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輝ける新しい時代の君へ ⅩⅪ

「でも、逃げていたとはいえ、戦傷で死ねただけ幸せだったでしょうね」
「それは、もっと良くないことがあるのか」
「あるわよ。勇んで出征したのに、病気や飢餓で亡くなる方が沢山居たの。チフスや結核なんかはよく聞いたわ。前線に行っても病や飢餓や……仲間内の争いで亡くなられる人が相当いたそうだけど。……邦明さんと同じ班の方が……先達さんが伝えに来てくれた。だからあたし苦しくなって、折角教えてくださったのに、あたしあの人に酷いこと言って……」
「?」
「すまないね、脱線しちゃったわね。この手紙は、その時持ってきてくださったのよ」
 祖母は『妻子へ』と書かれた茶色の封筒を手に取った。
 満州から届けられた物は手紙だけのようだ。遺品がないことには少し疑問を持った。何か事情があって他のものが届かなかったのかもしれないが、それにしてもこの家に何も残っていないというとこはない筈だ。何か理由があるのだろうか。
 遺品がなかったからと言って、だからどうしたという話になるので尋ねるのはやめてしまった。
 祖母は「これ、読んでみる?」と少年に『妻子へ』の手紙を渡した。
「い、良いのか」
 少年は困惑した。読んでみたいという気持ちは勿論あったが、これは祖母に宛てたものだ。同時に抵抗もあった。
「ええ、きっと邦明さんも望んでいるんじゃないかしら。分からないけれど」
「てきとうだな」
「良いのよ、あの人がてきとうな人だったから」
「それなら……」
 少年はおずおずとそれを受け取ると、そっと二枚の便箋を取り出した。

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輝ける新しい時代の君へ ⅩⅩ

「あなた、満州って知ってるでしょ?」
「知っている」
「あの人、歩兵の一等兵として満州に行ってたのよ。南支の方。そこでね、死んじゃったの」
「戦死してしまったと聞いている」
「そうよ。あの人、転進中に自分の中隊を見失って班の人、先達さんというんだけどね、その人と二人で迷子になってたの。頭悪いわよねぇ」
「……」少年は何を思えばいいか分からなくなって沈黙した。
「それで二人で南下した中隊を探しているときに、八路軍に遭遇して応戦中に被弾したって。右腕の、上の方に一発と、おなかに一発——。邦明さんたら、おっちょこちょいなのは分かるけど、本当に、出征したならちゃんとしてくれないと。でも先達さんを助けて死んだって。先達さんも兵站病院を見つけて駆け込んだらしいのだけど、翌日には……。蒸し暑くって雨が降っていて、あの頃は、前線じゃ病院は酷い環境なのよ。まともに休めやしない。外にいた方がましだったくらいらしくてね……沢山苦しんだでしょうね……あの人はもっと幸せになるべきだったのに」
 祖母は冷静に振舞っているが、何かへの深い憎悪がその目からは感じられた。しかしその『何か』とは、鉄のように凝固しているのに掴みどころがなく、憎悪を持て余した虚しさに駆られているようでもあった。
 同時に、話を聞いて、あの頃梅雨の雨の日にだけ姿を現さなかった理由が分かった。あの時現れなかったのは、梅雨が嫌いだったからというより、怖かったからだったのだろう。
当然自分はまだ死んだことがないので、どれほど恐怖を感じていたのかは計り知れない。どんなに彼が痛くて辛くて死にたくなくて逃げ出したくて、しかし逃げ場がないという絶望の淵に居たとしても、あの時の少年には知る由もなかった。今だってどうやっても分からない。彼からすれば『分かる』など無責任な言葉で一蹴されるよりは良いのかもしれないが、少年はどうにも解消しようがない後悔の念にさいなまれた。

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輝ける新しい時代の君へ ⅩⅨ

(やはり、訊いてはいけなかったのか)
 今の質問をするために持てる勇気を使い切って、少年の心の中にはもう不安しか残っていなかった。急に後悔が膨張して、「いや、今のは無しだ。ごめんなさっ……」と慌てて前言撤回しようとした。
 すると、祖母は何も言わずに立ち上がり、奥の襖の向こうに手招きした。
 襖の奥に入ると、そこは六畳半の和室だった。あるのは正面に押し入れと仏壇、小さい座卓に箪笥に旧式テレビにと、誰かの部屋の様な雰囲気だった。障子を閉めているとはいえ、妙な静けさが部屋を包んでいる様に感じた。空気が悄然としていた。襖のところに立って、少年は動けなくなった。
 祖母はこちらに目配せし、仏壇の前に正座した。それを見て正気に戻ったようにハッとして彼女の横に立った。
「座りな」
 祖母は静かに言った。
 仏壇には一枚の写真が、黒い写真立てに収められている。それは白黒で、見たことのある顔だった。微塵も敵意を感じられない垂れ目が特徴的な坊主頭の男。
 あの男だった。幼少期、あの公園で出会った……幸田邦明。
「この人……」
「睦葵のお祖父さんよ」
 祖母は愛おしそうに写真を眺めた。 
 徐に線香を上げ、合掌をした。少年も見様見真似でワンテンポ遅れて拝んだ。
「少し待ってなさい」
 そう言って、古い箪笥から桐箱を出してきた。B5コピー用紙くらいの大きさで、中には封筒や葉書がいくつか入っているだけだった。随分丁寧に保存している。これが男の、幸田邦明の、祖父の書いた手紙だということはすぐに分かった。
 一番上の封筒には草書体かと思う程崩して、堂々たる『妻子へ』の文字が書かれていた。
 にわかに祖母が口を開いた。

