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LOST MEMORIES CⅤⅩⅥ

「おはよ!」
ぽんと肩を叩かれる。
朝のやりとりを回想していたことと、今までされたことがないということ、さらに後ろからというのは意外と心臓に悪いもので、驚いて振り返ってしまう。すると、叩いた本人が一番驚いた顔をしていた。
「ち、ちょっと!驚きすぎだよー!」
「い、伊藤さん……!?」
肩につかないほどの茶色がかった髪を揺らし、目を丸くしている歌名。
「びっくり、しました。おはようございます。」
ばくばくしている心臓を落ち着かせるように、努めて落ち着いた声を出す。
「ごめんね、前歩いてるの見かけたからさ。
一緒に行こ。」
にっこりという言葉が合う、お手本通りの眩しい笑顔を向けられた瑛瑠は、不意を突かれて言葉が喉を通り抜けなかった。
歌名とふたりきりで話すのは初めてだ。ごめんねとは言うものの、反省する気は無いらしく、からっと笑いかけられる。その笑顔は、もしかしたら初めて見るといっても過言ではないような、そんな笑顔だった。
「風邪って聞いたよ。大丈夫?」
チャールズか、英人か。情報源は鏑木先生だろうか。
とりあえず、風邪ということになっているらしいことは把握できた。
「大丈夫です。ありがとうございます。」
歌名は一瞬、少し哀しそうな顔をした。
「授業のノート、いつでも貸すからね!」
瑛瑠が見逃すはずもなければ、見間違いのはずもない。
しかし、思い当たる節もなければ、言及しようとも思わなかった。
歌名が、また笑顔に戻ったから。
けれど、この顔は見たことがある。所謂、作り笑いってやつだ。
「瑛瑠ちゃん。」
声が固い。
「……どうしましたか?」
思わず身構えてしまうのは許してほしいと思う。
「あの、さ――」

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さよならのない別れって、刃のないギロチンみたいだ

妻に子供が出来たんだ。私を蕩かすためだけに存在していると思っていた声が、一文で二度分私を打ちのめした。左耳に寄せていた液晶が急に冷たい。そう、お幸せにね。せっかく諦めを知っている大人を気取れたのに、彼の返事を待たずに通話を切ってしまったせいで台無しだ。私は天井を仰ぐ。

薬指の寂しい左手に握ったままの携帯が、いやに掌に馴染まない。きっと彼と私もこんな感じだったのだろう。だって彼の薬指は寂しくなんかなかった。いつも嵌めていたあの手袋だって、家庭の跡を隠すための代物に過ぎなくて、──サンタクロースみたいにさむがりやなのかと思っていた。闇の中で絡めた裸の指先は、あんなにも熱かったというのに。



仕事で失敗をした。終電に揺られながら目を閉じるが、上司の罵声とお局の舌打ちが頭の中を回って止まない。ぐるぐる忙しいそれは洗濯機のようなのに、なんにも綺麗にしてはくれなくて、私は瞑った瞼にぎゅっと力を込める。と、すぐ横に体温が腰掛けた気配を感じた。

他にいくらでも席を選べる状況で、見るからに疲れきった女の隣に座るなんていい趣味の持ち主だ。ご尊顔を拝んでやろうと目を開けると、見覚えのある横顔が在った。残業の長引いた日、酒に連れ回された日、終電で必ず乗り合わせる男だ。

きっと男も私のことを覚えていた。だって今日に限って一度も視線が絡まない。持ち主の判明した温もりは途端に心地よくて、私はその肩に凭れ掛かった。所在なく膝の上に置いていた手に、黒の皮をまとった男の掌が重なる。そうして彼の名前を知ったのは、彼の服の中を知った後だった。



太い骨を思い出す。硬い肉を思い出す。厚い肌を思い出す。薄い唇と、その隙間から漏れる濡れた吐息を思い出す。

妻に子供が出来たんだ。柔らかな言の葉で出来た尖りが、チェーンソーみたいに頭の中を回って止まない。ぐるぐる忙しいそれは洗濯機のようでもあるのに、なんにも綺麗にしてはくれなくて、──涙が零れた。私と奥さんとの違いなんて、きっと永遠を誓ったか誓っていないかの差くらいだというのに。貰ってきたばかりの桃色の手帳に携帯を叩きつけて、膝を抱える。

子供が出来たんだ、なんて。
そんなの、私もなのに。

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LOST MEMORIES CⅤⅩⅣ

やっと、太陽さんおはようだ。馴染みのなかったこの言葉にも、そろそろ違和感を感じない。シャワーを浴び、早くも制服に着替え、顔を出したばかりの太陽を見る。太陽はやはり暖かい。
再び、窓を開ける。朝の冷たい空気を欲している。今度は合法である。別に、夜に開けることが違法とかではないのだが。
まだ人の気配は無い。人間の活動時間には少しばかり早すぎる。
そのはずなのに聞こえる物音。それも家の中から。
「どうして起きているの、チャールズ。」
まさかと思ったけれど、ちょっと早過ぎやしないか。
リビングへ行くと数時間前に言葉を交わした彼がキッチンに立っている。
「おはようございます。」
華々しいその微笑みは、なんだか久しぶりに感じる。それもそうかもしれない、数時間前は疲弊していたわけだし、2日間瑛瑠は、文字通り夢の世界へ身を預けていたのだから。
しかし、睡眠というよりかは仮眠ではないのかこの付き人。
ふと生じる疑問。
「おはよう。
……チャールズは、どれくらいの間こっちにいるの?」
朝食を作っているときの音は、人間界へ送られてからよく聴くようになった。その良い音をBGMに、チャールズに尋ねる。ついでに、何か手伝おうか?と付け加えるのも忘れずに。

