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輝ける新しい時代の君へ Ⅺ

 遂に男は来なかった。
 この時は何か用事があったのだろうという持ち前の楽観的観測によって、男には会わないまま帰っていった。
 しかしこの日から、男はいつまで待っても来ることはなかった。降り続く好きな筈の雨も段々と重く圧し掛かるようになった。態度にも顔にも表れることはなかったが、少年は自分が思うより残念に思っていた。
 雨が嫌いだから来ないのかと一瞬思ったが、何も言わずに来なくなるなんて、そんなことを彼がするはずがないと確信していたので、仮説はアッサリ頭の中から排除された。それとも彼の身に何か不幸があったのではないか。
 不安は日に日に増していた。


 雨は一週間と三日、降ったりやんだりを繰り返した。運が良いのか悪いのか少年が出掛けていく時はいつも雨が降っていた。しかしそれも昨日で終わり、蒸し暑いことには変わりないが、雲の切れ間から日の光がクリーム色の無数の線となって地上を照らす。どんよりとした灰色の雨雲も、その時は後光が差しているようで、やけに神々しく見えた。
 今日も居ないだろうとは思ったが、あの公園に行くことは、以前から数少ない一日のルーティーンに含まれる大切なイベントの一つだったし、何より男にまた会いたかった。
 いつものベンチに向かうと、
「よっ。久し振り」
 男がニコニコして座っていた。 
 あまりに変わらない態度に、昨日も一昨日も会って話していたのではないかという錯覚に陥って「よ」と、簡易的な挨拶をした。
「いやーごめんなー何も言わずに出てこなくなって」
「いや、えっと、うん……あの、なんで……」
 少年は男の軽さに、今まで感じていた喪失感や焦燥感を持て余し、言葉も出なかった。訊きたいことも話したいことも三十分では足りない程にあったのに、全て頭から抜け出てしまって、かろうじてそれだけ言葉にできた。
 そんな戸惑う少年に反して、男はいつもの調子で微笑んだ。大人の余裕を見せつけられたような気分になって、少しだけ悔しくなった。
「はは、俺丁度この時期の雨って苦手なんだ」
「なんでだ」
「エエ、難しいこと訊くね」
 男は純粋で大きな瞳から目をそらして余裕の見えた笑顔を苦笑に変えた。
「俺が……いや、この頃の雨ってジトジトして嫌な感じするだろ。暑くってね」

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輝ける新しい時代の君へ Ⅹ

 地につかない足をフラフラ不規則に揺らしていると、男がにわかに顔を上げた。
「なんだ、きゅうにうごくとびっくりするだろ……」
「ア、ごめん。さっき、変な話してしまったものだから、明るい話したいなって思ったん
だ」
「いいんじゃないか」
「明るい話ってどんなかなァ……ダンゴムシと全裸で一時間睨み合った話とか」
「なんでそんなことになるんだ」
「それがね……」
 そして何事もなかったかのようにおかしな話をして、明るい雰囲気を無事に取り戻し、先程の話が頭の中でいささか引っ掛かっていたものの、何事もなかったように別れを告げた。


 三週間もすると、毎日のように雨が降る時期に差し掛かった。朝から嫌に重い雨が、生温い空気とともに黄色の傘を叩く。少年は涼しげな薄い青色のスカートが濡れることを懸念してはいたが、雨天が嫌いではなかった。不規則に傘に当たる雨粒の音、長靴が水溜まりを踏む音、家の屋根や紫陽花の葉が奏でる音。止めどない降水によって悪くなった視界のおかげで感覚を集中し、それらを満喫できる。こうして考えれば、蒸し暑いことは別段苦ではなかった。
 それに、少年には行く場所がある。毎日三十分だけ会える、年の離れた友人のもとだ。
 昨日は彼の好きな芸人の話をしてくれた。一昨日は貸した三円が三円分のキャラメルとシベリアになって返ってきた話をしてくれた。その前の日には酔った勢いで褌一つで上官(彼は中尉だったという)の部屋に出向いて営倉に入れられる羽目になった話をしてくれた。
 今日はどんな話をしてくれるのだろうと、あの時は気が付いていなかったが、少年は自分が思うより楽しみにしていた。雨の重さに反して少年の足取りは軽かった。
 しかし少年が公園に着くと、あのくすんだ緑色の服を着た坊主頭は見当たらなかった。
 雨が降っているので遅くなっているのだろうと思ってベンチに座って待つ。しかし十分経っても十五分経っても来ない。