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輝ける新しい時代の君へ ⅩⅧ

 高校生になって意味が分かった。

 少年は成長して、様々なことを知って、女の格好もとっくのとうにやめた。身長は一六五センチメートルを超えたところで止まってしまったが、重大な病に侵されたり大怪我をしたりすることなく健康に育った。
 地頭が良かったこともあり成績も良好だ。高校受験は無事に成功し、県内でも屈指の公立高校に入学した。感情の起伏に乏しいことや無口なことは変わらず友達はあまりいなかったが、それなりに楽しく生活していた。
それでもあの男について考え続けていた。男の正体も察しがついた。
 だから彼に何があったのか知りたくて、思い立ってからはすぐだった。次の日の正午には、田舎に住む父方の祖母の家の居間にいた。
「一人で来たなんてすごいわねぇ」
 祖母は冷えた麦茶を出しながら感心した。祖母は明るくサバサバした性格の人で、大人しい父親とは性格面ではあまり似ていないが、余裕のありそうな顔立ちはよく似ていた。ただ、母子の関係は良いとは言えなかった。幼少期会うことがなかったのも、それに起因するところがある。
「でも、どうしたの急に」
 祖母が少年の向かいに座って尋ねた。
 来てからずっとそわそわしていた少年は、待ちかねていたように半ば茶托に乗り上げる勢いで質問に食い付いた。
「あの、じいちゃんについて知りたいんだ」
 表情は少しも変わっていなかったが、必死だった。
「あの人について……?」
「うん。じいちゃん、戦争で亡くなったと伯母さんから聞いた。それで気になった。だから、教えてほしい。じいちゃんは何処で亡くなったんだ?どんな人だったんだ?」
 祖母は引き気味に数回小さく頷いた。
「う、うんうん。分かったから落ち着きましょ」
「ア、うん」
 少年は祖母に促されて座り直すと、心を落ち着ける意味合いで結露し始めたガラスのコップの麦茶を一口飲んだ。一呼吸おいて、彼女の俯きがちな顔を伺った。
「珍しい子ねぇ」
 そう言ったきり、しばらくの間俯いて黙り込んだ。

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輝ける新しい時代の君へ ⅩⅦ

「どうしても会いたくなったときは、九段下の神社に来るといい。そこできっと、待ってるからね」
 そういうと少年は少し落ち着いて「くだん……?」としゃくり上げながら反復した。
「そうだよ、九段下。来るなら四月の始めが良い。あそこはね、桜が大変綺麗に咲くんだ。お花見にピッタリだね」
 変に明るくおどけた。
 別れ際まで道楽的な男の発言に、涙を流すのも変に思えてきた。最後に、少しだけ笑えた。
「わかった。じゃあまってて。ぼくぜったい、行くからな」
「うん、待っているよ」
「うん、今まで、ありがと。……じゃあ……」
 じゃあね、と言おうとしたが、これで終わりだと思うとまた涙が込み上げてきて、泣き出してしまった。

 ひとしきり泣くと、心が決まったようで、早口で「じゃあな」と言ってサッサと踵を返した。
 公園を出る直前、振り返って赤くなった顔で、涙をこらえて、なるべく通常通りになるように発声した。
「まだ訊いてなかったけど」
「何かな」
「……名前!」
「名前?」一瞬何のことか分からず、怪訝そうな顔をしたが、すぐに思い出した。
「そういえば。俺は……邦明、幸田邦明だ」
「ぐうぜんだ。ぼくも同じみょうじ。幸田睦葵っていう」
「むつき……うん、良い名前だ!」
「おじさんも」
 最後にそれだけ言うと、少年は来た道を戻っていった。

 それ以来、少年が男に会うことはなかった。
 会えなかった。

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輝ける新しい時代の君へ ⅩⅥ

 翌日、少年は走った。
 公園へ、男のもとへ走った。炎天下、生温い風を全身に受けて走った。
 公園の入口に来ると、見慣れた緑色の服が見えて目を輝かせた。
「おじさん!」
 汗だくの状態でやってきた少年の慌て様を見て、男は驚いて思わず立ち上がった。
「どっどうしたの!そんなに急いで……」
「ぼくっ、ぼくっ……」
 息を切らして何かを必死に訴える真っ直ぐな瞳を見て、男は何か感じたようで、静かに微笑んで手招きをした。少年は歩いて男のもとに来て、俯いた。
「どうしたのかな」
「あの、ぼく……きのう言おうとおもってたけど、やだったから言わなかったけど……」
 少年は、ここに来る前、泣かないと決めていた。しかし堪え切れなかった。初めての大切な人との別れだった。
 言うことは決めてあったのに、口に出すと嗚咽が込み上げてきてなかなか進まない。
「……どうしたのかな、ゆっくり言ってごらん」
 男はかがんで少年と目線の高さを合わせる。すると、少年はゆっくり話し始めた。
「あの、お父さんの、しごとするところがかわって、だから、みんなで……ひっこすって。きのうの、きのう言ってて、どうしようっておもって、すぐしゅっぱつ……だから……いそいで来たんだ。さよならしに……」
 勇気を全部使って言った。声を上げて泣くことはしないが、涙は幾ら拭っても止まらなかった。
 あの時、もう会えなくなるのだと思った。
 距離的な問題とか、行動力の問題とか、そんな次元の話ではなくて、本当にもう男は消えてしまって、絶対会えなくなるんだと感じていたのだ。
 何故かは分からないが、どうしようもなく不安だった。別れを知らない少年には、底知れぬ恐怖だった。
 男は深く溜息を吐き、ふっと微笑を湛えた。
「大丈夫。会えなくても、しっかり強くやっていくんだよ」
「はなせないのやだ」
「大丈夫だって。これから君は、もっと素敵な人たちに会う。寂しくないよ」
 男は底無しに元気に言った。
「それにね、俺みたいなのにはもう関わらない方がいい。良いかい、君は輝ける新しい時代の男だ。だから俺なんかのことは忘れた方が良いのさ」
「そんなの……」
 男は励ますつもりで行ったのだろうが、逆効果だった。少年は嗚咽交じりに唸る。すると男はもう降参という風に両手を挙げて「それでも」と続けた。

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輝ける新しい時代の君へ ⅩⅤ

「ねえ、キミはいつも一人ですか?」
「ちがう。おじさんがいるからな」
「でも一人は……良くないだから、セーコさんのところに早く行く方が良いヨ」
「だから一人じゃないんだって」
「キミは……フシギな子だと……ワタシ思う」
 リイさんが公園から出た後、少年はその会話を思い出して不貞腐れた。無性に悔しくてならなかった。涙が零れそうになったが、友人がいる手前、泣くのもみっともなくてグッと堪えた。
 俯いて唇を噛む少年に、男は、何でもなかったかのようにヘラヘラ笑った。
「俺さァ、影薄いんだよね。最近は無視されることもザラだよ」
 夏の空気に似合う、涼しげな笑顔だった。
「むしされるほどなのか?」
 震える声で尋ねると、男は頭を掻いておどけて言った。
「もう嫁にもシカトされてんだぜ」
 苦笑ながらもニッと歯を見せて笑う姿がおかしくて、少年は声を出して笑った。
「なんだそれ、かわいそ」
「可哀そうだってェ?他人事だなァ……おっと、こんなことしている間にもう時間だ」
「ほんとだ」
「じゃ、今日はこれで」
「うん」
 そして少年は男に見送られ、いつも通り走って公園の出口に向かった。公園から出る直前、少年は一度立ち止まって、道路の方を向いたまま顔の汗を手で拭って「おじさん」と呼んだ。
「どうしたんだい」
「……やっぱり何でもない」
「?」
 少年はそのまま走って行ってしまった。

