回顧記録は、日めくりカレンダーよりも現実を告げる
悲しい音がする。
失恋じみた匂いばかりが、わたし用この空間に広がっている。
手が届く物理ではあるけれど手を伸ばすことはしないこと。臆病って言う? 意味が分からないって言う? 分からない。分からないけれど、あの時間はあの時間だけのものだった。全細胞がこの顔ぶれで(細胞に個性なんかがあるのかは知らないけど、)この位置に居座っているのは今この一瞬しかないように(だって細胞は着々と死にゆき新入りが押し寄せるからね)、そう、つまりそんな感じ。
そんな感じの場所で、そんな感じの時間だった。
言葉を交わす知れた人がいて、他の空間には適応しないここだけの言語があって、つまり当時の私は現在の私ではない。だって細胞で言ったら当時の構成員は誰一セル居ないわけでしょこの体内に。それで同一人物だなんて言われたらいい迷惑だ。多分、当時の自我とか、そのあたりにとっちゃ。
だからこれは余談だけど仮に10年後の私がヤク中になってても今の私を責めないでよねっつって、だーってそれ私【ナウ・2018.01.01.19歳まであと24日のこの肉体を構成する細胞に宿る・自我】にカンケーないしっ。
息を吸いに来ていた頃、もう戻りたくもないほど苦しい日々でだからこそ息を吸いに来る森林色した場所は現在危ういほど大切な記憶であり、泣きたくなるような感情が、いつも回顧のときには共にあった。
私に影響を与えてくれた人が何人かいた。恋よりも甘酸っぱく心臓を捻るくらいに、それは素敵なものだったのだ。
そうねたとえばねひとつ、こんな作品を書きますと宣言したことが、気づけばもう1年? 2年? そんなことも曖昧なほど、現実時間というより精神時間が過ぎて、今更形になりそうなこと、なんかを、報告したくて、簡単にできるのに、きっとすることはないのだろうな、ということ。
進めていなかったり進んでないことはなかったりいろいろあるのだろうけど、森林ヅラしてくるその場所は、まるで中学のとき好きだった人を眺めるかのような痛みがあり、それでも永遠に原点であるのだろうな、と思います。
またふらりと来ます。ついでに2018年いえーい。
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変化、あるいは風化を認められないあたりまだコドモなのでしょう