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ドアを開けると

 日本人形、とりわけお菊人形なんかはなんとなく不気味、怖いと敬遠する者が多いが余は嫌いではない。どちらかといえば好きだ。
 ある日曜日、早朝、旅番組で人形を供養する神社が紹介されていた。大量のお菊人形が並べられた境内をカメラがゆっくりと移動していく。ふと、なぜだろう、やや大きめな一体が余の目にとまった。余は、すかさず静止画にしてじっくり見てみた。その人形は、明らかにほかの人形と違っていた。見た目が可愛らしいだけでなく、生き生きとしていてかつ、憂いがあった。余は、この人形を生で見てみたいと思った。で、その神社に行くことにした。
 昔ながらの幸せは、消費文明にはかなわない。金がなくても幸せにはなれる。幸せなんてものは原始時代から存在していたのだ。余は幸せなどいらぬ。快楽があればよい。余は金がある。暇もある。金と暇があればどこでもすぐ行ける。これすなわち快楽。
 目当ての人形は、あった。お馴染みのおかっぱ頭。少し髪がはねている。陽にあせた赤い着物。複雑な刺繍が施されている。下がり眉、二重まぶた、密集した長いまつげ、やや丸みのある鼻、小さく薄いおちょぼ口、ふっくらとした頬、小さなあご、うつむき加減で、憂いを帯びた表情。色は人形のように白い。ああ人形だった。
 いつまで眺めていたのかわからない。あたりはすっかり暗くなっていて、風が冷たかった。人形に、「さようなら」と言って神社を出た。一泊し、あちこち見てまわってから帰路についた。
 ドアを開けると、あの人形がいた。

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死神

「この世は本当に存在しているのか。すべては幻ではないのか」
「人間は外部を知覚することによっていわゆる人間になるのだ。いま認識しているこの世が脳のつくり出した幻だったとしても、まず最初に世の中ありきなのだ」
「誰ですかあなたは」
「わたしかね。まあこの世ならざるものとでも言っておこう」
「なるほど。急に目の前に現れるなんてまさにこの世のものとは思えない」
「さっきからいたよ。急に現れたように感じたのはお前がぼうっとしているからだ。鍵ぐらいかけておけ。ところでずいぶん悩んでいるようだな」
「いま、生きているという実感がないんです」
「若者なんてだいたいみんなそんなもんだ」
「そうですか。でも、悩んでいるんです」
「いまなんてどうでもいいではないか。人間は未来を志向する生きものだ。樹木を傷つけて一定時間経過後、染み出してきた樹液を食すサルなどもいるが、人間の未来志向には及ばない。男性なら子の誕生、女性なら孫の誕生により、いつ死んでもよいなんて心境になったりするのも未来志向だからなのだ」
「未来なんて不確かなものですよ。妄想の産物でしかない」
「人間は現実より妄想依存型なのだ。確かないまより不確かな未来。人間はパンによってのみ生きるのにあらず、妄想の力によって初めて人間として生きる。幻を生きるのが人間なのだ。お前はいまでさえ幻と感じている。完璧だ」
「……なんかよくわからないけど、希望が湧いてきました」
「そうか。たまには外出しろよ。天気もいい」
「はい。久しぶりにツーリングに出かけようと思います」


