは口が裂けても言えないと思いますがね…
そういうわけで、「烈車戦隊トッキュウジャー」と東日本大震災が関連しているかもという個人の考察でした。
あくまで“個人の考察”だから、気にし過ぎないでね。
あと今YouTubeで「トッキュウジャー」の配信をやっているから、興味がある人は途中からになるけど観てみて。
後悔はしないから。
私は震災の日、一歳だったので記憶はありません。しかし自分があの日どのように過ごしていたかは何度か聞いたことがあります。
私は母と市外にお出かけに行っているときに地震が来ました。地震はそこまで大きくは無かったものの、ライフラインが止まっていたため家に帰ることが難しく近くの母方の実家に避難しました。そのとき、おばあちゃんが私や母・親戚がご飯で困らないようにお店に駆け込みおにぎりなど食べやすいご飯を買ってきてくれました。おばあちゃんは普段からおしゃべりでお店の人とも仲が良かったことでご飯を買うことがまだ出来たそうです。「食べ物をたくさん買うこと」がその当時100%良い行動だったかは分かりません。もしかしたら、慌てて買う人がたくさんいたから食べ物がなくなったのかもしれません。(山形県は被災後、多くのスーパーやコンビニの食べ物がなくなりました。)しかしこの行動を良い悪いではなく「事実」として記憶しておくことが、何か次に繋がられるきっかけになるのではと思っています。また父方のおばあちゃんも普段の関わりのおかげで近くのガソリンスタンドでガソリンを獲得できたそうです。
とはいえこの話を聞くと、どれだけ普段の関わりがいざとなったときに力になるのかを感じさせられます。おばあちゃんのように積極的に関わることはできませんが、ゆっくりでも地域との関係を作っていきたいです。
今日の授業で聞く言葉が記憶のない私たちが知る「きっかけ」となりますように。
今日で、
東日本大震災から15年が経ちますね。
あまり自分のことは事細かに書くことはないのですが、
今年は特に思い入れが強いのでここに書き残そうと思います。
当時のわたしはまだ小さく、
祖父の家にいました。
当時のことは今でも鮮明に覚えています。
たくさんのものが崩れ、
壁にかけてある絵が落ちてくるのではないかと不安でした。
内陸に住んでいるため、
津波の被害に遭うことはありませんでした。
ですが最近、
被災地へ足を運ぶ機会がありました。
当時の鮮烈な説明に、
心が酷く痛みました。
津波を経験していないわたしは、
自分が思っているより被害はとても大きく、
人々のかなしみは大きいのだと知りました。
地震と隣り合わせの日々。
最近は小さい地震が頻繁に起こっていて、
いつまた大きな地震に見舞われるかわかりません。
だからこそわたしたちは被災した方々へ祈りを捧げながら、
日々を歩いていくしかないのかもしれません。
明日を生きる人が、
少しでも笑っていられるように。
そう祈りを捧げながら、
わたしは今日も歩いていきます。
震災のとき1歳でした。お母さんによると、食料を求めてスーパーに行ったら長蛇の列で、僕はその中で大人しく待っていたそうです。当時の記憶はありませんが、聞けるうちに親や経験した人から、どんなことがあったのかを教えてもらいたいです。もう15年も経ってしまったんですね。
毎年思ってて、もちろん今年も思ってること。
音楽って年齢関係ないし、それぞれが奏でてる音や歌詞などこころに響くものがあるし感じるものがあるなって。音楽の幅ってめっちゃ広いなって感じる。演奏してる音、歌声とかから、楽しそうにされてるのがめっちゃ伝わってくる。純粋にすごいなぁって思う。私もいろいろ挑戦してみよう、楽しもうって思える。
こもり校長 アンジー教頭こんばんは
僕は1歳になる10日前に地震が起きました
青森県は雪が多く寒い地域なので避難所に逃げる際もとても寒かったと親から聞いています
それにまだ赤ちゃんなので住民の皆がストーブの近くにと気を使ってくれたことも聞きました
