表示件数
8

LOST MEMORIES CⅥⅩⅡ

おかしい。おかしいといったらおかしい。
瑛瑠はお昼前最後の授業を受けながら、授業内容とは全く違うことを考えていた。二日の授業遅れはどうにかなると判断したこともある。それ以上に、集中できないほど気になってしまうことがあった。
長谷川望。彼は、朝の授業以来言葉を交わしていない。後ろを一度も振り返ってこないのだ。こうも急に避けられるような態度をとられてしまったので、悶々としていた瑛瑠。
終業を告げるチャイムと共に、望の背をつつく。瑛瑠から話しかけるのは初めてかもしれなかった。
振り返る望は、変わったところは見受けられない。つまりはいつも通り。
「瑛瑠さんから話しかけてくるなんて珍しいね、どうかした?」
「あの、私、長谷川さんに何かしましたか?」
周りではクラスメートが動き始める。やっと来たお弁当の時間。瑛瑠はその前に確認したかった。
ガタガタと机を移動させる音を横で聞きながら尋ねる。
「長谷川さん、私のこと避けてますか?それって、私が何かしたから?」
理由もなく避けられるのは、辛い。
目の色が弱くなっていることに、自分では気付いてはいない瑛瑠。
一方の望といえば、思ってもみなかった、そんな言葉が聞こえそうなほど目を丸くしていて。

2

LOST MEMORIES CⅤⅩⅨ

教室に入ると、前の席には鞄が置かれてある。歌名の手伝いへ行ったのだろう。歌名の席にも、ストラップがついた彼女のであろう鞄が置かれてある。自分も手伝うと申し出たらよかっただろうかと席につきながら思う。
登校時間は比較的早い瑛瑠だが、本を読んでいる彼はそのさらに前についていたのだろうことが伺える。
瑛瑠は鞄だけ机の上に置き、彼の隣の席を借りることにした。
「おはようございます。」
声をかけると、ここへ瑛瑠が来ると見越していたように、驚くこともなく読みさしの本を閉じてしまう。
「おはよう。体調は?」
「お陰様で。……邪魔をしてしまってすみません。」
英人は僅かに首を振った。
「あの、お借りしていたリングはネックレスにして持ち歩いています。ありがとうございます。このまま私が持ち続けていてもよろしいんでしょうか?」
瑛瑠が確認として聞くと、何を今さらと微笑う。
「勿論。持っていていい。」
やはり余裕そうな彼だが、心配は拭えない。
「何かアテでも……?」
すると、ぴくりと形の整った眉をあげる。
「聞いてないのか?」
何を、だろう。
こんな質問をされるくらいだ、聞いていないということだろうと思うが、生憎何のことか見当がつかない。
英人は苦笑して、
「ごめん、聞かなかったことにして。」
なんて言うものだから瑛瑠は不貞腐れる。
「何のことですか。」
「そのうちわかるから。」
やっぱりこいつ、気に食わない。

5

さよならのない別れって、刃のないギロチンみたいだ

妻に子供が出来たんだ。私を蕩かすためだけに存在していると思っていた声が、一文で二度分私を打ちのめした。左耳に寄せていた液晶が急に冷たい。そう、お幸せにね。せっかく諦めを知っている大人を気取れたのに、彼の返事を待たずに通話を切ってしまったせいで台無しだ。私は天井を仰ぐ。

薬指の寂しい左手に握ったままの携帯が、いやに掌に馴染まない。きっと彼と私もこんな感じだったのだろう。だって彼の薬指は寂しくなんかなかった。いつも嵌めていたあの手袋だって、家庭の跡を隠すための代物に過ぎなくて、──サンタクロースみたいにさむがりやなのかと思っていた。闇の中で絡めた裸の指先は、あんなにも熱かったというのに。



仕事で失敗をした。終電に揺られながら目を閉じるが、上司の罵声とお局の舌打ちが頭の中を回って止まない。ぐるぐる忙しいそれは洗濯機のようなのに、なんにも綺麗にしてはくれなくて、私は瞑った瞼にぎゅっと力を込める。と、すぐ横に体温が腰掛けた気配を感じた。

他にいくらでも席を選べる状況で、見るからに疲れきった女の隣に座るなんていい趣味の持ち主だ。ご尊顔を拝んでやろうと目を開けると、見覚えのある横顔が在った。残業の長引いた日、酒に連れ回された日、終電で必ず乗り合わせる男だ。

きっと男も私のことを覚えていた。だって今日に限って一度も視線が絡まない。持ち主の判明した温もりは途端に心地よくて、私はその肩に凭れ掛かった。所在なく膝の上に置いていた手に、黒の皮をまとった男の掌が重なる。そうして彼の名前を知ったのは、彼の服の中を知った後だった。



太い骨を思い出す。硬い肉を思い出す。厚い肌を思い出す。薄い唇と、その隙間から漏れる濡れた吐息を思い出す。

妻に子供が出来たんだ。柔らかな言の葉で出来た尖りが、チェーンソーみたいに頭の中を回って止まない。ぐるぐる忙しいそれは洗濯機のようでもあるのに、なんにも綺麗にしてはくれなくて、──涙が零れた。私と奥さんとの違いなんて、きっと永遠を誓ったか誓っていないかの差くらいだというのに。貰ってきたばかりの桃色の手帳に携帯を叩きつけて、膝を抱える。

子供が出来たんだ、なんて。
そんなの、私もなのに。

4

LOST MEMORIES CⅤⅩ

「ヴァンパイアの彼にはお礼を。彼のおかげで、私も多少は安心してお嬢さまを送り出せます。」
指輪のことだろう。まだ薬指にはめているそれを見る。
「これ、返さなくてもいいのかな。」
チャールズを見やると、
「返す必要は、今はまだありませんよ。」
と言われる。
また、含みのある言い方。では、いつ返すというのだ。
「有り難く借りていましょう。」
質問の余地なしな間合いには口をつぐむしかない。
「でも、さすがに指は目立つよね。どうしよう。」
そう瑛瑠が言うと、チャールズはやっと立ち上がり、徐に瑛瑠の部屋を後にする。
一人残され、少し重く感じる自分の体をベッドから持ち上げようとすると、チャールズが戻ってきた。
「リングネックレスにしましょう。」
チャールズが持ってきたのは、チャームのつけられていないネックレス。
「それは?」
「ただのネックレスですよ。」
誰かの随身具とか、そういった魔力物の類いではないらしい。
指輪を外す。エタニティリングだ。それも、ハーフエタニティ。改めて綺麗だと思いながらチャールズに手渡す。そして彼もまた、その輝きに劣ることなく流れるようにチェーンを通すその姿は様になっていて。
そつのない動きを黙って見ていると、後ろを向いてください,という指示が聞こえる。
ベッドからやっと降り、チャールズの前に背中を向けて立つ。すると、今しがた通したばかりのそのネックレスを、瑛瑠に着けた。