 ーーもしもし。A県のB警察署の者です。ご家族にCさんという方はおられますか? 高速道路で交通事故にあい、現在D市のE病院に救急搬送され……

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セールス

「むきむきになりたい。腹筋ばっきばきになりたい。でも筋トレするのはしんどいなあ。腹筋ベルトは高いし」
「よおっ」
「なんですかあなたは」
「わたしは悪魔だ。お前のような怠け者の願いをきいてやるのがわたしの仕事」
「やったー。ぼく、筋肉むきむきになりたいんです」
「こんな便利な世の中に生きてて過剰な筋肉など必要なのかね。それに人間には殺傷力のある道具を作る知恵がある。無駄な筋肉なんかはいらない」
「あの。願いを人生相談みたいにきいてあげるだけってことじゃないでしょうね」
「はは。まさか。ところであらかじめ警告しておくが、願いをきくのは三つまでだ。三つきいたらお前の魂をいただく」
「べつにいいですよ。ぼくは筋肉が欲しいだけなんだから」
「では、この薬を飲みたまえ」
「うわー、なんかいかにも効きそうな色だ。ごくっ……ぐあああああっ……ああっ、すごい。まるでギリシャ彫刻みたい」
「ふふん。どうだ」
「鏡見てきます。……うわあああっ」
「どうした? 全身むきむきだろうが」
「こんな不細工な顔じゃあ女の子にモテないよ」
「亀の甲羅でも嚙み砕ける咀嚼筋だ」
「顔は普通でいいんですよ。元に戻してください。ああでもそうしたら願いが二つに」
「失敗は成長に必要なコストだ。この薬を飲みたまえ」
「はあ〜。ごくっ……ぐああああ……はっ。あれっ? 全身元に戻ってる」
「元に戻せと言っただろうが」
「いや、ぼくが言ったのは……」
 で、結局、悪魔は魂を手に入れる。

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アマゾン

「いいなぁ〜。友だちみんな、お盆は海外だって。……おじいちゃんは海外行ったことある?」
「あるよ」
「えっ? どこに?」
「グアム」
「ほんとにー⁉︎」
「戦争でだけどな」
「……おじいちゃんって、いくつなの?」
「さぁ〜、忘れたな……海外なんか行って伝染病なんかにかかるよりは、家でのんびりしてたほうがましだ」
「いまでも伝染病が流行ってる国なんてあるの?」
「人口が密集しているにもかかわらず、農業利用などの糞尿を処理するインフラが確立されていなければ伝染病が流行るのは当たり前だ。
 太平洋戦争中の戦死者の6割は餓死と病死らしいが、野営地にトイレをつくらなかったがゆえのコレラなどによる死者もかなりの数に上っただろう。
 人口問題といえばまず食料問題だが、食料問題の解決のすぐ後には、排泄物の処理の問題が待っているのだ」
「おじいちゃん、よくわからないよ」
「しょうがない。もうぼけてるからな。はっはっは。ところでな、お前の欲しがってたアメコミ、買っといたぞ。ほら」
「あっ! バットマンだ! どこで買ったの?」
「友だちに頼んだんだ。なんでもアマゾンまで行って買ってきたらしい」
「おじいちゃん、それは……まあいいや。ありがとう」

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とりとめもなく、蝉について。

 会社帰り、ふと足元を見ると、仰向けになった油蟬に、無数の蟻がたかっている。行政が動くまでもなく、現代でもこうして、自然の分解者の活躍により、死体が処理される。
 けっこうよくあるのだが、まだ息のある状態なのに蟻がたかっていることがあってつい自分と置き換え、こんな死にかたは嫌だなあなんて思っちゃう。
 自然の分解者というと、まず蠅とバクテリアが頭に浮かぶが、蟻の貢献度は蠅に匹敵するか場合によっては凌駕すると思われる。
 アスファルトで死んでいる蝉はふつう雄である。雌は土の上で死ぬ。なぜなら雌は卵を産まなきゃならないからである。アスファルトに卵は産めない。雄の発声器官に当たる部位が雌の産卵器官になる。ネットで調べてみよう。カンのいい人なら即座に見分けられるようになる。太古、蝉は雌も鳴いていたとむかし、何かで読んだ。
 ところで(何がところでだ)蝉は成虫になってから一週間しか生きられないというのは蝉の飼育法が確立されていなかったがゆえの誤解である。種類によって差はあるが、実はけっこう生きる。もっとも天敵にやられることを考慮しなければの話。
 死ぬ前に交尾し、子孫を残せる蝉はごく一握りだ。精いっぱい鳴いても交尾できない雄もいるし、産卵前に食べられる雌もいる。土の外に出るのが遅すぎてパートナーを見つけられなかったなんてケースもある。
 だから何だ? 子孫を残せなくても子ども時代が長かったんだからそれでオッケーって考えかたもある。現代日本人なんてまさにそれじゃないか。
 話がぶれた。運も実力のうちというが運は実力なのだ。いや、すべては運のなせるわざ。努力できるのも努力できる遺伝情報が運良く発現したおかげ。努力とニーズが合致したおかげだ。実力なんてものは存在しないのだ。
 とりとめもなく、蝉について。

