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境界線 Ⅱ

 何故、生徒のいない三階を通ってはいけないのか。

 気になったので確かめることにした。
十中八九規則を遵守させるためだとは思うが、注意され行動を規制されたことに対する反抗心もあって、確認というよりもそういった目的の方が大きかった。

 時刻にして五時四十五分を回ったところ。四階から西階段を下りて、図書館前まで来た。
 怖くはなかった。強がりではない。本当に怖くなかった。それどころか楽しくなってきた。薄暗い廊下。橙色に輝く斜陽。通ってはいけない場所を通る背徳感。その中で廊下を一階分、ただ突っ切るだけだ。微少の高揚感以外に特筆すべき感情はなかった。
 歩いている途中、やることもないので惰性で教室内を覗く。
 案の定人はいない。教卓と幾つかの机と椅子が端に寄せられている空き教室と、特別支援学級の教室がおおよそ交互に並ぶ。特別支援学級の教室も普通学級より少し賑やかな印象があり、机が五つ程度であること以外に目立った差はなかった。
 各教室には空き教室以外はクラス名が書かれた札が掛かっている。特支1、空き、特支2,空き、ランチルーム、特支3,空き、特支4、特支5……順々に見送り、遂にあと空き教室一つを過ぎれば東階段というところまで歩いてきた。これはかつて特支六組だったところだ。
 特に面白いこともなかったかと思いながら、最後の空き教室の中を覗く。
 他の空き教室と同じく殺風景なものだったが、少し違う点があった。
 黒板の左端の方。黒い影がそこにあった。
 よくよく目を凝らしてみると、それが何なのかが分かった。

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境界線 Ⅰ

 いつからか、自分には霊体なのだろうか、怪異というのだろうか、分からないが、そういった異質なものを見る能力があることに気が付いた。ただ、知覚したり意思疎通したりできるが、それ以外のことはできないらしかった。こういうものを『観測者』というらしい。
 また、この能力には個人差があるらしく、まだ能力対象が同じである者に出会ったことはない。これによって孤独を感じることもしばしばある。異能を持つ者が近くにいればいいのにと思うこともある。ただ、他異能、他位階どうしが同じコミュニティの中で生活していれば、胸糞悪い場面に遭遇してしまうことも有り得る。だから本当は、会わなくていいように世界がなっていれば良いし、そう思うようになっていれば結果的には幸せでいられるのだ。
 この度は、そういった異能に関する奇妙な体験をしたのでそれについて書こうと思う。

 まずは予備知識として、私の在籍する中学校について説明しよう。
 校舎は四階建てで、一階には特別教室があり二階には昇降口と職員室、PTA室、会議室などがある。三階には図書室と、元は普通学級の教室だったが、生徒数が減って使わなくなった教室と、特別支援学級の教室が連なっている。そして四階に音楽室と普通学級の教室がある。
 この内問題なのが三階である。
 この階は基本的に通ってはいけないことになっている。西、中央、東側にある階段と、図書室以外の利用は禁止だ。入学した当初、「三階の特支の中には人に会うのが苦手な生徒がいるのだ」との説明を受けた。
 ある日の帰り際、図書館を利用した。帰る時、図書室に一番近いのは西階段だったが、中央階段から降りた方が昇降口が目の前に来て昇降口が近い様な気がする。先生が図書室にいたものの、生徒はもういなかった。だからその程度の軽い心持で三階の廊下を通ろうとした。
 その時、後ろから声が掛かった。
「駄目だよ、特支の方通っちゃ」
 振り向くとそこには図書室から出てきた国語科教員小木がいた。
「何故です」
「通ったら駄目って言われたでしょ」
「生徒がいないから大丈夫だと思いました」
「駄目なんだよ」
「そうなんですか」
「そう。だから帰るよ、ほら」
「分かりました」

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輝ける新しい時代の君へ Ⅲ

その後、思い付いたように「そういえば坊や、時間は大丈夫かな」と尋ねた。随分高くにある、公園の時計を見上げるとそれは九時を指そうとしていた。
「あ、そろそろおばさんち行かないと」
「そうかい、じゃあ俺も帰るかな」
「うん」
 ベンチから飛び降りた少年は間もなく走り出し、公園を出ていった。その時に後ろを向いて「じゃあな」と手を振った。穏やかにゆっくり男も手を振り、「後ろ向いてると危ないよ」と微笑みながら注意喚起した。