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輝ける新しい時代の君へ Ⅸ

「いいとおもう。べつに」
  少年のいつも通りの口調で言ったその言葉に、男は顔を上げた。少年は本当に、それでも良いと思っただけだった。彼にはまだ話の意味も男がどんなに苦しんでいるかもよく分からないし、他人の気持ちに寄り添う能力も乏しい。しかし何となく、別に良いと思った。
「ぼくもたまにな、さびしいってほんとうはおもったりするんだ。おじさんのとはちがうとおもうけど。ぼくも、きくだけならできるぞ」
 いつも通りの何を考えているか分からない顔で、いつも通りの心地良い風に黒く細い髪を揺らし、いつも通りの住宅街の狭い青空を睨む。その間、男の方を見ることはなかったので、彼が何を思っていたかもどんな顔をしていたかも分からなかった。別段興味があったわけではなかったし、それに何となく、知る必要はないと思っていた。
 今振り返ると男は困惑していたと思う。六歳児に愚痴を聞いてもらおうとしている自分に嫌気がさしたと思う。しかしきっと、彼の話を聞いたのは正しいことだったのだろう。
 男は自分の中で折り合いがついたのか、再び俯いてゆっくり話し出した。
「俺、本当はずっと言いたかったよ。死にたくないってね。妻や子供のためなら死にたくなかったよ。普通に考えれば分かった筈なんだよ。死ぬのが無駄どころか、損害にしかならないって。でも考えなかったから。考えることそのものが無駄だったから……」
「……」
 少年は何も言わず、微動だにせず、ただ雲一つない空を睨んでいた。
「あー、えーっと、ごめん」
 男は項垂れたまま、焦り気味に軽く謝罪した。
「おお」
 それに対し、考えられるだけ考えた結果、短く生返事をすることになった。
 少年には男が三十代から四十代位に見えていたので、戦争に出ていたことを意外に思った。確かに五十代だ、六十代だと言われればそう見えるような気がする。ただ、五歳児の年齢感覚だ。到底信用できたものではない。

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四話 牡丹江の俘虜収容所医務室にて

 ヤーコフ医師は、牡丹江の俘虜収容所に派遣された。日本人を収容しており、シベリアの収容所までの中継地点である。日本人はここからシベリア各地に送られる。
 その医務室には今日も病に侵された元日本軍人がやってくる。
「次の方、お入りください」ヤーコフが促すと、日本人が一人、静かに入ってきた。ソ連に捕まった時のよれた第一種軍装のままの20代か30代の一等兵だった。名を訊くと芝野倉治と言った。
「お座りください。……どういたしましたか」
「咳が酷いのです。痰が絡んで息苦しいのです」
「どのくらい前から」
「3日、4日程度です」
「それは気の毒に……結核やもしれません。今日から病棟に入りましょう。念のためです。検査ができんもんですからね……」
 そう言ってヤーコフは入棟の為の申請書を書き始めた。途中、日本人に話し掛けた。
「前回来た中隊の人ですか」
「ええ」
「私も最近派遣されました。本当は妻も子供もおるんで、ロシアに残りたかったんですがね。芝野さん、ご家族は」
「母と妹、身体の弱い弟と……婚約者が内地に」
「それはお辛いでしょう」
「せめて籍を入れてくれば良かったと。働かされては可哀想ですから」
「そうですね、あなたが一刻も早く祖国に帰れることを願っています」
 ヤーコフが穏やかに微笑むと、日本人は彼に哀れむような眼を向けた。
「あなたは優しいですね……でも、それじゃいかんですよ。私は俘虜です。そしてあなたは我々を収容する側です。偉そうに冷淡にせにゃならんのですよ。俘虜になめられちゃ悲惨です」
 そこまで言うとヒューヒュー空気が抜けていくような酷い咳をして、ヤーコフは急いで背中をさすってやった。
「無理せんでください。お体に障りますよ。……確かに私たちは芝野さんたちを収容する立場にあります。でもね、ここではそれは関係ないのです。ここでは私は医者で、あなたは患者です。今異国の地で絶望に震える者たちには、優しさが必要なのですよ。あなたたちが無事に帰るのに必要なのです。未来にはあなたたちがいなくてはいけないからです。だから、あなたたちが帰るために、私はなめられても仕方ないのです」
「自己犠牲は無駄です」
「違いますよ、これは自己犠牲なんかじゃないんですよ」


                          終

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輝ける新しい時代の君へ Ⅷ

 次の日も少年は男のもとに行った。
 男は少年が自分の横に座ると、いつものように切り出した。
「昨日は何をしたんだい」
「きのうはな、おはかまいりに行った」
「へえ、誰のだい」
「お父さんのお父さんのおはか。きのうはじいちゃんの命日だったらしい」
 少年が何ともないように言ったが、男の顔から笑顔が消え、代わりにいささか目を見開いた。
「おまいりに行ったとき、おばさんが僕のじいちゃんはここにはいないんだと言っていた。せんそうで、とおいところでしんだらしい」
 少年は父方の祖父に会ったことがなかった。祖父の息子たる父親でさえ思い出がない。というのは、少年の祖父は約四十年前の満州で戦死したのだ。父親が五歳の頃だ。だから祖父の話はあまり聞いたことがなかった。祖母は健在であるが、早々会わないので彼女からも話を聞いたことはない。
 そういったことがあり、感傷などは少しもなかった。それに何より、まだ『戦争で死ぬ』ということの意味があまり分かっていなかった。
「なあ、せんそうって何なんだ?こわくないのか?ほかの国のこと、どうしてきらいだったんだ?」
 突然の質問攻めに男は困惑した。今になって、どうしてあんな無礼な質問をしてしまったのかと後悔することが多々ある。しかしこの時の少年にとって戦争は、単なる好奇心や興味が向けられる対象以外の何物でもなかった。
 それは男も分かっていたと思う。少年のことを能天気だと思ったかもしれない。妬ましいと思ったかもしれない。羨ましく思ったかもしれない。怒りを覚えたかもしれない。それを抑えて無難に答えるつもりだったのだと思うが、感情が溢れ出していた。
 天を仰いだ目は、出会った日よりも強く哀愁が感じられ、それは少年にも分かるほどだった。長い溜息を吐いて足に肘をつき、手指を組み力なく項垂れた。
「アー……本当に何なんだろうね。俺が訊きたいよ。怖かったなあ……本当は心の中では死にたくないって思ってた。実はね、みんな、アメリカやソ連のこと嫌ってばかりじゃあなかったんだよ。なのにみんな嘘吐いてた。自分や家族を守るためにね……嫌な世の中だった」
 おどけて言っているが、声は震えていた。顔は見えない。
「良くないね、大人なのに弱音吐いて。変な話してごめんね。坊や、まだ子供なのに」