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蛙の王子改訂版

 ある小国の王子が、悪い魔女の魔法によって、蛙の姿に変えられてしまう。魔法を解く方法はただひとつ、若い娘にキスしてもらうこと。
 蛙にキスしてくれる若い娘なんてどこにいるんだよ。途方にくれて湖のまわりをぴょこぴょこしていると、鞠をついて遊んでいる若い娘を発見する。普通の頭脳の持ち主だったら駄目もとでストレートに切り出すところだが、そこは腐っても王子、とっさに思いついたプランを実行することにする。
「ちょっと君、可愛いねえ!」
「わあっ。びっくりしたあ。……あれ? いま、ぼちゃんって……あ、湖に鞠が、どうしよう」
「おやおや。風に吹かれてあんな遠くまで」
「どうしよう。お父様におねだりして買ってもらったばかりの鞠なのに」
「そりゃあ、お父様に怒られるでしょうなあ」
「あっ、どーしよー、どーしよー」
「ご心配なく、わたしはごらんのとおり、蛙です。あんなもの取ってくるのは朝飯前」
「ほっ。よかった」
「しかしですなあ。ただで取ってくるってわけには」
「わたし、どうすれば?」
「キスしてください」
「キスですか?」
「はい。キスです」
「蛙には寄生虫がついてるってきいたことがあるけど大丈夫かしら」
「ご心配なく。わたしはそこいらの不衛生な蛙とは違います。では、取引成立ってことで」
 王子がすいすいっと泳いで取ってきた鞠を受け取ると若い娘は、王子にキスしようとする。その純粋さに王子は心を打たれてしまう。
「嫌だなあ、お嬢さん。キスなんて、冗談に決まってるじゃないですか」
「それでは、どうしたらよいのでしょう?」
「そうだ。チョコバーなんか持ってません?」
「持ってます持ってます。甘いもの大好きなので」
「じゃあチョコバーでチャラってことにしましょう」
 若い娘に背を向け、チョコバーをかじりながら歩き出す王子。人間の姿に戻っていることに、しばらく気づかない。

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蛙の王子

 ある小国の王子が、悪い魔女の魔法によって、蛙の姿に変えられてしまう。魔法を解く方法はただひとつ、若い娘にキスしてもらうこと。
 蛙にキスしてくれる若い娘なんてどこにいるんだよ。途方にくれて湖のまわりをぴょこぴょこしていると、鞠をついて遊んでいる若い娘を発見する。普通の頭脳の持ち主だったら駄目もとでストレートに切り出すところだが、そこは腐っても王子、とっさに思いついたプランを実行することにする。
「ちょっと君、可愛いねえ!」
「わあっ。びっくりしたあ。……あれ? いま、ぼちゃんって……あ、湖に鞠が、どうしよう」
「おやおや。風に吹かれてあんな遠くまで」
「どうしよう。お父様におねだりして買ってもらったばかりの鞠なのに」
「そりゃあ、お父様に怒られるでしょうなあ」
「あっ、どーしよー、どーしよー」
「ご心配なく、わたしはごらんのとおり、蛙です。あんなもの取ってくるのは朝飯前」
「ほっ。よかった」
「しかしですなあ。ただで取ってくるってわけには」
「わたし、どうすれば?」
「キスしてください」
「キスですか?」
「はい。キスです」
「蛙には寄生虫がついてるってきいたことがあるけど大丈夫かしら」
「ご心配なく。わたしはそこいらの不衛生な蛙とは違います。では、取引成立ってことで」
 わざわざ説明するまでもないだろうが、この若い娘、お姫様である。人間の姿に戻った王子は大国の王となり、めでたしめでたしかと思いきや、近隣諸国との外交、戦争、飢饉の対策などで精魂尽き果て、二十八歳の若さで亡くなる。死のきわで思ったことは、蛙のままでいればよかったな。