僕の地域は津波被害は大丈夫でしたが揺れはそこそこあったと聞いています
この出来事はしっかりと語り繋いでいかないといけないという事を大事にしています
近年は南海トラフや千島海溝など大きな地震が起きると色々言われているのでこの機にみんなで備えをしっかりしておきましょう
私は熊本に住んでいて、ちょうど熊本地震が起きた時私は、小学1年生で入学して3日経ったことでした。それは4月の話。今日は東日本大震災。私の父方の祖父母は岩手県の海側に住んでいて歩いていたらすぐ海が見えるような所に住んでいます。地震当時のことを母から聞くと「連絡はつかない。でも、ばあちゃん家は少し高いところにあったからまだ大丈夫だった」と聞きました。2年前兄弟だけで岩手に帰りました。何もかも私の記憶とは全然違ってびっくりしました。道も変わっているし、防波堤も変わっている。変わってないのは家の中だけ。父の小学校も流されました。でも、ばあちゃん家の家の近くに海水を被っても生き続けている自然の木があります。ポプラの木と呼ばれてるそうです。今日学校で黙祷を捧げました。今年また岩手に帰ります。
こもり校長、アンジー教頭こんばんわ。
震災の日自分は、2歳?3歳ぐらいでした。
東北にはいなかったんですけど、親が言うには、
揺れを察知したのか、ずーっとしゃがんでたらしいです。
自分はほんまちっちゃかったので記憶は無いですが。
そのあとに、スマホでめっちゃおっきい地震やったって
気づいたらしいです。
東日本大震災から15年。そのとき私は生まれていませんでした。ですが、私のお兄ちゃんが生まれた年でした。2月の終わりごろ生まれたお兄ちゃんは熊本で生まれ、お母さんの実家でおばあちゃん、おじいちゃん、お父さん、お母さんそしてお兄ちゃんと過ごしていたそうです。生後2ヶ月経ったころの3月11日、突然地震が起きたそうです。テレビを見るといつも綺麗で青く輝いている東北の海が全てを飲み込んでしまう黒い津波になっていたそうです。元々当時津波警報が出ていた高知に住んでいたお父さんとお母さんは出産の為に、熊本へ来たので、守られたと話していました。私が小学校のころ、当時東日本大震災を経験した小学生の作文や、お話を担任の先生が話してくれたり、当時の映像を見たりしたことがあります。ほんとに怖くて、足の震えが止まりませんでした。学校から帰ってその事を話して、週末などで、家族で出避難所を決めたりしました。
高知にも南海トラフ地震がくると言われていて、その南海トラフに備えて、防災意識を高め、避難所とかでもボランティアができるようにしたいです。
今日は3月11日です
東日本大震災から15年経ちました
職場の後輩と話してたら当時は中学生だったと言ってたので、時の流れを実感します
発生当時は19歳で社会人1年目でした
工場で測定作業してた時だったけど、2分程の縦揺れで地震酔いしました
休憩室のTVで見た津波が現実に起きてることと受け入れなかったです
2週間仕事が休みになったり、計画停電の影響で土日に仕事したりと忙しく過ごしてました
それでも聞き続けてたのがこの番組です
当時はとーやま校長とやしろ教頭でした
BUMP OF CHICKENのメロディーフラッグを流したりガラスのブルースの弾き語り、サカナクション山口一郎さんの上を向いて歩こうを泣きながら歌う等覚えてます
一時期は震災直後や関連した授業の録音を聞いてました
20代からは東北に3回行きました
宮城県の仙台空港近くにある千年希望の丘では津波10m地点に記念碑やベンチが置いてあり、家があった場所が広い公園に変わってる現実をみました
福島県いわき市のマリンタワーから海を眺めたり小名浜港から花火大会を見る、片平里菜さんの10周年ライブで猪苗代湖から磐梯山をみて波音や夕日など自然に癒されました
辛いこともあるけど、前を向いて歩いていきたいです
僕は震災の日は秋田県にいました。
当時は、一つ下の階の友達の家で遊んでいたところでした。