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×××××中学校の七不思議 甲斐田正秀

 甲斐田正秀という生徒がいた。高等小学校の時代の話だ。
彼は二年生の時に死んだ。悲惨な死だったというが、舌を噛んでだとか、皮を剥がれてだとか、八つ裂きにされてだとか、水中に縛られてだとか、今はいろいろな説が出回っている。
「そんで、甲斐田正秀が死んだ6時3分、第二校舎の3階、一番北の空き教室に行くと会えるんだ」
 部活の妙に後輩懐っこい先輩がそういう噂を話した。
「会うだけですか」
 俺は素っ気なく尋ねた。でも、本当は少し興味があった。それを表に出すと先輩は調子に乗って収集付かなくなるのでこれくらいが丁度いい。
「なわけないだろ。酷い死に方したんだぜ。ヤツに会うと質問をされるんだ『赤と青、どっちが好き?』って。そんで、赤って答えると……」
「はいはい、どうせ血で真っ赤になって死んで、青だと血ィ抜かれて死ぬんでしょう」
「よく分かったな。聞いたことあったか」
「『赤い紙青い紙』に毛が生えたような話じゃないですか」
「まあな。で、それ以外の答えとか、答えなかったらとか、知りたいか?」
「別に良いです」
「知りたいよな」
「はいはい」
「どうなるかっつーと……分っかりませーん!自分で確かめてくださーい」
「はぁ?ならわざわざ」
 引き延ばさなくても。と言おうと思ったところで顧問に「おーい、そこ集中しろー」と注意され、俺はむっと先輩を睨んだ。先輩は怖めず臆せず笑っていた。

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輝ける新しい時代の君へ ⅩⅣ

「エ、まあね。慣れさ、慣れ」
「なれると?あつくなくなるのか」
「ウーン、俺はそうだけど、君はやめた方がいいよ」
「そうか」少年はまだ納得していないようだったが、そう返した。この次の年、試しに35度も下らない暑さの中、1日冬服で過ごして倒れたというのは、また別の話である。
 また気を取り直し、「でも、かみが少ないのはいいな」と言って、少しだけ口角を上げた。
「ちょっとその言い方だと語弊が生じるから……これはただの坊主」
「そうか。ぼくもみじかいとすずしそうでいいとおもったから、お母さんに言ったら、まだみじかくしないって言われた」
「ははは、小学校行くまでの辛抱だね」
「うん」
 それからしばらく、髪型の話をしていると、公園の入り口のところに人影が見えた。この公園に、少年以外の人物が来ること自体大変稀だが、こんな時間となると一層珍しかった。
 人影の正体は、1人の若い女性だった。少年は彼女を知っていた。伯母の家の隣に住む外国人だ。10代だが、今年になって通勤のために引っ越してきて(わざわざ引っ越してきてまで就くような仕事はないと思うが)一人暮らしをしているそうだ。伯母がそう呼ぶので、少年は『リイさん』と呼んでいる。本名は知らない。彼女は世話焼きな伯母によく面倒を見てもらっていて、伯母にくっついている少年のことも可愛がっていた。だからリイさんが手を振ると、少年も手を振り返した。リイさんは少年のもとに来ると「オハヨウ、こんな時間にどうしたノ」と声を掛けた。
「いつも来ている。リイさんこそめずらしいな」
「今日仕事ある。だけど、いつもより遅い時間だから……今出勤するノ。そうしたら、キミが居る。だから、気になった」
 リイさんはあまり日本語を話すことが得意ではない。引っ越してきたばかりのころは殆ど日本語が話せず、伯母は四苦八苦したそうだ。
 日本語は得意ではないが、リイさんは丁寧に言葉を紡ぐ人でおっとりしているので少年と伯母からの好感度はなかなかのものだった。 
 3分程度会話をするとリイさんは仕事に行ってしまったが、会話の中で、いささか不自然な部分があった。彼女も日本語は不自由なので言葉の間違いも幾つかあったのだとは思っていた。その不自然さの本当の理由は後々知ることになるが、やはり気分のいいものではないことは確かだった。

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六話 一戸町のある民家にて

 父ちゃんは母ちゃんと出会う前、シベリアで働かされてたらしい。父ちゃんが何かの時に教えてくれたけど、それ以上のことは教えてくれたことがない。だから母ちゃんに訊いてみたことがある。 
「父ちゃんは中国さ行っでたか?だがらソ連さ捕まった?」
「多分なぁ。ンだども、そっだらこと直接訊いたら駄目だべよ?」
「分がってら―」
 でもほんとは分かってない。ソ連は父ちゃんを連れてって、酷いことをした悪い奴だ。それっくらいしか知らない。

 父ちゃんは休みの日はよく、縁側に出て本を読んでる。ロシアの作家の本らしいけど僕は読まない。本は文字ばっかりで苦手だから。
 僕は休みの日は、母ちゃんのお手伝いだ。僕は母ちゃんに頼まれて洗濯物を取り込みに庭に出た。ここから、縁側で呑気に今日もナントカって人の本を読んでる父ちゃんが見える。
 大人はいいなあ。休みの日にお手伝いも宿題もしなくて良くて。
 そうやって思いながら父ちゃんを観察してると、たまぁに歌を口ずさみ始める。聞いたこともない歌。
「Нет её прекрасней,Из-за тучи звёздочка видна……」
 よく聞いたら日本語じゃなかった。
「父ちゃーん、それ何って歌ぁ?」
 話し掛けたら、ぽやーって顔でコッチ向いて、ちょっと首傾げた。
「歌ァ?」
「今なんが歌ってたべ」
「あーそうかぁ。確かに歌ってたかもしんねなぁ」
「何だそれ」
 ちゃんと取り合ってくれなくてちょっとムッとした。でも父ちゃんはそのまままた本を読みだした。
「何だァ!答えでけろ!」
 そうやって怒ってみたけど、父ちゃんはにやついて真面目に聞かない。
「はっはっはっは」
「笑ってねえで!」
「はっはっは、よォし、今日は星でも見に山さ行ってみるか」