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サマータイム三十路

君は三十路
君は三十路
君は三十路
既婚の友だち
SNSで
今日も飽きずに
幸せ自慢
見てる自分も
自分だけど
年下のあいつでもいいか
年収低いけどイケメンだし
それともあいつにしようか不細工だけど真面目だし
気のある素振り見せたら
どっちも離れてった
高級ファンデで毛穴は隠せても
心にあいた穴は隠せない
君は三十路
君は三十路
週末の合コンで
がっつき過ぎてひかれて
夜が明けるまでひとりカラオケ
何か大切なこと忘れてる気がする
君は三十路
最近髪を伸ばし始めた
君は三十路
ミニスカート姿はかなりきつい
君は三十路
出かけるときは日傘をさして
君は三十路
二十代を振り返ってくよくよ
もういいんじゃない?
流される生き方なんて君らしくない
何も飾らなくても君はいまのままで十分輝いてるよ
取り越し苦労はもうやめてほら涙を拭いて
計算ずくの人生なんてつまらない
君の人生は君のものさ
君は三十路
君は三十路
君は三十路
君は三十路

婚活とんかつ
本格的な
レシピを検索
花嫁修行
頑張ってみるけど
もう投げ出しそう
そういえば仕事忙しくて
スポーツジムもう二か月行ってない
会費もったいないし
たまには身体動かさないと
泳いで走って汗流したらビール美味しくて
調子に乗ってクラブではじけて終電逃した
君は三十路
君は三十路
ボディビルのインストラクターにお弁当作ってったらドンびきされて
ひとりでふたりぶん泣きながら食べた
何か大切なこと忘れてる気がする
君は三十路
最近髪を伸ばし始めた
君は三十路
ミニスカート姿はかなりきつい
君は三十路
出かけるときは日傘をさして
君は三十路
二十代を振り返ってくよくよ
もういいんじゃない?
流される生き方なんて君らしくない
何も持たなくても君はいまのままで十分魅力的だよ
安い理想を追うのはもうやめてほら笑顔を見せて
マニュアルどおりの人生なんてかっこわるい
君の人生は君のものさ
君は三十路
君は三十路
君は三十路
君は三十路
君は素敵

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どんぐり

 シマリスさんがエゾリスさんのおうちをたずねた。エゾリスさんはパソコンに向かって何やら考え込んでいた。
「これ、どんぐり」
 シマリスさんがエゾリスさんの背中に言った。
「置いといてくれ」
 エゾリスさんが背中を向けたままこたえた。
「今度は何の研究をしてるんだい?」
 エゾリスさんは、「人間の交配の研究だ」と言ってから椅子を回転させ、シマリスさんの真正面にぴたっと止まった。
「遺伝的距離が近いと遺伝情報がホモになるため暗記力や身体能力が二倍になるが、自分の中にかけ離れたファクターがないから単純で想像力がない。逆に遺伝的距離が遠いと想像力はあるが暗記力が弱い。遺伝情報のホモとヘテロの割合がちょうどいいのが何でも平均点をとる秀才で、アンバランスなのが天才なんだろう。もちろん狂人になる可能性もあるわけだが」
「そういうのは優性思想とかで人間がすでにやったんじゃないのかい?」
「それは違う」
 どんぐりはあまり好きじゃないんだが、と前置きしてから口に何粒も放り込み、ぼりぼりやりながらエゾリスさんは言った。
「あれは悪い種は根絶やしにしてしまえという思想だ。結果遺伝的距離が近い似た者同士が残り、似た者同士で交配するからさらに遺伝的距離が近くなり、種が弱まる。免疫力の低下や不妊だ。で、絶滅する」
「なるほど、それで人間は減ってしまったんだね」
「よい遺伝子を残すだの悪い遺伝子を根絶やしにするだのがそもそもおかしな話なんだ。よいも悪いもかけ合わせの問題。だから優秀もばかもまぬけも必要なんだ。多様性がなきゃ駄目ってことだ。何だかこたえが出ちまったな。偶然にまかせてりゃいいってことだ。メシ食いに行こう。おごるよ。いや、どんぐりじゃなくてさ」

