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サーカス小屋    #ピエロのカフカ

「生きていてよかった」「即死となりうる状況だったんだよ」
「もう、綱渡りは無理だけど……」そのあとの言葉を続けられる者は、誰もいなかった。
「本当に、運がよかった」本当に運が良ければ、こんなことにはならなかった。
あの日、私は「綱渡りのサン=テグジュペリ」の名をもらった。猛獣使いのアンデルセンと共に、ライバルたちからの、痛いほどに冷たい拍手を受けた。
 私は今、幸せの絶頂にいるのだと思った。襲名できなかった者たちの視線の矢でさえも、心地よく思えた。でも、人生はそう簡単なものではないらしい。
 真夜中に、私たちの瞭の部屋が燃えた。私は、ルームメイトで唯一の生き残りだった。
 理事長は、私を気の毒そうに気遣ってくれた。優しい言葉の方がきつく刺さるのだと、初めて知った。
 綱渡りは、我らがサーカスの花。美しい者のみが、その名を名乗れる。私のサンテグジュペリ人生は、一日足らずで終わった。顔の右半分が、ひどいやけどを負った。よりによって、観客の方を向いた右側。私は、見た目で役を下ろされるような、こんなサーカスにあこがれていたのか、と自分に落胆した。
 今、私は、二位の実力を持った「サン=テグジュペリ」の前座を務めている。
 顔を隠す、ピエロの仮面をかぶって。
 屈辱的だと思った。新たなサン=テグジュペリ」を、呪ってやりたいと思った。でも、現に今、私はジャグリングを披露している。心なしか冷やかしに聞こえる拍手を背に、ステージを後にする。
 サン=テグジュペリ」が私と入れ替わりにステージに立つと、大きな歓声が上がった。私はそっと、三面鏡の前でピエロの仮面を外す。醜いやけど跡に自然と目が行く。思わず化粧台を思い切り叩いた。
「誰が 助けてくれと 望んだ!」
なぜ、あのまま死なせてくれなかったのだろう。それは、人間の優しさであり、醜さなのだろうか。

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屋根裏部屋

いつしか忘れてしまった屋根裏部屋の匂いに、アンジェリカは顔をしかめた。10年前は全く気にならない、むしろ、好きな匂いだったのに。ほこりとカビのにおいが鼻をつき、眉間のしわをさらに深くした彼女の記憶に、そんなことはとうに存在しないのだった。
「ひどい匂いだわ。かび臭いったらありゃしない。それに、獣臭いにおいもしたわ。野良猫でも入りこんだのかしら」
確かに、屋根裏部屋には猫がいた。だが、野良猫ではなかった。
 足元にある荷物の山を見下ろし、アンジェリカはため息をついた。
「やっぱり、この荷物は屋根裏部屋にしまうしかないわね」
彼女は意を決して屋根裏部屋に足を踏み入れた。ほこり、カビ、獣の匂いが入り混じり、独特の刺激臭を放っていた。よく見ると、ハエまでたかっている。
「どうしてハエがこんなにいるのかしら……。もしかして、この獣臭の持ち主が死んでいるんじゃ……」
アンジェリカは思わず身震いした。
「やっぱり、荷物をしまうのは、ジャックがいるときにしましょう。………それにしてもこの荷物、見覚えのない物ばかりね。本当に私のかしら」
屋根裏部屋から続くはしごを下りると、彼女は夫・ジャックのために昼食を作り始めた。それを食べる人はもう存在しないのだけど。
 屋根裏部屋では、ハエがたかり白骨化の始まったアンジェリカの飼い猫ーと言ってもその犯人であり飼い主である当の本人は、すべて忘れているのだけどーと、その隣で寝ているジャックは、自分たちを殺したアンジェリカの名を小さく小さく床に刻んでいた。
 アンジェリカは、1日経つと記憶のほとんどが消え去る病を持っていた。それでも、本人はそのことにまったく気づかず、自分は平常な人間だと思い込んで生活していた。
 山のようなジャックの荷物ー遺品ともいえるーは、明日になればアンジェリカの記憶には存在せず、亡くなった一匹と1人ー本当はもっといるがーのように、誰にも思い出されないのだった。