                             終

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輝ける新しい時代の君へ XⅢ

「大きくなったら読めるようになるよ。君は頭が良いからね、あっという間にね」
「それなら早く大きくなりたい」
「でもね坊や、もっと頭良くするには勉強しなくてはならないんだよ。俺はあんまりお金がなかったから小学校までしか行かなかったのだけれど、いやー、今でも後悔してるね。だってね、もう九つも下の、帝大出の二等兵がいたのだけれど、俺より年も階級も下なのに、俺より計算が早いんだ。俺が全然知らないことばっかり知っているしね。だからすぐ将校さんになったけれど。アレすごく悔しいんだ。だからね、勉強はしないといけないよ」
 少年が聞くにはあまりに長い話だったので、無表情のまま内心うろたえて、話している間、男の方を向いたまま固まってしまった。話が一段落するとやっと、かろうじて首を数度傾げた。男はその様子を不思議そうに眺め、意味が分かると慌てて「ごめん、長かったね。喋るの楽しくて」と苦笑した。
 その後も取り留めのない会話をして、少年は伯母の家に向かい、男はいつも通り手を振って見送った。

 雨が散々に降る季節もやっと終わったかと思うと真っ白い太陽の光がかんかん照り付ける季節がやってきた。まだ朝だというのに逃げ出したくなる暑さだ。これからもっと暑くなると思うと気が滅入る。音源の特定できないやかましい無数の蝉の声が、暑さを助長する。
 それでも今日も、ベンチで二人、くだらない会話を楽しんでいた。
「……あつい」
 四季の変化は基本的に楽しんでいる少年も、うだるような暑さには負けるようだった。白いブラウスの襟元をハタハタさせる。
その中でも少年は、幼心に空の美しさを楽しんだ。白く鋭い光と、終わりを感じさせない青空を映し色づく積乱雲、深緑の木々とのコントラストは、彼の心を奪うには十分だった。
「空はこんなに綺麗なのにね」
 男も少年の意見には同意しているようだったが、涼しい顔をしてにこやかに笑っている。
「……さいきんおもってたけど」
「どうしたのかな?」
「それは、あつくないのか」
 少年は男を指さして言った。『それ』というのは、男の服装の事だった。春に出会った時と同じ、くすんだ緑色の服。生地もあまり薄いようには見えない。それなのに彼は汗一つかいていない。

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輝ける新しい時代の君へ Ⅻ

 予想外の回答に「そんなわけ……」と言いかけたが、途中で止めてだんまりしてしまった。実際、そんな訳がないのだ。そんな理由で幼い子供を置いて来なくなるなんてことを彼はしないと信じていた。何か隠しているとも感じたが、考えるのは今の自分にはただただ無謀だと思った。それに、単なる直感ではあるが、追及しても誰も幸せにならなそうで、彼が言ったことは本当だと思うことにした。
 男は少年のいつもの黙り方と少し違う事に気付き、慌ててどうすればいいか分からず、目を泳がせた。一瞬少年の頭に手をやろうとしたが、それをする前に、何かを思い出したように引っ込めてしまった。代わりに、優しい声で「ごめんね、なんか変なこと考えさせてしまったかな。沢山生きているとね、たまにこういう気分になってくるんだね」と諭すように言った。その後、自分の気持ちを空気とともに入れ替えるように一回深呼吸をした。
「いやー本当にね、長生きすると色々思うことあるよ」
「おもうこと?それは、よくないのか」
「良くないことも多いけど、それだけじゃあないんだよ」
「たのしいのか」
「ウン、とってもね。坊やは本読むの好きだったね」
 少年はコックリ頷いた。
「長生きすると、たくさんの本が読める。今はまだ絵本とかしか読まないだろ」
「かん字がむずかしいから。知らないことばがおおい、大人が読んでる文字ばかりの本は、ぼくにはむりだ」
 少年は不貞腐れたように、地に着かない足で空を切る。いつも大人びている少年だが、やはり五歳児であることに変わりはない。子供らしさが垣間見えた。

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五話 ペルミのグラークにて

 グラーク内には掲示板があって、そこには大抵ソ連のプロパガンダポスターがあるくらいだが、掲示板片隅にはいつもドイツ語の壁新聞が一部はってある。俘虜の中の新聞部が手書きで月に一回書いているもので、母国語と情報に飢えていたドイツ人は寸暇できればすぐに壁新聞を見に行った。
 中にはソ連人も見に来る。アヴェリンという男は収容所内のソ連人の中でも親独派将校であることで知られていた。アヴェリンは時折集まるドイツ人にドイツ語で話し掛けては、彼らを困惑させた。
 アヴェリンは、いつもある男を気に留めていた。矯正労働から戻ると掲示板の前から離れない男である。
「面白い記事はあったか、ええと君、名は」
「エッボです。ドイツ語ですね」
「ああ。俺はドイツに住んでたことがあってな」
「へえ。面白い記事はありませんが、興味深い記事は」
そう言って、エッボと名乗った男は『ドイツ、東西に分断される』という味気ない見出しを黒っぽく汚れた指で指し示した。
「そうらしいな。こうなっちまうと、またベルリンはお預けだな」
「ベルリン、行くんですか」
「自慢だが、俺はベルリン大学を10年前に卒業しているんだ。そこの友人に会いに、年に一度」
「僕もベルリン大学ですよ、6年前に卒業した」エッボは対抗して言った。
「ほう、6年……最近だな。お前いくつだ」
「33です」
「なんだ年下じゃないか。ずっと年上だと」
「……この様相じゃ、そう思うのも無理ありません」
 アヴェリンはエッボを改めて見た。身長は低く勿論自分よりずっとやつれ痩せ小柄に見えるが、髪はぼさぼさで無精髭も生え、姿勢が悪い。40歳は過ぎていると思っていた。改めて、グラークとは酷いものだと思った。ソ連人でさえ劣悪な労働環境に辟易しているのに、寒さにも慣れず、一日カーシャ一杯と黒パン一枚で肉体労働を強いられる彼らを思うと寒心に堪えない。
「そうだな……絶対、戻れる。俺が言っちゃ許せんだろうが、俺はお前らの帰国を願ってる」
 アヴェリンは真剣な眼差しでエッボを見つめ、声を潜めつつ言った。エッボは虚ろな目を記事にやったまま、何も言わなかった。