テレビはミヤネ屋を付けており、今時のガキンチョっぽくリビングらしきところにあったソファーをトランポリン代わりにして遊んでいた記憶があります。
断水はなかったものの、停電が起こったため水がタンクから蛇口までは電気がないと送られてこない仕組みであったことから僕の母親が地上の蛇口まで給水をしに行くために1Fから4Fまで何度も往復をしていたというお話を聞いたこともあります。
また、母親の実家が太平洋側に位置しており、地震も僕が住んでいた場所よりもとてもひどかったそうです。また、祖父がその都度くる余震に吐きそうになったという話をしてくれたことも覚えています。
自分がちょうど高校受験をするときにもがっつり地震がきたのですが、その時が自分が記憶している中で1番強かった覚えがあり、その後起こったちょろっとした地震が連鎖したことで、少し気分が悪くなりました。祖父が言っていたことは、まさにこの事なんだなとも思いましたし、改めて自身の脅威を知った瞬間でもあります。
そして昨年お世話になっているNPO法人で、宮城から福島の沿岸部にかけて震災関連の学習をしてきました。
実際に沿岸部の市や町を訪問してみて、過去に自分が新聞で見てきた光景よりを遥かに上回るほど街が発展しており、震災がなかったものではないかと思わせています。
このような出来事があったということは絶対に後世に伝えていかなければならないものだと僕は思いました。
今日、自分は中学校を卒業しました。
あっという間の三年間でした。式の最後の合唱では、RADWIMPS先生の「正解」を歌いました。
昨日宣言した通り、写真を撮りまくれたのでよかったです!
そして、今日は日本が忘れてはいけない日。自分は生まれたてで記憶がありませんが、この災害のことをもっと知って、防災対策に繋げていきたいと思っています。
3月11日ですね。
15年前自分が東京でなにを見たのかについてはまたあとで語るとして、今は「震災」と「烈車戦隊トッキュウジャー」の話をしようと思います。
ただ前置きしておきますと、この話は一個人の“考察”なので「そう考える人もいるんだ〜」程度で流してくださいね。
では本題。
「烈車戦隊トッキュウジャー」は2014年〜2015年に放送されたスーパー戦隊シリーズ第38作目(多分)で、“鉄道”をメインモチーフにした唯一の戦隊です。
ざっと説明すると「“闇”によって街に襲来し、街やそこに住む人々の存在を忘れさせたり認識できなくする勢力“シャドーライン”に対抗するため、“シャドー”の侵攻によって故郷を失った幼馴染5人組が、“イマジネーション”によって走りなぜか子どもにしか認識できない“烈車”を運行する勢力“レインボーライン”のヒーロー“トッキュウジャー”に変身して、“シャドーライン”と戦いつつ“烈車”に乗って故郷に帰るための旅を続ける物語」です。
登場人物たちの性格や物語の雰囲気がコミカルで子どもっぽいところがあるため、リアタイ当時は大きいお友達から敬遠されている節があったそうですが、実は序盤から伏線が散りばめられていて終盤はかなりショッキングな展開が起きたりと大きいお友達の視聴にも十分耐えられる作品となっています。
…で、自分含め我が家の人々はそんな「トッキュウジャー」を(最初から最後まで観たわけじゃないけど)リアタイ当時から気に入っていて、自分は最近になってYouTubeでの公式配信で全部視聴しました。
しかし、この作品の2年前に放送された「特命戦隊ゴーバスターズ」が“東日本大震災”の影響で“シリアス”なストーリーになった、という話を聞いてからふと思ったんです。
「トッキュウジャー」もまた、“震災”の影響でああいう話になったのではないか?
正直、ネット上でそういう考察をしている人は見たことがないのでただの憶測みたいになりますが、「トッキュウジャー」は「ゴーバスターズ」とメインの脚本家が同じで、放送時期的に“震災”に近いため、考えようによってはそう捉えることもできるのでは、と思ったのです。
とても長いので「後編」に続く。