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ファミリー

「やっぱりレストランのほうがいいんじゃない?」
「いいの。りょう君、家庭の味に飢えてるっていつも言ってるから」
「サラダが欲しいわねぇ。かなちゃん、レタス買ってきてくれる?」

「買ってきたぁ」
「じゃあ半分に切ってちぎっといて」
「はあい。……お母さーん」
「なあに?」
「レタスの中からあかちゃんが」
「あらおめでとう」
「どうしたらいいの?」
「あなたが育てるのよ」
「えっ⁉︎ なんで?」
「当たり前でしょ。あなたが買ってきたんだから」
「当たり前って……」
「あなたのときはかぼちゃだったわ。おばあちゃんが送ってきてね」
「わたし、かぼちゃから生まれたの⁉︎」
「そうよ」
「こんにちはー」
「あっ。りょう君きちゃった」
「どうぞ上がってくださいな」
「おじゃましまーす。……おー、生まれたんだー」
「ごめんなさいりょう君、わたしが買ったレタスから出てきたの」
「出生届出さなきゃなー。あ、婚姻届が先か。名前どうする?」
「どうするって……」
「二人の子どもなんだから二人で考えるべきだろ?」
「こんなに早く孫の顔が見られるなんて思ってなかったわぁ」
「ほら、お前のおばあちゃんだよ〜」
「よろちくね〜」
「あっはっはっは」
「おっほっほっほ」
「…………」

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大山椒魚

 あなたは女子高生、学校の水泳大会に向け、市民プールでこっそり練習することにする。あなたはおとなしいが負けず嫌いで、かつ、努力しているのをひとに見られたくないタイプ。
 入念に準備運動をし、水に静かに入る。息を整え、背泳ぎを始めようとする。すると、監視員が笛を鳴らす。
「ちょっと君!」
 自分のことのようである。あなたは怪訝な表情で監視員を見返す。
「今日は背泳ぎ禁止デー‼︎」
 いつものあなたなら、何それ、と思いながらも従うのだが、今朝お母さんとけんかしてむしゃくしゃしていたのと、夏の解放感から、無視して背泳ぎを再開する。ターンしようとしたところで、あなたは何かに引きずり込まれる。
 意識が戻り、半身を起こすと、ひんやりとした、岩の上にいる。暗闇に目が慣れると、奥に何かがいるのがわかる。
「おはよう」
「……ここは?」
「わたしの別荘だ」
「あなたは?」
「わたしは大山椒魚だ」
「ここから出たいんですけど」
「無理だ。出口はわたしがふさいでいる」
「出して下さい」
「無理だ」
「どうして?」
「お前は若くて美しく、健康だからだ。手元に置いておきたい」
 あなたは立ち上がり、大山椒魚をどかそうと試みるが、びくともしない。
 一か月が過ぎた。あなたの命は終わりに近づいている。
「怒っているか?」
 大山椒魚がきいた。
「……怒ってなんかいない……。怒りを向けたら……、自分との関係性が強くなり、さらなる怒りにつながる……。あなたとわたしに関係はない」
 あなたはこときれる。大山椒魚が、さめざめと泣く。

