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なまいとつむぎ #1

きこきこ、きこきこ。
私は生糸を紡ぐ。
そう、見えない布を創るために。


ノスタルジックな気持ちの時ほど出かけたい時はない。
足は自然とペダルを踏む。
その時私はこう思うのだ。
はるか先まで見える直線の線路を見たい、
誰もいない田園の稲穂に囲まれたい、
河川敷で自分の住んでいる街を見たい、と。

当然、
直線の線路を見たからと言って、
稲穂に囲まれたからと言って、
街を眺めたからって、何かが起こるわけじゃない。
そこに言った時に思うことは一つ。

ああ、来るところまで来てしまったな。
それだけである。

達成感と言えば片付くのだろうか。
否、それはきっと違う。
私が自ら体験したかったのは達成感等ではなく、
時間という名の虚無感、それにつきる。

時間というのは幾つものレイヤーの重なりだというのは自明の理であろう。
私はその景色にきっと死んでしまったレイヤーを見つけようとしているのだろう。
もし時間というモノを死んでしまったレイヤーの重なりと定義するならば、死んでしまったレイヤーを確認できない時間とは、そのレゾンデートルを満たしていないということだろう。

つまり、私はそのノスタルジックな気分に動かされ見に行く景色に、今を生きる時間のレゾンデートルを求めているのである。

しかし、私は何処かで真逆の思いを求めてはいないであろうか。
つまり、
そのレイヤーが生きているという期待である。

何処かでこんな話があった。
『もし、亡くなった家族が居たとして、その家族が急に朝に「やあ、元気かい?」ってドアを開けて来ても私達は何の違和感も感じない。
つまり、私達は心の何処かで諦めとともに叶うはずもない願いに無意識に期待しているのだ。』と。

私は期待しているのであろうか。
もし期待しているならば、私は先に定義した時間が壊れることを望んでいるのか。
私はそれに、イエスともノウとも応える。

此処で私は筆を置くことにする。
後は君たちが考える番だ。