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輝ける新しい時代の君へ Ⅶ

「おもちはおいしかった。だけどはっぱはおいしくなかった。やさいはすきだけど、あれはへんだ」
 表情も声色もあまり変わらなかったが、いかにも美味しくなかったという雰囲気を醸し出していた。その様子に男は吹き出し、声を殺すようにクックックと笑った。
「なんだ、きゅうにどうした」
 少年が訝しげに問うと、男は右手を口元に、左手を顔の前方で違うという風にゆっくり振って「いやァ、ごめんごめん」と軽く謝罪した。
「だって君、桜餅の葉っぱは食べるけれど、柏餅の葉っぱは食べられたもんじゃないよ。あれは食べないからね」
「そうだったか」
 少年はほんの少し赤面した。顔が紅潮していることに気が付くと更に気恥ずかしくなってきて、「そんなことより」と話を変えた。その様子も滑稽で、ずっとニコニコと男の口角は上がったままだった。
「おじさんは、きのう何したんだ?」
「俺?俺かァ……俺はおっさんだから、面白いことは何もしないよ」
「しごととかは?」
「し、仕事?」
「うん」
 男は戸惑った様子で後頭部を掻いた。しばらく目を泳がせた後、「俺の仕事は、秘密の仕事なんだ。言うと大変なことになるんだよ」とおどけた。
「たいへん……?なんだそれ」
「い、いやァ……ははは……ああっ!もう時間じゃないか、伯母さん、待ってるよ」
「あ、うん」
 男は後ろめたいことでもあるように焦って言った。少年は釈然としていない様子だったが、勢いに押されて「じゃあ」と別れの挨拶をした。

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輝ける新しい時代の君へ Ⅵ

「坊やね、お父さんお母さんに言ってみるといいよ。皆、君のことを愛しているからね、言ったら行事とか調べて、やってくれるからね。君の家族は皆良い人達だ。ただ、子供にどうしてあげたらいいか分からないだけなんだ」
「なんでわかる」
「そりゃ分かるさ。っ……えっと、君の家族なんだよ。良い人達に違いない。マアでも、それでも忙しそうだったら、俺と一緒に色々やってみよう」
「でも、おじさんしらない人だ」
「エ?」
 男は一瞬止まってきょとんとしたが、すぐに思い出したように「アア、そうだったね、ウン、昨日会ったばかりだった。ホラ、君俺とこんなちゃんと話してくれるからね、話している間に会ったばかりだって事をスッカリ忘れていたんだ」と繕うように言った。
「ぼくも、しらないかんじしない。ずっとしっていたみたいで、へんなかんじだ」
「ウンウン、そうだろうとも。ところで、昨日は他に何をしたのかな」
「あのな———」
 この後も時間まで他愛もない会話を交わし、少年は伯母の家に向かった。


「昨日は端午の節句だったけれど、何かしてもらえたかな」
「うん。お父さんがおもちをかってきてくれた。お母さんは小さいこいのぼりをくれた。赤いやつだ」
 そう言って少年は両手を胸の前で自分の狭い肩幅くらいに開いて、大きさを表した。
 男に出会って早一ヵ月。少年は毎日この公園のベンチに来ている。男は、ここ二週間は少年より先に来て彼を待っていた。 
 少年は元々、数少ない両親の休日はこの公園に来ることはないが、男に会うためにこの一ヵ月で合わせて三日、散歩と称して公園に来た。毎日必ず三十分だ。あまり遅くなると両親が心配すると分かっていた。実際うっかりぼうっとしながら歩いて道に迷い、帰るのが二十分ほど遅れたことがあったが、心底心配されて、涙目の母親に叱られたことは少年が大人になった今では良い思い出だ。

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輝ける新しい時代の君へ Ⅴ

 数十秒経って、少年が口を開いた。
「一年ごとにとくべつにやることってあんまりないから」
「エ、色々あるじゃない」
「たとえば?」
「例えばね、誕生日とかは分かりやすいね。あと年末年始もあるし、端午の節句と桃の節句も大事だ。正月は流石に俺も仕事は休めたね」
 少しだけ楽しそうな男の横顔をジッと眺めて固まった。それに気が付いた男が少年に顔を向けて、朗らかな微笑を浮かべたままいささかばかり首を傾げる。少年はそれで思い出したように話し出した。
「あ、たんじょうびと正月はあったかも。たんじょうびは、おめでとうって言われた。正月にはうちのかみさまにあいさつする。でもどっちもお母さんもお父さんも夜しかいない。もものせっくと、たんごのせっくもお父さんとお母さんいない。しごとがたくさんあるから」
 折角考えた話す内容を忘れないように早口で並べ立てた。
 少年は先程までと変わらず、無表情で言った。少年はこの状況にあることが別段寂しいと思ったことは無いし、同世代の子供と関わることが少ない彼が一般的な状態など知る由もないので変だと思ったこともない。だからこれは状況報告に過ぎなかったのだが、聞いていた男は途端に慌てだした。
「何てこった……ウウ、これ……」
 最後の方はよく聞き取れなかったが、男は呟きながら後頭部を掻いて考えあぐねるような顔をした。
「ええっと、おばさんの家でも他には何もないのかい」
「あったけど、忘れちゃった」
 少年は首を数度傾げて答えた。
 確かに子供の、しかも未就学児の記憶力ならその程度なのかもしれないが、大したことをしていなかったから覚えていなかったのだと考えることも十分できた。
男は小さく唸ると「何かごめんね」とばつが悪そうに笑った。少年にとってはよく分からない内に相手が悩み始め、よく分からない内に謝られるという、今の彼の脆弱な情報処理能力では処理に困る状況だ。どう反応していいか分からなくなって、ただ一度、何も言わずにコクリと頷いた。