 翌日、その日も少年はいつもの公園のベンチに座って空を眺めていた。この日は快晴で、空全体が朝日に照らされて白く光っていた。風は穏やかで、少し暑い位だった。
 少年は昨日出会った男を気に入っていた。 
 話が特別面白かった訳ではないが、自分を『可愛がっている様に見える』だけの大人ではないことが嬉しかった。自分の様に静かだと、子供の相手をしたい大人にあまり好かれないことは既に知っていた。しかし感情が表に出にくい。
 こんな幼児が人の心の内などを、所謂『察す』ということができるのかと思うだろうが、子供は案外と、人の胸中を見透かすのが得意だったりするのだ。全ては理解していなくとも雰囲気で分かる。
 そんな自分に純粋に楽しそうに話しかけてくれたことが嬉しかった。
(おじさんまた来るかな)
そう思っていると、
「よっ」
 白い天を写す瞳に望んでいた男の顔がいたずらっぽく笑った。少年も「よ」と返した。

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輝ける新しい時代の君へ Ⅱ

「よくわかったな。ぼく男って」
「そりゃ分かるさ。俺も子供ん時着せられてたから」
 男は苦笑いした。
 それもその筈だ。よく分からないまま女の格好をさせられるのだから。
 その時の少年も桜色の、春らしいワンピース姿だった。不快に思ったことはなかった(むしろ気に入っていた)が、他の子供とは違うことは周りを見れば明々白々だった。
「坊や、何で女の格好させられてるか分かるかい」
「しらない」
「そうだよなァ、俺も自分で調べて知ったんだけれどね、あのね、子供は七歳までは神様の持ち物なんだって」
「へえ。それじゃ神さまにかえさないとな」
「その通り、頭がいいなァ。だから昔は7歳までは子供が死んでも文句は言えなかったんだ」
「でもぼくのいえのちかくの子はみんな生きてる」
「アア、そうだよ、それはね君、今は医療技術が発達して平和になって、幸せになったからなんだよ。つい50年前は十分な食べ物が無くて、病気にかかってもまともな治療なんて受けられない人も多かったからね」
 男は少年がよくするように空を見上げる。ぼうっと、何か特定のものというより空全体を見ているようだった。しかし彼の眼は空をも見透かし、その向こうの何かに思いをはせるようだった。
 少年もしばらく男を上目で見つめて黙る。
暖かい風が間を通って、男は一瞬目を伏せた。少し寂しそうな表情にも見える。その時の少年には分からなかったが。少年が「なあ」と呼び掛けると男は意識を取り戻したようにヘラヘラ笑った。やっぱりまだ寂しそうだった。
「何だい?」
「つづき」
「アア、ごめんごめん。
 それでね、7歳まで子供を女として育てると、体も丈夫になって長生きできるんだね。だから女の格好させるんだよ。おかしいよね、だってもう神様にとられることないのに女の格好させる必要ないもの。ご先祖さんはそんなに子供亡くしたのが悲しかったのかな」
「ぼくはべつにいい。みんなとちがくてへんだけど、かわいいのすき」
「ホント?俺はそんな好きじゃなかったなァ。俺はね、こんなヒラヒラのじゃあなくてね、着物着せられてたよ。可愛いのだけれど動きにくいのだ。見たことある?」
 少年はコクっと首を縦に動かした。
「おばさんちの本で見た」
「そっかぁ。坊やは物知りだねえ」
 男は感心して喜色を浮かべ、満足気にウンウン頷いた。

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輝ける新しい時代の君へ Ⅰ

今からする話は、まだ幼かった少年と不思議な男との些細な出会いの話だ。


 少年はまだ幼稚園に通う程の年齢だった。しかし、貧困する程ではなかったが、家計に余裕はなかった。両親も共働きで幼稚園や保育園に通わせることを望んでいたが、本人に通う意思がなかった。親の方も通園費を考えると、子供の決断には好意的だった。こんなことで教育を諦めることには抵抗と罪の意識を感じていたようだが、内心安堵していたのも確かであった。だから両親が働いている間は、母親の姉の家で過ごした。
 少年の祖父は東京の有名な大学に通っていたので娘たる母親とその姉も学があり、少年に様々なことを教えてくれて、少年は彼女のもとに行くことが好きだった。彼女も子供が居らず、少年が幼稚園にも保育園にも行かないと聞いて、自分から預かると名乗り出たそうだ。