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雑種#1

 感情を殺して生きることにしたんだ。きっかけ? 過去のトラウマだよ。毎日のように思い出しては、怒り、憎しみにとらわれ、目の前のことが手につかなくなる。思い出さないように頑張ってみたがもうあきらめた。そもそも思い出すのが問題なんじゃない。怒り、憎しみの感情が問題なんだ。
 俺の一族はゴールデンレトリバー。俺だけ雑種。これ以上説明はいらないだろ。子ども時代にいい思い出なんかない。おまけに俺は帝王切開で生まれた。犬は自然分娩じゃなきゃあ駄目だ。母親だってことを、知識で補えないからな。母犬は俺を単なる異物としか思ってなかった。生まれたばかりの俺は、乳を与えてもらえず、死にかけてたらしい。
 それに引きかえ、きょうだいたちの可愛いがりぶりといったら、子どもを生んだ多幸感が自己批判力を失わせるんだろう。才能なんてかけらもねえのにダンスだピアノだサッカーだバレエだと、言われるままに、習わせてたっけ。みんな小学生レベルで終わったけど。
 まあしょうがねえ。本能だからな。何万年経っても犬は犬だ。金持ちのお嬢様だから実社会でもまれることもなかったようだし。
 だからさ、生まれたばかりのころ、しばらく人間に預けられてたんだよ。それで生き延びることができたってわけ。
 戻りたくは、なかったよ。そりゃそうだろ? 
 何故って。法律だよ法律。犬の社会に人間が干渉したらまずいんだよ。俺みたいなさ、変なのができちまうから。

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ラッコ

 ラッコに育てられた人間の子どもがいて、ラッコが人間の子どもなんか育てるわけねえだろう。海の中で人間育つかよ。溺れるだろうが。なんて言われるかもしれないがいるものはいるのだからしょうがない。ラッコに育てられた人間の子どもは青年になり、どうも自分は親きょうだいとは違う種類の生き物みたいだなあと思い始めたころ、漁船に拾われ(本人は捕まったと感じたようだが)、人間の社会で生きるようになった。
 感受性期はとっくに過ぎていたが柔軟な脳ミソだったらしく片言だが人語を話せるようになった青年は、ビルの清掃スタッフになった。
 青年も年ごろらしく恋に落ちた。同じ職場の事務員だ。青年は事務員をデートに誘った。事務員はセレブ志向だったが青年はイケメンだったし何だかエキセントリックな魅力があったから応じた。海への郷愁があった青年は水族館に向かった。インスタグラムにアップするからとやたらと写真を撮らされるのには辟易したが楽しかった。ラッコのコーナーに来た。何ということだ。自分を育てた母親ラッコがいた。母親ラッコは、幸せそうだった。そりゃそうだ。餌の心配も流される心配もない。海に比べたら天国だ。
 青年は、無言で事務員の手を引きその場を離れた。考え過ぎたら駄目だ。と思った。

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大人論(加筆訂正版)後編

「君の書いてる大人論、読んでるよ」
 エスプレッソを半分くらい飲んでから町田さんが言った。
「ありがとうございます」
 わたしはグラスを拭きながらこたえた。
「あれを読んでちょっと思い出したんだ。わたしが広告代理店で働いてたころの後輩で、ディズニーランドが好きな奴がいてね」
「はい」
「あの話の主人公とは真逆だなって思ったんだ。ディズニーランド好きにありがちなんだけど、想像力ゼロだった」
「ああはい。脳内リゾートって言葉がありますけど、想像力があり余っているような人には必要ないですよね。アミューズメントパークは」
「そいつは結婚は早かった。つまりな、結婚しない奴ってのは想像力に現実が追いつかない。結婚の早いような奴は現実に対して想像力が及ばない。だからわかりやすい娯楽やライフスタイルに流される」
「なるほどー。さすがです」
「ま、何事も程度ものだ」
「バランスですよね」
「じゃあまた」
「いってらっしゃいませ」
 
 訂正しなくてはならない。豊かな想像力が選択の邪魔をしてしまう。想像力の豊かな者にとって選ぶということは妥協するということだが、想像力の貧困な者にとっては選ぶことは妥協ではない。
 大人になると想像力を失うとむかしから言われている。想像力の貧困な者は大人なのだ。想像力の貧困な者ほど結婚式や誕生日パーティーの演出にこだわる。想像力の貧困さを埋め合わせるためだ。もちろん妥協の埋め合わせでもあるのだが。
 身分社会であらかじめ職業が決められ、恋愛結婚などなかった時代。つまり選べない時代には妥協もない。妥協ができるということは人生を選べるということだ。
 メディアの発達によって人生のイメージ化が進んでしまったのが現代社会である。イメージとリアルのはざまで引き裂かれないよう、妥協したり、しなかったり、うまく使い分けて生きなくては。