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三話 マニプール河流域の白骨街道にて

「あぁ……」
 俺は遂に倒れ込んだ。
 昨晩までの雨で川の様に泥水の流れるのも気にしないで。俺の右半身は泥にめり込んで、温い水が滲みて身体がいつもより幾倍も重く感じた。
 白骨街道。
 抜け出せぬ牢獄だ。人々はインドに渡る前にバタバタ死んでいった。道端には死体や、もうすぐ死体になる者があちこちに落ちていた。皆瘦せ細って泥だらけになり、異臭を放っていた。1週間続いた雨はそれらの腐食を早め、ふやけた皮膚を大量の虫が食い千切り体内に潜り込む。俺もその一員になるのだ……。
 体中が痛い……力が入らない……熱帯熱にもやられているらしい……意識が朦朧としている。しかし目を瞑ったら死ぬ気がする。腹は減っているのに吐き気がする。固形物はもう身体が受け付けなくなって久しい。昨日も胃液を幾度か吐いた。ああ……水が飲みたい、綺麗な水が……。
 俺は泥水を啜りながら思った。
 夢中になって二口三口する。だが少ししか飲み込めず吐き出してしまう。液体でも駄目になったか……。
 ……俺ももう死ぬな……そんな考えが脳裏をよぎった時、気が楽になった気がした。
 ああ……帰りたい……帰って綺麗な水が飲みたいなァ……彼らもそうだったんだなァ……この水は、泥と、彼らの体液と、腐臭と、怨念とを混ぜて……俺はそれを飲んだ……。
 それが俺を生き永らえさせた……そして俺は今……死ぬのか?
 死ぬことは、許されるのか?

                        終

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二話 長野の列車内にて

 列車内には私以外にも、10人か20人くらいの傷痍軍人が乗っているようだった。そこに幼い少年と父親が今日も乗ってきた。少年は綿入れで、父親は国民服姿だった。2人はリュックを背負っていた。そうやって、1週間に1度乗ってくる。
 それから2人は決まって、リュックからいっぱいに詰めた餅を取り出して1つずつ乗客に配っていく。あの親子も生活は楽ではないだろうに、毎週。何だか嬉しそうでもあった。
 前の人から順々に配っていって、私のところにもやってきた。
「どうぞ」
 少年が餅を差し出した。私は相当酷い顔になってしまって、子供からすれば恐ろしいだろうに、彼は物怖じしなかった。
「私は……怖くないか?」
「こわくないよ」
「酷い顔だろう」
「いたそう。でも、お母ちゃんとみっちゃんはもっとかわいそうだったの。こわくないよ」
「そうかい」
「うん。じゃあね」
 屈託のない笑顔を見せて次の列に行こうと身体を向きなおした。そこに私は「少年」と声を掛けた。
「なあに?」
「ええと、その、餅、ありがとう」
「うん」
「これ、売ればいいじゃないか」
「いいの。おとうふとか、おさかなとか売ってるから」
「何で売らないんだ」
「かうのはたいへんってぼく、ちゃんと知ってるからね」
 得意気に言って、もう他の人に配りに行ってしまった。
 買うのは大変。確かにそうだ。でも、それをひとに言って自分のものを分け与えられる者など、今の時代にいくらいようか。彼らも貧しい思いをしてきたろう。今だってきっとそうだ。働けなくなった我々に見返りは望めない。それは明々白々であるというのに。与えないことは悪ではないのに。物乞いに施さなかったところで誰も責めやしない。皆苦しんでいるからだ。なのに、あの親子は何と無垢なのか。
 あの親子の純粋な笑顔を見ると、涙が溢れて仕方がなかった。
         
                              終

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輝ける新しい時代の君へ Ⅳ

 表情筋は殆ど動いていなかったが「オヤ坊や、嬉しそうだね。そんなに俺と会えて嬉しいかな」と、男は喜色満面で隣に座った。
 すると少年は少し俯いて、上目だけで男を見て、
「うん」
と頷いた。男はもっと薄い反応が返ってくると思っていたので、意外な反応に困った様にはにかんで、坊主頭を搔いた。
「あっはは、冗談だったんだが……そんなちゃんと言われると照れるなァ……」
「?なんでだ?」
 追及されると余計困ってしどろもどろになって、手と頭を横に振った。
「えええ、変なところで食いつかないでよ。子供って分からないなァ……。それよりも、俺ね、君の話聞きたいなァ。昨日はおばさんの家で何をしていたんだい?」
 少年は男の様子が滑稽でつい吹き出した。男も苦笑する。
「笑わないでよ」
「えへへ、うん、ごめん。あのね、きのうはたくさん本よんだんだ」
「いいね、俺も読書は大好きだよ。どんな本読んだんだい?」
「あのな、『どくもみの好きなしょちょうさん』っていう絵本を読んだ。おもしろかった」
「オオ、いいもの読むね。俺も宮澤先生の作品は好きだよ。若い頃よく読んだよ」
「みやざわ?」
「うん、宮澤賢治さん。『銀河鉄道の夜』って知ってるかい。アレ作った人。『毒もみの好きな署長さん』作った人も宮澤先生だね」
「へえ。『ぎんがてつどうのよる』おもしろいか?」
「アア、とても。でもね、君にはね、まだ少し難しいと思う。今何歳だい」
「うーん……六さいだ、とおもう」
 曖昧な回答に男は苦笑した。
「確かでないね」
 少年は踏み固められた地面に咲く西洋蒲公英を睨んで黙りこくった。嫌な質問だとか答えたくないとか、重大に考えているとか、そんなことではない。これは少年の癖で、話す事柄をまとめる時に機嫌が悪いような顔になり、固まってしまうのである。
 その所為で誤解されることも多い。好かれない理由の一つでもあった。
 しかし男は優しい目で黙って返答を待った。これが今の少年に必要なことだと分かっていたのかもしれない。或いは大した質問ではなかったためスルーされてもいいと思ったのか。