 少年は、彼女の家に行く前に自分の家の近くにある公園のベンチに座って、ぼうっとして空を眺めることが好きだった。朝の30分だけ、誰も居ない、静かな公園で、ゆったり流れる雲を見ながら呆然とする。
 余談だが、こういった子供らしくないところもあり、少年はあまり大人に好かれてはいなかった。きっと子供にも好かれなかっただろう。

 ある日和良い春の日。 
 その日も少年は何を考えるでもなく、足をユラユラさせていた。
 すると、
「おはよう、坊や」
 柔らかい男の声だった。周辺に少年以外の人間が居ないので、自分に向けられたものだと思い、少年は声の主に目を向けた。
 男は、祖父が着ていたような服を着ていた。祖父の若い頃の写真を見た時変な格好だと思ったので、男のことも同様に変だと思った。しかし不思議と嫌な感じはしない。同時に、既視感があった。
「おはよ」
 挨拶を返すと、男は人当たりの良い笑みを浮かべて「隣いいかい?」と訊いた。少年はこくりとうなずく。
 明らかに不審だったが、この時の幼い彼はこの人は誰なのか、程度にしか思っていなかった。

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8月15日の縁側 Ⅱ

「あっはははは!くにあき下手くそ!」
「ううう、今のものは難しいね……」
「ずーっとあったよ」
「俺の時はなかったよ」
「えーうそだあ」
「本当だよ」
 そんな他愛もない会話をしていると、「今帰った」と不愛想な男の声と共に、後ろの障子が開いた。
「あ、おとーさんおかえりー」
 少女の父親、睦葵だ。オリーブ色のTシャツにジーンズという、ファッションに無頓着な彼らしい服装だ。
「誰かと話していたようだった。友達でも来ていたか」
 睦葵は表情一つ変えず、仏頂面のまま娘に尋ねた。別に怒っているわけではなく、それは少女も邦明もよく分かっていたので気に留めず、質問に答える。
「ううん。くにあき来たの。まえ神社行ったときに会ったでしょ?」
「……そう、らしいな。だが僕にはもう見ることができない」
「なんでー?」
「……僕は、深層のものを見るには様々な経験をし過ぎた。それに、もう多角的な視点を持つことは難しい。固定観念を知り過ぎた」
「う?こてー……?」
「あ、え、ごめんな、難しい話をした」
「うん。むずかしーのあたし苦手ー。どーゆーこと?」
「そうだな……ええと、取り敢えず、邦明さんは今は居るのか」
「いるよ。さっきジュースまいた」
 少女は邦明を指した。勿論睦葵には見えていないが、そこにいることはよく伝わった。
「そ、そうか。毎年来ているのか」
「毎年じゃないよ。今年が初めて」
「なんだ、三十年も経つのにまだ一度も来ていなかったか」
「う?」
「いや、何でもない」
「そう?」
 その後睦葵は三秒ほど考えた末に、こう伝えてくれと少女に告げた。
「『じいちゃん、ありがとう。取り敢えず今は楽しいから。心配しなくていい』って」

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8月15日の縁側

 あれから七七回目の夏。日本で戦争が終わってから、日本が戦争で負けてから七七回目の夏。
 蝉の声がやかましく響き、草木は深緑に萌え、蒼天に輝く太陽は地上を焼かん勢いで照らす。少女は縁側でくつろぐ。
 何という事はない、いつもの夏。
 しかし今年は少し違った。
「いやあ、今年も暑くなったみたいだねぇ」
「あづいよー。くにあきはあつくないー?」
「全然。俺もう死んでるから、外のことは関係ないんだね」
「ええーずるいよう」
 今年は曽祖父、邦明が遊びに来ている。七七年前に内地から遥か遠く離れた土地で戦死した曽祖父だ。陸軍の第一種軍装に身を包んだ、敵意の全く感じられない優しい顔の男だ。
 彼は仏壇に供えてあった缶入り桃ジュースを手に、少女の隣に腰掛けている。手にしていると表しているが、正確にはそれは缶の魂で、実際の缶を持っているわけではない。ただ、魂のみの、つまりは幽霊になったそれを飲むことはできる。仏壇に置いたものが何か物足りないような味になるのは、この為である。
 今年の春に小学校に入学した少女も、同じく仏壇のパイナップルジュースを手に、細かい花柄のワンピースをひらひらさせながら素足をばたつかせる。こちらは本物の缶ジュースだ。
「そうだ、睦葵…….父ちゃん居るかい?」
「んー?いるよー。さっき山のおはか行ったー。あとちょっとでかえってくるよ」
「そうかい」
「うん。でもあたしも行きたいって言ったけど、あついからまた今度だって」
「そうだね」
 会話をしながら少女が邦明の手元を見ると、缶のつまみを本来と逆の方向に引っ張っていた。少女は不思議そうに、教えるように自分の缶を見せながら開けた。邦明はバツが悪そうに笑って開けようと試みた。が、
「おわっ!」
挑戦むなしく開けた時の衝撃で中身を盛大にぶちまけた。中身は三分の二ほどに減り、袖を濡らす羽目になった。