引用文献
フランソワ・サイトウ(1954)『四十男の結婚』
天の川書店

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大人論(加筆訂正版)中編

 少し考えをまとめよう。

・妥協することは大人になること。
・妥協できる人間は大人。
・社会制度への帰属は妥協の産物。

 ということはつまり。

・妥協という決断をしなければいつまでも子どもでいられる。
・妥協とは社会制度に帰属すること。

 したがって。

・大人になるということは社会制度に帰属すること。
・妥協という決断をしなければ現状を変えなくとも(一見社会制度に帰属しているように見えても)、いつまでも子どもでいられる。
・言動が子どもっぽかろうが何だろうが妥協できれば大人であり、逆に落ち着いていても妥協しなければ子ども。

 となる。
 
 『四十男の結婚』に戻ろう。
 外界と断絶して、脳内に王国を作り、イメージの国の住人になってしまった四十男だったが、同じアパートの階下の住人である女性に強引に外界に連れ戻される。女性は四十男の理想とかけ離れたタイプだったが、四十男の考えていることを映画会社に売り込み、契約が成立したことをきっかけに、四十男が交際を申し込み、たちまち男女の仲となる。映画はヒットし、大金を得た二人は結婚する。結婚後、四十男はレストランの若い女性従業員に高価なプレゼントをしたり、商売女とデートしたりと軽い浮気をするものの、すぐに幻滅することとなり、妻との絆が深まってゆく。
 人は妥協することで(折り合いをつけると言いかえてもよい)、幸福を手に入れ、いつまでも妥協しないことで不幸になるのだろう。もっとも妥協しないことによって快楽を味わうことはできる。

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大人論(加筆訂正版)前編

 四十過ぎても結婚しない男がいた。結婚してもいいなとは思っていた。よさげなのがいれば。そのよさげなのが問題だった。しとやかだが、堂々とした美人で、服の趣味がよく、男性経験はない。自分だけを愛してくれて、若くて、働き者で、立ち居振る舞いが美しく、箸づかいがきれいな女性。
 こんなお花畑な理想に対し男は、不細工で貧乏。怠け者で酒好き。多趣味だが仕事にできるほど達者ではない。結婚したかったら適当なので妥協するしかないレベルだった。だが男は妥協しない。男にとって妥協は大人になることを意味していたからだ。男はいつまでも子どもでいたかった。
 1954年の刊行物、『四十男の結婚』からの抜粋である。わたしはこの文章を読んだとき、月並みな表現だが、はっとさせられた。理想に合致する異性と出会えることはないにしても、本気の恋愛をし、結婚するぐらいな妄想は十代ぐらい(二十代もか?)だったら当たり前だろう。だがそんな幸運に恵まれる人間がこの世にどれくらいいるだろうか。わたしはきっぱりゼロだと言い切ってしまう。なぜならわたしは、常識的な四十代だから。
 プレイボーイというのがいる。ーー話に脈絡がないように感じられるだろうが着地点は考えてあるので我慢してお付き合い願いたい。ーーわたしは以前、男は女を選んでいるつもりでいるが、実は女に選ばれているだけだと何かで書いた。選ばれることに躊躇のない男。つまりそう。これは自分の立場をよく心得ている男。妥協のできる男である。プレイボーイは理想など追ってはいない。きわめて現実的な種類の人間。大人なのである。
 わざわざ言うまでもないが、こうした投稿サイトの投稿者には寿命がある。学業、現代的友だちづくり、現実的恋愛、就職等の社会制度に絡め取られ、妥協、迎合することを余儀なくされるからだ。プロのアーティストやクリエイターの道に進んだところで、それは趣味の死を意味するわけだから制度への帰属と同じことだ。逆説的だが、妥協とは、リアルを充実させるための代価なのだ。

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