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一話 浜松の軍需工場にて

「あなた、新人さんですか」
「ええ、芝野といいます」
「あら、ご丁寧にどうも。わたしは田山」
「田山さんですか。ところでここは、前は違う工場じゃありませんでしたか。何だったかしら、ええと」
「ピアノですわよ、ピアノ。昔からわたしここで仕事してましてね……」
「それは素敵ですわね。私もそのうちに来たかったです」
「誰も飛行機造るようになるとは思いませんですよ。あなた、若いわね。ご結婚は」
「してませんの。結婚もしてないで、こんなところに来てしまったんですよ。婚約者がいますが、今は満州に……」
「あら、それはお可哀想に。わたしの夫も満州に。彼は音楽家を……丁度ピアノをやっていたんですけれどね、徴兵されて。あの人、可哀想に、今はピアノ弾いてた腕で鉄砲持っていますのよ、わたしたちはピアノ工場で戦闘機造って、こんな皮肉なことないわ」
「私たちって、本当に日本の平和のために働いているんでしょうか」
「あら、そんなことを言ったのは誰ですの。みんな天皇陛下のために戦っていますのよ。平和のためにできることはね芝野さん。祈ることだけですのよ」


                         終

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境界線 Ⅲ

 人間だ。膝を抱えて座る子供だ。髪が長く俯いていて顔が分からないが、鮮やかな赤い服を着ていて、中学生というには小柄だった。PTA会員の子供かと思いながら眺めていると、子供がゆっくり顔を上げてこちらを向いた。
「あ……たァ……ァ……」
 子供が掠れた声を上げた。
「泣いてる……?」
 私は子供に声を掛けた。すると、子供はこちらに向かって走り出した。助けを求めるように手を伸ばして———。
「あぁあああぁぁぁあぁぁ」
 私は唖然として動けなかった。
 子供は泣いていた。目口を目一杯に開いて、
耳をつんざくような絶叫を挙げた。
 何かを恐れて、助けを求めるようだった。
 この子供は誰だ?何故泣いている?何を恐れている?ここまで来たら?
 妙に冷静になって、頭の中にそんな疑問と不安が浮かんだ。しかし不安は杞憂に終わり、子供はない扉にぶつかって倒れた。扉は開いていたのだから、何かにぶつかる筈はないのだが、ない扉に触れた部分の肌は赤く爛れて倒れるときに少し水っぽい音がした。それでも子供は泣き叫びながらこちらに手を伸ばす。
 その姿に圧倒されて動けずにいると、後ろで声がした。
 件の小木だった。
「通っては駄目と言ったでしょ」
「え、あ、はいどうしても気になって」
「あれはね、ここに居ついちゃったんだよね」
「へえ。あの子は誰ですか」
「あの子……あれはやっぱり子供なんだね」
「……?」
「私には見えないんだよね。地点の衝突反応しか見て取れない」
「異能ですか」
「そう。君は、霊体か何かの観測者かな。可哀想に」
「先生は」「私はね、世界の中継地点に干渉できる。地点はつくったら作りっぱなしだし、見えないから大丈夫だけど。君は大変なものを見たね……」
「……あの子は何をしましたか」
「気にしないでいいよ。あれのこと、誰にも言わないでね」
「分かりました」
「じゃ、帰ろうか。下校時刻間に合わないと部活動停止になるよ」
「分かりました」
 それで小木は何事もなかったかのように私を昇降口まで送り届けた。

 あの子供が何者だったかは今も知らない。知る気もない。


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境界線 Ⅱ

 何故、生徒のいない三階を通ってはいけないのか。

 気になったので確かめることにした。
十中八九規則を遵守させるためだとは思うが、注意され行動を規制されたことに対する反抗心もあって、確認というよりもそういった目的の方が大きかった。

 時刻にして五時四十五分を回ったところ。四階から西階段を下りて、図書館前まで来た。
 怖くはなかった。強がりではない。本当に怖くなかった。それどころか楽しくなってきた。薄暗い廊下。橙色に輝く斜陽。通ってはいけない場所を通る背徳感。その中で廊下を一階分、ただ突っ切るだけだ。微少の高揚感以外に特筆すべき感情はなかった。
 歩いている途中、やることもないので惰性で教室内を覗く。
 案の定人はいない。教卓と幾つかの机と椅子が端に寄せられている空き教室と、特別支援学級の教室がおおよそ交互に並ぶ。特別支援学級の教室も普通学級より少し賑やかな印象があり、机が五つ程度であること以外に目立った差はなかった。
 各教室には空き教室以外はクラス名が書かれた札が掛かっている。特支1、空き、特支2,空き、ランチルーム、特支3,空き、特支4、特支5……順々に見送り、遂にあと空き教室一つを過ぎれば東階段というところまで歩いてきた。これはかつて特支六組だったところだ。
 特に面白いこともなかったかと思いながら、最後の空き教室の中を覗く。
 他の空き教室と同じく殺風景なものだったが、少し違う点があった。
 黒板の左端の方。黒い影がそこにあった。
 よくよく目を凝らしてみると、それが何なのかが分かった。