                           終

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輝ける新しい時代の君へ Ⅺ

 遂に男は来なかった。
 この時は何か用事があったのだろうという持ち前の楽観的観測によって、男には会わないまま帰っていった。
 しかしこの日から、男はいつまで待っても来ることはなかった。降り続く好きな筈の雨も段々と重く圧し掛かるようになった。態度にも顔にも表れることはなかったが、少年は自分が思うより残念に思っていた。
 雨が嫌いだから来ないのかと一瞬思ったが、何も言わずに来なくなるなんて、そんなことを彼がするはずがないと確信していたので、仮説はアッサリ頭の中から排除された。それとも彼の身に何か不幸があったのではないか。
 不安は日に日に増していた。


 雨は一週間と三日、降ったりやんだりを繰り返した。運が良いのか悪いのか少年が出掛けていく時はいつも雨が降っていた。しかしそれも昨日で終わり、蒸し暑いことには変わりないが、雲の切れ間から日の光がクリーム色の無数の線となって地上を照らす。どんよりとした灰色の雨雲も、その時は後光が差しているようで、やけに神々しく見えた。
 今日も居ないだろうとは思ったが、あの公園に行くことは、以前から数少ない一日のルーティーンに含まれる大切なイベントの一つだったし、何より男にまた会いたかった。
 いつものベンチに向かうと、
「よっ。久し振り」
 男がニコニコして座っていた。 
 あまりに変わらない態度に、昨日も一昨日も会って話していたのではないかという錯覚に陥って「よ」と、簡易的な挨拶をした。
「いやーごめんなー何も言わずに出てこなくなって」
「いや、えっと、うん……あの、なんで……」
 少年は男の軽さに、今まで感じていた喪失感や焦燥感を持て余し、言葉も出なかった。訊きたいことも話したいことも三十分では足りない程にあったのに、全て頭から抜け出てしまって、かろうじてそれだけ言葉にできた。
 そんな戸惑う少年に反して、男はいつもの調子で微笑んだ。大人の余裕を見せつけられたような気分になって、少しだけ悔しくなった。
「はは、俺丁度この時期の雨って苦手なんだ」
「なんでだ」
「エエ、難しいこと訊くね」
 男は純粋で大きな瞳から目をそらして余裕の見えた笑顔を苦笑に変えた。
「俺が……いや、この頃の雨ってジトジトして嫌な感じするだろ。暑くってね」

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輝ける新しい時代の君へ Ⅹ

 地につかない足をフラフラ不規則に揺らしていると、男がにわかに顔を上げた。
「なんだ、きゅうにうごくとびっくりするだろ……」
「ア、ごめん。さっき、変な話してしまったものだから、明るい話したいなって思ったん
だ」
「いいんじゃないか」
「明るい話ってどんなかなァ……ダンゴムシと全裸で一時間睨み合った話とか」
「なんでそんなことになるんだ」
「それがね……」
 そして何事もなかったかのようにおかしな話をして、明るい雰囲気を無事に取り戻し、先程の話が頭の中でいささか引っ掛かっていたものの、何事もなかったように別れを告げた。


 三週間もすると、毎日のように雨が降る時期に差し掛かった。朝から嫌に重い雨が、生温い空気とともに黄色の傘を叩く。少年は涼しげな薄い青色のスカートが濡れることを懸念してはいたが、雨天が嫌いではなかった。不規則に傘に当たる雨粒の音、長靴が水溜まりを踏む音、家の屋根や紫陽花の葉が奏でる音。止めどない降水によって悪くなった視界のおかげで感覚を集中し、それらを満喫できる。こうして考えれば、蒸し暑いことは別段苦ではなかった。
 それに、少年には行く場所がある。毎日三十分だけ会える、年の離れた友人のもとだ。
 昨日は彼の好きな芸人の話をしてくれた。一昨日は貸した三円が三円分のキャラメルとシベリアになって返ってきた話をしてくれた。その前の日には酔った勢いで褌一つで上官(彼は中尉だったという)の部屋に出向いて営倉に入れられる羽目になった話をしてくれた。
 今日はどんな話をしてくれるのだろうと、あの時は気が付いていなかったが、少年は自分が思うより楽しみにしていた。雨の重さに反して少年の足取りは軽かった。
 しかし少年が公園に着くと、あのくすんだ緑色の服を着た坊主頭は見当たらなかった。
 雨が降っているので遅くなっているのだろうと思ってベンチに座って待つ。しかし十分経っても十五分経っても来ない。

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輝ける新しい時代の君へ Ⅸ

「いいとおもう。べつに」
  少年のいつも通りの口調で言ったその言葉に、男は顔を上げた。少年は本当に、それでも良いと思っただけだった。彼にはまだ話の意味も男がどんなに苦しんでいるかもよく分からないし、他人の気持ちに寄り添う能力も乏しい。しかし何となく、別に良いと思った。
「ぼくもたまにな、さびしいってほんとうはおもったりするんだ。おじさんのとはちがうとおもうけど。ぼくも、きくだけならできるぞ」
 いつも通りの何を考えているか分からない顔で、いつも通りの心地良い風に黒く細い髪を揺らし、いつも通りの住宅街の狭い青空を睨む。その間、男の方を見ることはなかったので、彼が何を思っていたかもどんな顔をしていたかも分からなかった。別段興味があったわけではなかったし、それに何となく、知る必要はないと思っていた。
 今振り返ると男は困惑していたと思う。六歳児に愚痴を聞いてもらおうとしている自分に嫌気がさしたと思う。しかしきっと、彼の話を聞いたのは正しいことだったのだろう。
 男は自分の中で折り合いがついたのか、再び俯いてゆっくり話し出した。
「俺、本当はずっと言いたかったよ。死にたくないってね。妻や子供のためなら死にたくなかったよ。普通に考えれば分かった筈なんだよ。死ぬのが無駄どころか、損害にしかならないって。でも考えなかったから。考えることそのものが無駄だったから……」
「……」
 少年は何も言わず、微動だにせず、ただ雲一つない空を睨んでいた。
「あー、えーっと、ごめん」
 男は項垂れたまま、焦り気味に軽く謝罪した。
「おお」
 それに対し、考えられるだけ考えた結果、短く生返事をすることになった。
 少年には男が三十代から四十代位に見えていたので、戦争に出ていたことを意外に思った。確かに五十代だ、六十代だと言われればそう見えるような気がする。ただ、五歳児の年齢感覚だ。到底信用できたものではない。