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傷痍軍人さんと少年 Ⅱ

 私は残念に思って、一緒に外を見ていた。その汽車は川に沿って山を下っているんだ。車窓から外を覗くとすぐ近くに川がある。それを見ると……
「わあっ」
 なんとだな、川が上向きに流れていたんだ。
「ここの川は上向きに流れていくんだね」
 私は驚いて、思わず傷痍軍人さんに言った。
 すると、あの人は少し笑った。
「そりゃあ面白いね。でも、上向きに流れているわけじゃないんだよ。川が流れるより汽車が走る方が速いから、逆流しているように見えるだけなんだよ」
「そうだったんだ。変だけど面白い」
「それは良いことだ」
 傷痍軍人さんは満足げに頷いて、私の頭をがしがし撫でた。それから立ち上がって、
「そうやって、何でも面白がってみるといい。すると、世界は広がるんだよ」
と、そう言った。
「広がる?」
「そうだよ。じゃあ僕はここで降りるよ。これからいろいろ大変だろうけど、頑張るんだよ」
 それで、傷痍軍人さんは汽車を降りた。
 私はこの時はまだ小さかったからな、傷痍軍人さんが言っていたことの意味は、実はほとんどよく分からんかったよ。
 でも、あの人に出会った記憶は、何十年経っても、不思議と忘れることはなかったのだ。

 エ?言っていたことの意味?さあ、何だろうな。考えてみるといいさ。分からない?ああ、泣くな泣くな。もう少し大きくなったら分かるようになる。
 なんでこんな話したのかって?
 これはな、伝言なんだ。だから話した。
 サア、これからはお前が頑張る番だ。

                                            終

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傷痍軍人さんと少年 Ⅰ

 私が小さかった頃の話をしてやろう。お前は今いくつだ?エエ、五歳?だったらお前くらいの年だよ。

 私の生まれた家のすぐ近くには川があって、川沿いを鉄道が走っていたんだ。
 いつだったか、私はお父さん……お前のひいじいちゃんと一緒に鉄道に乗った。黒くて不愛想で、お前の身長よりずっとずっと大きくて、かっこいい汽車だ。でも、修理が終わっていなかったもんで全身傷だらけの汽車だった。
 私とお父さんが乗った、一番前の車両の座席には、傷痍軍人さんが何人か座っていた。傷痍軍人ってわかるか?戦争で立派に戦って傷を負った兵隊さんたちだ。かっこいいぞ。
 私は、一人の傷痍軍人さんの前に座った。顔に大きな火傷の跡があって、右腕を吊っていた。窓際に松葉杖が立ててあって、足も悪くしているようだった。
「こんにちは」
 私は言った。私は軍人さんと話がしたかったのだ。その頃軍人さんってのは子どもたちの憧れの存在だったものだ。軍人さんになって鉄砲持って、敵を沢山やっつけるぞって、本気で思っとったのだ。そんなような人たちだったから、私はいろいろと話したかった。
「こんにちは」
 傷痍軍人さんも挨拶してくれた。
「その怪我は、戦ってきた怪我?」
「そうだね。遠い、南の方まで行ってきたさ。そこで敵の軍と当たって、このざまだ」
「かっこいい。内地を守るためにした怪我でしょ?」
私は目をキラキラさせたよ。だけどね、傷痍軍人さんは窓の外、それも、ずっとずっと遠くに目をやって苦笑いした。
「どうかな。今は……もう分からんね」
そう言ったきり、窓の外をぼうっと眺めるだけで、私に話しかけてはくれなかった。
 私は残念に思って、一緒に外を見ていた。