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境界線 Ⅰ

 いつからか、自分には霊体なのだろうか、怪異というのだろうか、分からないが、そういった異質なものを見る能力があることに気が付いた。ただ、知覚したり意思疎通したりできるが、それ以外のことはできないらしかった。こういうものを『観測者』というらしい。
 また、この能力には個人差があるらしく、まだ能力対象が同じである者に出会ったことはない。これによって孤独を感じることもしばしばある。異能を持つ者が近くにいればいいのにと思うこともある。ただ、他異能、他位階どうしが同じコミュニティの中で生活していれば、胸糞悪い場面に遭遇してしまうことも有り得る。だから本当は、会わなくていいように世界がなっていれば良いし、そう思うようになっていれば結果的には幸せでいられるのだ。
 この度は、そういった異能に関する奇妙な体験をしたのでそれについて書こうと思う。

 まずは予備知識として、私の在籍する中学校について説明しよう。
 校舎は四階建てで、一階には特別教室があり二階には昇降口と職員室、PTA室、会議室などがある。三階には図書室と、元は普通学級の教室だったが、生徒数が減って使わなくなった教室と、特別支援学級の教室が連なっている。そして四階に音楽室と普通学級の教室がある。
 この内問題なのが三階である。
 この階は基本的に通ってはいけないことになっている。西、中央、東側にある階段と、図書室以外の利用は禁止だ。入学した当初、「三階の特支の中には人に会うのが苦手な生徒がいるのだ」との説明を受けた。
 ある日の帰り際、図書館を利用した。帰る時、図書室に一番近いのは西階段だったが、中央階段から降りた方が昇降口が目の前に来て昇降口が近い様な気がする。先生が図書室にいたものの、生徒はもういなかった。だからその程度の軽い心持で三階の廊下を通ろうとした。
 その時、後ろから声が掛かった。
「駄目だよ、特支の方通っちゃ」
 振り向くとそこには図書室から出てきた国語科教員小木がいた。
「何故です」
「通ったら駄目って言われたでしょ」
「生徒がいないから大丈夫だと思いました」
「駄目なんだよ」
「そうなんですか」
「そう。だから帰るよ、ほら」
「分かりました」

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輝ける新しい時代の君へ Ⅲ

その後、思い付いたように「そういえば坊や、時間は大丈夫かな」と尋ねた。随分高くにある、公園の時計を見上げるとそれは九時を指そうとしていた。
「あ、そろそろおばさんち行かないと」
「そうかい、じゃあ俺も帰るかな」
「うん」
 ベンチから飛び降りた少年は間もなく走り出し、公園を出ていった。その時に後ろを向いて「じゃあな」と手を振った。穏やかにゆっくり男も手を振り、「後ろ向いてると危ないよ」と微笑みながら注意喚起した。


 翌日、その日も少年はいつもの公園のベンチに座って空を眺めていた。この日は快晴で、空全体が朝日に照らされて白く光っていた。風は穏やかで、少し暑い位だった。
 少年は昨日出会った男を気に入っていた。 
 話が特別面白かった訳ではないが、自分を『可愛がっている様に見える』だけの大人ではないことが嬉しかった。自分の様に静かだと、子供の相手をしたい大人にあまり好かれないことは既に知っていた。しかし感情が表に出にくい。
 こんな幼児が人の心の内などを、所謂『察す』ということができるのかと思うだろうが、子供は案外と、人の胸中を見透かすのが得意だったりするのだ。全ては理解していなくとも雰囲気で分かる。
 そんな自分に純粋に楽しそうに話しかけてくれたことが嬉しかった。
(おじさんまた来るかな)
そう思っていると、
「よっ」
 白い天を写す瞳に望んでいた男の顔がいたずらっぽく笑った。少年も「よ」と返した。