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四話 牡丹江の俘虜収容所医務室にて

 ヤーコフ医師は、牡丹江の俘虜収容所に派遣された。日本人を収容しており、シベリアの収容所までの中継地点である。日本人はここからシベリア各地に送られる。
 その医務室には今日も病に侵された元日本軍人がやってくる。
「次の方、お入りください」ヤーコフが促すと、日本人が一人、静かに入ってきた。ソ連に捕まった時のよれた第一種軍装のままの20代か30代の一等兵だった。名を訊くと芝野倉治と言った。
「お座りください。……どういたしましたか」
「咳が酷いのです。痰が絡んで息苦しいのです」
「どのくらい前から」
「3日、4日程度です」
「それは気の毒に……結核やもしれません。今日から病棟に入りましょう。念のためです。検査ができんもんですからね……」
 そう言ってヤーコフは入棟の為の申請書を書き始めた。途中、日本人に話し掛けた。
「前回来た中隊の人ですか」
「ええ」
「私も最近派遣されました。本当は妻も子供もおるんで、ロシアに残りたかったんですがね。芝野さん、ご家族は」
「母と妹、身体の弱い弟と……婚約者が内地に」
「それはお辛いでしょう」
「せめて籍を入れてくれば良かったと。働かされては可哀想ですから」
「そうですね、あなたが一刻も早く祖国に帰れることを願っています」
 ヤーコフが穏やかに微笑むと、日本人は彼に哀れむような眼を向けた。
「あなたは優しいですね……でも、それじゃいかんですよ。私は俘虜です。そしてあなたは我々を収容する側です。偉そうに冷淡にせにゃならんのですよ。俘虜になめられちゃ悲惨です」
 そこまで言うとヒューヒュー空気が抜けていくような酷い咳をして、ヤーコフは急いで背中をさすってやった。
「無理せんでください。お体に障りますよ。……確かに私たちは芝野さんたちを収容する立場にあります。でもね、ここではそれは関係ないのです。ここでは私は医者で、あなたは患者です。今異国の地で絶望に震える者たちには、優しさが必要なのですよ。あなたたちが無事に帰るのに必要なのです。未来にはあなたたちがいなくてはいけないからです。だから、あなたたちが帰るために、私はなめられても仕方ないのです」
「自己犠牲は無駄です」
「違いますよ、これは自己犠牲なんかじゃないんですよ」


                          終

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輝ける新しい時代の君へ Ⅷ

 次の日も少年は男のもとに行った。
 男は少年が自分の横に座ると、いつものように切り出した。
「昨日は何をしたんだい」
「きのうはな、おはかまいりに行った」
「へえ、誰のだい」
「お父さんのお父さんのおはか。きのうはじいちゃんの命日だったらしい」
 少年が何ともないように言ったが、男の顔から笑顔が消え、代わりにいささか目を見開いた。
「おまいりに行ったとき、おばさんが僕のじいちゃんはここにはいないんだと言っていた。せんそうで、とおいところでしんだらしい」
 少年は父方の祖父に会ったことがなかった。祖父の息子たる父親でさえ思い出がない。というのは、少年の祖父は約四十年前の満州で戦死したのだ。父親が五歳の頃だ。だから祖父の話はあまり聞いたことがなかった。祖母は健在であるが、早々会わないので彼女からも話を聞いたことはない。
 そういったことがあり、感傷などは少しもなかった。それに何より、まだ『戦争で死ぬ』ということの意味があまり分かっていなかった。
「なあ、せんそうって何なんだ?こわくないのか?ほかの国のこと、どうしてきらいだったんだ?」
 突然の質問攻めに男は困惑した。今になって、どうしてあんな無礼な質問をしてしまったのかと後悔することが多々ある。しかしこの時の少年にとって戦争は、単なる好奇心や興味が向けられる対象以外の何物でもなかった。
 それは男も分かっていたと思う。少年のことを能天気だと思ったかもしれない。妬ましいと思ったかもしれない。羨ましく思ったかもしれない。怒りを覚えたかもしれない。それを抑えて無難に答えるつもりだったのだと思うが、感情が溢れ出していた。
 天を仰いだ目は、出会った日よりも強く哀愁が感じられ、それは少年にも分かるほどだった。長い溜息を吐いて足に肘をつき、手指を組み力なく項垂れた。
「アー……本当に何なんだろうね。俺が訊きたいよ。怖かったなあ……本当は心の中では死にたくないって思ってた。実はね、みんな、アメリカやソ連のこと嫌ってばかりじゃあなかったんだよ。なのにみんな嘘吐いてた。自分や家族を守るためにね……嫌な世の中だった」
 おどけて言っているが、声は震えていた。顔は見えない。
「良くないね、大人なのに弱音吐いて。変な話してごめんね。坊や、まだ子供なのに」

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輝ける新しい時代の君へ Ⅶ

「おもちはおいしかった。だけどはっぱはおいしくなかった。やさいはすきだけど、あれはへんだ」
 表情も声色もあまり変わらなかったが、いかにも美味しくなかったという雰囲気を醸し出していた。その様子に男は吹き出し、声を殺すようにクックックと笑った。
「なんだ、きゅうにどうした」
 少年が訝しげに問うと、男は右手を口元に、左手を顔の前方で違うという風にゆっくり振って「いやァ、ごめんごめん」と軽く謝罪した。
「だって君、桜餅の葉っぱは食べるけれど、柏餅の葉っぱは食べられたもんじゃないよ。あれは食べないからね」
「そうだったか」
 少年はほんの少し赤面した。顔が紅潮していることに気が付くと更に気恥ずかしくなってきて、「そんなことより」と話を変えた。その様子も滑稽で、ずっとニコニコと男の口角は上がったままだった。
「おじさんは、きのう何したんだ?」
「俺?俺かァ……俺はおっさんだから、面白いことは何もしないよ」
「しごととかは?」
「し、仕事?」
「うん」
 男は戸惑った様子で後頭部を掻いた。しばらく目を泳がせた後、「俺の仕事は、秘密の仕事なんだ。言うと大変なことになるんだよ」とおどけた。
「たいへん……?なんだそれ」
「い、いやァ……ははは……ああっ!もう時間じゃないか、伯母さん、待ってるよ」
「あ、うん」
 男は後ろめたいことでもあるように焦って言った。少年は釈然としていない様子だったが、勢いに押されて「じゃあ」と別れの挨拶をした。