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輝ける新しい時代の君へ Ⅱ

「よくわかったな。ぼく男って」
「そりゃ分かるさ。俺も子供ん時着せられてたから」
 男は苦笑いした。
 それもその筈だ。よく分からないまま女の格好をさせられるのだから。
 その時の少年も桜色の、春らしいワンピース姿だった。不快に思ったことはなかった(むしろ気に入っていた)が、他の子供とは違うことは周りを見れば明々白々だった。
「坊や、何で女の格好させられてるか分かるかい」
「しらない」
「そうだよなァ、俺も自分で調べて知ったんだけれどね、あのね、子供は七歳までは神様の持ち物なんだって」
「へえ。それじゃ神さまにかえさないとな」
「その通り、頭がいいなァ。だから昔は7歳までは子供が死んでも文句は言えなかったんだ」
「でもぼくのいえのちかくの子はみんな生きてる」
「アア、そうだよ、それはね君、今は医療技術が発達して平和になって、幸せになったからなんだよ。つい50年前は十分な食べ物が無くて、病気にかかってもまともな治療なんて受けられない人も多かったからね」
 男は少年がよくするように空を見上げる。ぼうっと、何か特定のものというより空全体を見ているようだった。しかし彼の眼は空をも見透かし、その向こうの何かに思いをはせるようだった。
 少年もしばらく男を上目で見つめて黙る。
暖かい風が間を通って、男は一瞬目を伏せた。少し寂しそうな表情にも見える。その時の少年には分からなかったが。少年が「なあ」と呼び掛けると男は意識を取り戻したようにヘラヘラ笑った。やっぱりまだ寂しそうだった。
「何だい?」
「つづき」
「アア、ごめんごめん。
 それでね、7歳まで子供を女として育てると、体も丈夫になって長生きできるんだね。だから女の格好させるんだよ。おかしいよね、だってもう神様にとられることないのに女の格好させる必要ないもの。ご先祖さんはそんなに子供亡くしたのが悲しかったのかな」
「ぼくはべつにいい。みんなとちがくてへんだけど、かわいいのすき」
「ホント?俺はそんな好きじゃなかったなァ。俺はね、こんなヒラヒラのじゃあなくてね、着物着せられてたよ。可愛いのだけれど動きにくいのだ。見たことある?」
 少年はコクっと首を縦に動かした。
「おばさんちの本で見た」
「そっかぁ。坊やは物知りだねえ」
 男は感心して喜色を浮かべ、満足気にウンウン頷いた。

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輝ける新しい時代の君へ Ⅰ

今からする話は、まだ幼かった少年と不思議な男との些細な出会いの話だ。


 少年はまだ幼稚園に通う程の年齢だった。しかし、貧困する程ではなかったが、家計に余裕はなかった。両親も共働きで幼稚園や保育園に通わせることを望んでいたが、本人に通う意思がなかった。親の方も通園費を考えると、子供の決断には好意的だった。こんなことで教育を諦めることには抵抗と罪の意識を感じていたようだが、内心安堵していたのも確かであった。だから両親が働いている間は、母親の姉の家で過ごした。
 少年の祖父は東京の有名な大学に通っていたので娘たる母親とその姉も学があり、少年に様々なことを教えてくれて、少年は彼女のもとに行くことが好きだった。彼女も子供が居らず、少年が幼稚園にも保育園にも行かないと聞いて、自分から預かると名乗り出たそうだ。

 少年は、彼女の家に行く前に自分の家の近くにある公園のベンチに座って、ぼうっとして空を眺めることが好きだった。朝の30分だけ、誰も居ない、静かな公園で、ゆったり流れる雲を見ながら呆然とする。
 余談だが、こういった子供らしくないところもあり、少年はあまり大人に好かれてはいなかった。きっと子供にも好かれなかっただろう。

 ある日和良い春の日。 
 その日も少年は何を考えるでもなく、足をユラユラさせていた。
 すると、
「おはよう、坊や」
 柔らかい男の声だった。周辺に少年以外の人間が居ないので、自分に向けられたものだと思い、少年は声の主に目を向けた。
 男は、祖父が着ていたような服を着ていた。祖父の若い頃の写真を見た時変な格好だと思ったので、男のことも同様に変だと思った。しかし不思議と嫌な感じはしない。同時に、既視感があった。
「おはよ」
 挨拶を返すと、男は人当たりの良い笑みを浮かべて「隣いいかい?」と訊いた。少年はこくりとうなずく。
 明らかに不審だったが、この時の幼い彼はこの人は誰なのか、程度にしか思っていなかった。

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8月15日の縁側 Ⅱ

「あっはははは!くにあき下手くそ!」
「ううう、今のものは難しいね……」
「ずーっとあったよ」
「俺の時はなかったよ」
「えーうそだあ」
「本当だよ」
 そんな他愛もない会話をしていると、「今帰った」と不愛想な男の声と共に、後ろの障子が開いた。
「あ、おとーさんおかえりー」
 少女の父親、睦葵だ。オリーブ色のTシャツにジーンズという、ファッションに無頓着な彼らしい服装だ。
「誰かと話していたようだった。友達でも来ていたか」
 睦葵は表情一つ変えず、仏頂面のまま娘に尋ねた。別に怒っているわけではなく、それは少女も邦明もよく分かっていたので気に留めず、質問に答える。
「ううん。くにあき来たの。まえ神社行ったときに会ったでしょ?」
「……そう、らしいな。だが僕にはもう見ることができない」
「なんでー?」
「……僕は、深層のものを見るには様々な経験をし過ぎた。それに、もう多角的な視点を持つことは難しい。固定観念を知り過ぎた」
「う?こてー……?」
「あ、え、ごめんな、難しい話をした」
「うん。むずかしーのあたし苦手ー。どーゆーこと?」
「そうだな……ええと、取り敢えず、邦明さんは今は居るのか」
「いるよ。さっきジュースまいた」
 少女は邦明を指した。勿論睦葵には見えていないが、そこにいることはよく伝わった。
「そ、そうか。毎年来ているのか」
「毎年じゃないよ。今年が初めて」
「なんだ、三十年も経つのにまだ一度も来ていなかったか」
「う?」
「いや、何でもない」
「そう?」
 その後睦葵は三秒ほど考えた末に、こう伝えてくれと少女に告げた。
「『じいちゃん、ありがとう。取り敢えず今は楽しいから。心配しなくていい』って」

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8月15日の縁側

 あれから七七回目の夏。日本で戦争が終わってから、日本が戦争で負けてから七七回目の夏。
 蝉の声がやかましく響き、草木は深緑に萌え、蒼天に輝く太陽は地上を焼かん勢いで照らす。少女は縁側でくつろぐ。
 何という事はない、いつもの夏。
 しかし今年は少し違った。
「いやあ、今年も暑くなったみたいだねぇ」
「あづいよー。くにあきはあつくないー?」
「全然。俺もう死んでるから、外のことは関係ないんだね」
「ええーずるいよう」
 今年は曽祖父、邦明が遊びに来ている。七七年前に内地から遥か遠く離れた土地で戦死した曽祖父だ。陸軍の第一種軍装に身を包んだ、敵意の全く感じられない優しい顔の男だ。
 彼は仏壇に供えてあった缶入り桃ジュースを手に、少女の隣に腰掛けている。手にしていると表しているが、正確にはそれは缶の魂で、実際の缶を持っているわけではない。ただ、魂のみの、つまりは幽霊になったそれを飲むことはできる。仏壇に置いたものが何か物足りないような味になるのは、この為である。
 今年の春に小学校に入学した少女も、同じく仏壇のパイナップルジュースを手に、細かい花柄のワンピースをひらひらさせながら素足をばたつかせる。こちらは本物の缶ジュースだ。
「そうだ、睦葵…….父ちゃん居るかい?」
「んー?いるよー。さっき山のおはか行ったー。あとちょっとでかえってくるよ」
「そうかい」
「うん。でもあたしも行きたいって言ったけど、あついからまた今度だって」
「そうだね」
 会話をしながら少女が邦明の手元を見ると、缶のつまみを本来と逆の方向に引っ張っていた。少女は不思議そうに、教えるように自分の缶を見せながら開けた。邦明はバツが悪そうに笑って開けようと試みた。が、
「おわっ!」
挑戦むなしく開けた時の衝撃で中身を盛大にぶちまけた。中身は三分の二ほどに減り、袖を濡らす羽目になった。

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傷痍軍人さんと少年 Ⅱ

 私は残念に思って、一緒に外を見ていた。その汽車は川に沿って山を下っているんだ。車窓から外を覗くとすぐ近くに川がある。それを見ると……
「わあっ」
 なんとだな、川が上向きに流れていたんだ。
「ここの川は上向きに流れていくんだね」
 私は驚いて、思わず傷痍軍人さんに言った。
 すると、あの人は少し笑った。
「そりゃあ面白いね。でも、上向きに流れているわけじゃないんだよ。川が流れるより汽車が走る方が速いから、逆流しているように見えるだけなんだよ」
「そうだったんだ。変だけど面白い」
「それは良いことだ」
 傷痍軍人さんは満足げに頷いて、私の頭をがしがし撫でた。それから立ち上がって、
「そうやって、何でも面白がってみるといい。すると、世界は広がるんだよ」
と、そう言った。
「広がる?」
「そうだよ。じゃあ僕はここで降りるよ。これからいろいろ大変だろうけど、頑張るんだよ」
 それで、傷痍軍人さんは汽車を降りた。
 私はこの時はまだ小さかったからな、傷痍軍人さんが言っていたことの意味は、実はほとんどよく分からんかったよ。
 でも、あの人に出会った記憶は、何十年経っても、不思議と忘れることはなかったのだ。

 エ?言っていたことの意味?さあ、何だろうな。考えてみるといいさ。分からない?ああ、泣くな泣くな。もう少し大きくなったら分かるようになる。
 なんでこんな話したのかって?
 これはな、伝言なんだ。だから話した。
 サア、これからはお前が頑張る番だ。

                                            終

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傷痍軍人さんと少年 Ⅰ

 私が小さかった頃の話をしてやろう。お前は今いくつだ?エエ、五歳?だったらお前くらいの年だよ。

 私の生まれた家のすぐ近くには川があって、川沿いを鉄道が走っていたんだ。
 いつだったか、私はお父さん……お前のひいじいちゃんと一緒に鉄道に乗った。黒くて不愛想で、お前の身長よりずっとずっと大きくて、かっこいい汽車だ。でも、修理が終わっていなかったもんで全身傷だらけの汽車だった。
 私とお父さんが乗った、一番前の車両の座席には、傷痍軍人さんが何人か座っていた。傷痍軍人ってわかるか?戦争で立派に戦って傷を負った兵隊さんたちだ。かっこいいぞ。
 私は、一人の傷痍軍人さんの前に座った。顔に大きな火傷の跡があって、右腕を吊っていた。窓際に松葉杖が立ててあって、足も悪くしているようだった。
「こんにちは」
 私は言った。私は軍人さんと話がしたかったのだ。その頃軍人さんってのは子どもたちの憧れの存在だったものだ。軍人さんになって鉄砲持って、敵を沢山やっつけるぞって、本気で思っとったのだ。そんなような人たちだったから、私はいろいろと話したかった。
「こんにちは」
 傷痍軍人さんも挨拶してくれた。
「その怪我は、戦ってきた怪我?」
「そうだね。遠い、南の方まで行ってきたさ。そこで敵の軍と当たって、このざまだ」
「かっこいい。内地を守るためにした怪我でしょ?」
私は目をキラキラさせたよ。だけどね、傷痍軍人さんは窓の外、それも、ずっとずっと遠くに目をやって苦笑いした。
「どうかな。今は……もう分からんね」
そう言ったきり、窓の外をぼうっと眺めるだけで、私に話しかけてはくれなかった。
 私は残念に思って、一緒に外を見ていた。