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輝ける新しい時代の君へ Ⅵ

「坊やね、お父さんお母さんに言ってみるといいよ。皆、君のことを愛しているからね、言ったら行事とか調べて、やってくれるからね。君の家族は皆良い人達だ。ただ、子供にどうしてあげたらいいか分からないだけなんだ」
「なんでわかる」
「そりゃ分かるさ。っ……えっと、君の家族なんだよ。良い人達に違いない。マアでも、それでも忙しそうだったら、俺と一緒に色々やってみよう」
「でも、おじさんしらない人だ」
「エ?」
 男は一瞬止まってきょとんとしたが、すぐに思い出したように「アア、そうだったね、ウン、昨日会ったばかりだった。ホラ、君俺とこんなちゃんと話してくれるからね、話している間に会ったばかりだって事をスッカリ忘れていたんだ」と繕うように言った。
「ぼくも、しらないかんじしない。ずっとしっていたみたいで、へんなかんじだ」
「ウンウン、そうだろうとも。ところで、昨日は他に何をしたのかな」
「あのな———」
 この後も時間まで他愛もない会話を交わし、少年は伯母の家に向かった。


「昨日は端午の節句だったけれど、何かしてもらえたかな」
「うん。お父さんがおもちをかってきてくれた。お母さんは小さいこいのぼりをくれた。赤いやつだ」
 そう言って少年は両手を胸の前で自分の狭い肩幅くらいに開いて、大きさを表した。
 男に出会って早一ヵ月。少年は毎日この公園のベンチに来ている。男は、ここ二週間は少年より先に来て彼を待っていた。 
 少年は元々、数少ない両親の休日はこの公園に来ることはないが、男に会うためにこの一ヵ月で合わせて三日、散歩と称して公園に来た。毎日必ず三十分だ。あまり遅くなると両親が心配すると分かっていた。実際うっかりぼうっとしながら歩いて道に迷い、帰るのが二十分ほど遅れたことがあったが、心底心配されて、涙目の母親に叱られたことは少年が大人になった今では良い思い出だ。

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輝ける新しい時代の君へ Ⅴ

 数十秒経って、少年が口を開いた。
「一年ごとにとくべつにやることってあんまりないから」
「エ、色々あるじゃない」
「たとえば?」
「例えばね、誕生日とかは分かりやすいね。あと年末年始もあるし、端午の節句と桃の節句も大事だ。正月は流石に俺も仕事は休めたね」
 少しだけ楽しそうな男の横顔をジッと眺めて固まった。それに気が付いた男が少年に顔を向けて、朗らかな微笑を浮かべたままいささかばかり首を傾げる。少年はそれで思い出したように話し出した。
「あ、たんじょうびと正月はあったかも。たんじょうびは、おめでとうって言われた。正月にはうちのかみさまにあいさつする。でもどっちもお母さんもお父さんも夜しかいない。もものせっくと、たんごのせっくもお父さんとお母さんいない。しごとがたくさんあるから」
 折角考えた話す内容を忘れないように早口で並べ立てた。
 少年は先程までと変わらず、無表情で言った。少年はこの状況にあることが別段寂しいと思ったことは無いし、同世代の子供と関わることが少ない彼が一般的な状態など知る由もないので変だと思ったこともない。だからこれは状況報告に過ぎなかったのだが、聞いていた男は途端に慌てだした。
「何てこった……ウウ、これ……」
 最後の方はよく聞き取れなかったが、男は呟きながら後頭部を掻いて考えあぐねるような顔をした。
「ええっと、おばさんの家でも他には何もないのかい」
「あったけど、忘れちゃった」
 少年は首を数度傾げて答えた。
 確かに子供の、しかも未就学児の記憶力ならその程度なのかもしれないが、大したことをしていなかったから覚えていなかったのだと考えることも十分できた。
男は小さく唸ると「何かごめんね」とばつが悪そうに笑った。少年にとってはよく分からない内に相手が悩み始め、よく分からない内に謝られるという、今の彼の脆弱な情報処理能力では処理に困る状況だ。どう反応していいか分からなくなって、ただ一度、何も言わずにコクリと頷いた。

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三話 マニプール河流域の白骨街道にて

「あぁ……」
 俺は遂に倒れ込んだ。
 昨晩までの雨で川の様に泥水の流れるのも気にしないで。俺の右半身は泥にめり込んで、温い水が滲みて身体がいつもより幾倍も重く感じた。
 白骨街道。
 抜け出せぬ牢獄だ。人々はインドに渡る前にバタバタ死んでいった。道端には死体や、もうすぐ死体になる者があちこちに落ちていた。皆瘦せ細って泥だらけになり、異臭を放っていた。1週間続いた雨はそれらの腐食を早め、ふやけた皮膚を大量の虫が食い千切り体内に潜り込む。俺もその一員になるのだ……。
 体中が痛い……力が入らない……熱帯熱にもやられているらしい……意識が朦朧としている。しかし目を瞑ったら死ぬ気がする。腹は減っているのに吐き気がする。固形物はもう身体が受け付けなくなって久しい。昨日も胃液を幾度か吐いた。ああ……水が飲みたい、綺麗な水が……。
 俺は泥水を啜りながら思った。
 夢中になって二口三口する。だが少ししか飲み込めず吐き出してしまう。液体でも駄目になったか……。
 ……俺ももう死ぬな……そんな考えが脳裏をよぎった時、気が楽になった気がした。
 ああ……帰りたい……帰って綺麗な水が飲みたいなァ……彼らもそうだったんだなァ……この水は、泥と、彼らの体液と、腐臭と、怨念とを混ぜて……俺はそれを飲んだ……。
 それが俺を生き永らえさせた……そして俺は今……死ぬのか?
 死ぬことは、許されるのか?

                        終

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二話 長野の列車内にて

 列車内には私以外にも、10人か20人くらいの傷痍軍人が乗っているようだった。そこに幼い少年と父親が今日も乗ってきた。少年は綿入れで、父親は国民服姿だった。2人はリュックを背負っていた。そうやって、1週間に1度乗ってくる。
 それから2人は決まって、リュックからいっぱいに詰めた餅を取り出して1つずつ乗客に配っていく。あの親子も生活は楽ではないだろうに、毎週。何だか嬉しそうでもあった。
 前の人から順々に配っていって、私のところにもやってきた。
「どうぞ」
 少年が餅を差し出した。私は相当酷い顔になってしまって、子供からすれば恐ろしいだろうに、彼は物怖じしなかった。
「私は……怖くないか?」
「こわくないよ」
「酷い顔だろう」
「いたそう。でも、お母ちゃんとみっちゃんはもっとかわいそうだったの。こわくないよ」
「そうかい」
「うん。じゃあね」
 屈託のない笑顔を見せて次の列に行こうと身体を向きなおした。そこに私は「少年」と声を掛けた。
「なあに?」
「ええと、その、餅、ありがとう」
「うん」
「これ、売ればいいじゃないか」
「いいの。おとうふとか、おさかなとか売ってるから」
「何で売らないんだ」
「かうのはたいへんってぼく、ちゃんと知ってるからね」
 得意気に言って、もう他の人に配りに行ってしまった。
 買うのは大変。確かにそうだ。でも、それをひとに言って自分のものを分け与えられる者など、今の時代にいくらいようか。彼らも貧しい思いをしてきたろう。今だってきっとそうだ。働けなくなった我々に見返りは望めない。それは明々白々であるというのに。与えないことは悪ではないのに。物乞いに施さなかったところで誰も責めやしない。皆苦しんでいるからだ。なのに、あの親子は何と無垢なのか。
 あの親子の純粋な笑顔を見ると、涙が溢れて仕方がなかった。
         
                              終

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輝ける新しい時代の君へ Ⅳ

 表情筋は殆ど動いていなかったが「オヤ坊や、嬉しそうだね。そんなに俺と会えて嬉しいかな」と、男は喜色満面で隣に座った。
 すると少年は少し俯いて、上目だけで男を見て、
「うん」
と頷いた。男はもっと薄い反応が返ってくると思っていたので、意外な反応に困った様にはにかんで、坊主頭を搔いた。
「あっはは、冗談だったんだが……そんなちゃんと言われると照れるなァ……」
「?なんでだ?」
 追及されると余計困ってしどろもどろになって、手と頭を横に振った。
「えええ、変なところで食いつかないでよ。子供って分からないなァ……。それよりも、俺ね、君の話聞きたいなァ。昨日はおばさんの家で何をしていたんだい?」
 少年は男の様子が滑稽でつい吹き出した。男も苦笑する。
「笑わないでよ」
「えへへ、うん、ごめん。あのね、きのうはたくさん本よんだんだ」
「いいね、俺も読書は大好きだよ。どんな本読んだんだい?」
「あのな、『どくもみの好きなしょちょうさん』っていう絵本を読んだ。おもしろかった」
「オオ、いいもの読むね。俺も宮澤先生の作品は好きだよ。若い頃よく読んだよ」
「みやざわ?」
「うん、宮澤賢治さん。『銀河鉄道の夜』って知ってるかい。アレ作った人。『毒もみの好きな署長さん』作った人も宮澤先生だね」
「へえ。『ぎんがてつどうのよる』おもしろいか?」
「アア、とても。でもね、君にはね、まだ少し難しいと思う。今何歳だい」
「うーん……六さいだ、とおもう」
 曖昧な回答に男は苦笑した。
「確かでないね」
 少年は踏み固められた地面に咲く西洋蒲公英を睨んで黙りこくった。嫌な質問だとか答えたくないとか、重大に考えているとか、そんなことではない。これは少年の癖で、話す事柄をまとめる時に機嫌が悪いような顔になり、固まってしまうのである。
 その所為で誤解されることも多い。好かれない理由の一つでもあった。
 しかし男は優しい目で黙って返答を待った。これが今の少年に必要なことだと分かっていたのかもしれない。或いは大した質問ではなかったためスルーされてもいいと思ったのか。

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一話 浜松の軍需工場にて

「あなた、新人さんですか」
「ええ、芝野といいます」
「あら、ご丁寧にどうも。わたしは田山」
「田山さんですか。ところでここは、前は違う工場じゃありませんでしたか。何だったかしら、ええと」
「ピアノですわよ、ピアノ。昔からわたしここで仕事してましてね……」
「それは素敵ですわね。私もそのうちに来たかったです」
「誰も飛行機造るようになるとは思いませんですよ。あなた、若いわね。ご結婚は」
「してませんの。結婚もしてないで、こんなところに来てしまったんですよ。婚約者がいますが、今は満州に……」
「あら、それはお可哀想に。わたしの夫も満州に。彼は音楽家を……丁度ピアノをやっていたんですけれどね、徴兵されて。あの人、可哀想に、今はピアノ弾いてた腕で鉄砲持っていますのよ、わたしたちはピアノ工場で戦闘機造って、こんな皮肉なことないわ」
「私たちって、本当に日本の平和のために働いているんでしょうか」
「あら、そんなことを言ったのは誰ですの。みんな天皇陛下のために戦っていますのよ。平和のためにできることはね芝野さん。祈ることだけですのよ」


                         終

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境界線 Ⅲ

 人間だ。膝を抱えて座る子供だ。髪が長く俯いていて顔が分からないが、鮮やかな赤い服を着ていて、中学生というには小柄だった。PTA会員の子供かと思いながら眺めていると、子供がゆっくり顔を上げてこちらを向いた。
「あ……たァ……ァ……」
 子供が掠れた声を上げた。
「泣いてる……?」
 私は子供に声を掛けた。すると、子供はこちらに向かって走り出した。助けを求めるように手を伸ばして———。
「あぁあああぁぁぁあぁぁ」
 私は唖然として動けなかった。
 子供は泣いていた。目口を目一杯に開いて、
耳をつんざくような絶叫を挙げた。
 何かを恐れて、助けを求めるようだった。
 この子供は誰だ?何故泣いている?何を恐れている?ここまで来たら?
 妙に冷静になって、頭の中にそんな疑問と不安が浮かんだ。しかし不安は杞憂に終わり、子供はない扉にぶつかって倒れた。扉は開いていたのだから、何かにぶつかる筈はないのだが、ない扉に触れた部分の肌は赤く爛れて倒れるときに少し水っぽい音がした。それでも子供は泣き叫びながらこちらに手を伸ばす。
 その姿に圧倒されて動けずにいると、後ろで声がした。
 件の小木だった。
「通っては駄目と言ったでしょ」
「え、あ、はいどうしても気になって」
「あれはね、ここに居ついちゃったんだよね」
「へえ。あの子は誰ですか」
「あの子……あれはやっぱり子供なんだね」
「……?」
「私には見えないんだよね。地点の衝突反応しか見て取れない」
「異能ですか」
「そう。君は、霊体か何かの観測者かな。可哀想に」
「先生は」「私はね、世界の中継地点に干渉できる。地点はつくったら作りっぱなしだし、見えないから大丈夫だけど。君は大変なものを見たね……」
「……あの子は何をしましたか」
「気にしないでいいよ。あれのこと、誰にも言わないでね」
「分かりました」
「じゃ、帰ろうか。下校時刻間に合わないと部活動停止になるよ」
「分かりました」
 それで小木は何事もなかったかのように私を昇降口まで送り届けた。

 あの子供が何者だったかは今も知らない。知る気もない。