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LOST MEMORIES CⅤⅩⅡ

一通り書き留め、チャールズと英人のふたりに向けた疑問をさらに書き出してみる。
とりあえず英人には、お礼を言ってから聞いてみよう。今日行けば終わりということだから、明日明後日は休日ということだ。そのどちらかで英人とは話せればいい。チャールズへは今日帰ってきてから、もしくは休日のどちらかでいい。ゆっくり話せなければ意味がないから。
ノートを閉じる。
カーディガンを羽織っているとはいえ、少し肌寒い。それでも、何故だか無性に月が見たくなって。
部屋の明かりを消し、カーテンを開く。チャールズに怒られそう,なんて、くすりと笑みを雫し、月を見つめる。だいぶ傾いてきていた。夜が明けるには、まだ時間があるけれど。
見上げる空には、星がいくつか見える。何のあてもなく見上げていた瑛瑠は、北斗七星に目を留める。柄の3点から線を伸ばす。その先に繋がる一際明るいその星は、うしかい座のアルクトゥルス。
じゃあ、その先は?
おとめ座のスピカ。
誰にともなく問いかけ、自分で答える。
春の大曲線。
今、こんな時間にこの星達を眺めている人が、一体どれくらいいるだろう。自然と微笑んでしまうくらいには贅沢なことをしている。瑛瑠はひとりそう思った。

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LOST MEMORIES CⅤⅩ

「ヴァンパイアの彼にはお礼を。彼のおかげで、私も多少は安心してお嬢さまを送り出せます。」
指輪のことだろう。まだ薬指にはめているそれを見る。
「これ、返さなくてもいいのかな。」
チャールズを見やると、
「返す必要は、今はまだありませんよ。」
と言われる。
また、含みのある言い方。では、いつ返すというのだ。
「有り難く借りていましょう。」
質問の余地なしな間合いには口をつぐむしかない。
「でも、さすがに指は目立つよね。どうしよう。」
そう瑛瑠が言うと、チャールズはやっと立ち上がり、徐に瑛瑠の部屋を後にする。
一人残され、少し重く感じる自分の体をベッドから持ち上げようとすると、チャールズが戻ってきた。
「リングネックレスにしましょう。」
チャールズが持ってきたのは、チャームのつけられていないネックレス。
「それは?」
「ただのネックレスですよ。」
誰かの随身具とか、そういった魔力物の類いではないらしい。
指輪を外す。エタニティリングだ。それも、ハーフエタニティ。改めて綺麗だと思いながらチャールズに手渡す。そして彼もまた、その輝きに劣ることなく流れるようにチェーンを通すその姿は様になっていて。
そつのない動きを黙って見ていると、後ろを向いてください,という指示が聞こえる。
ベッドからやっと降り、チャールズの前に背中を向けて立つ。すると、今しがた通したばかりのそのネックレスを、瑛瑠に着けた。

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LOST MEMORIES CⅣⅩⅨ

「綺麗な顔が台無しだよ。」
「だとしたらお嬢さまのせいです。」
「あら、私ってば罪な女ね。」
こんな軽口により、だいぶチャールズは目を覚ましたらしい。
ずっと隣にいて瑛瑠の身を案じていたのだろう。彼は疲労困憊に違いなかった。その上、心配も先走っていた。もっと早く気付くべきだったなと少し反省してみる瑛瑠。
夢のことはあとででいい。
チャールズを早く休ませることを優先に、これからの動きを軽く組み立てる。
「もう万全なので、今日は学校に行きます。ちょっと寝過ぎちゃったので、もう学校に行くまで起きています。遅れた分の授業、取り戻さないとね。夜明けまでまだ時間があるし、外へは出ないし、家の中は安全なので、チャールズは休んでください。
私が眠っている間、ずっと看ていてくれてどうもありがとう。」
自らの確認のために、声に出してみた。チャールズに微笑んでみる。
すると、やっと今日初めて微笑んでくれた。
「顔色も良くなって、本当に良かったです。二日眠っただけありますね。
本当に心配しました。心臓がいくつあっても足りないので、無理をすることはもうやめてください、金輪際。」
「金輪際。」
思わず復唱してしまう。
微笑みとともに、嫌みも忠告も置くことを忘れない。
「本当は、ベッドに縛り付けてでももう一日休ませたいところですが、顔色とその元気に免じて登校を許可しましょう。」

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LOST MEMORIES CⅣⅩⅧ

透き通るような白を、瑛瑠はほんの少し弄ぶ。そして、チャールズもまた、静かに弄ばれていた。
あなたは私のお兄ちゃんなの?人間界へ何しに行っていたの?プロジェクトって何?あの狐は何なの?ジュリアさんやレイさんは仲間?みんな無事だったの?
――どうして隠しているの?
一度考え始めると、聞きたいことは山のように出てくる。
そしてふと引っ掛かりを覚えてそれが何なのか繋がったとき、思わずチャールズの頭を叩く。
「ねえチャールズ!学校は!?」
静かに毛先を弄ばれていたチャールズは、いきなり頭を叩かれ、宇宙人にでも会ったかのような顔をする。瑛瑠に容赦なく叩かれた部分をおさえながらも、
「登校日は今日で今週最後です。お嬢さまが眠っていた二日間は、欠席扱いになっていますよ。」
と丁寧に答えてくれる。
よかった、まだ休日ではない。英人と話さなければいけないことが増えた。
英人の指輪が、なんとなく心強い。きっと、学校へ行っても大丈夫だろう。
そんなことを瑛瑠が考えているのを、まるで見透かしたかのように、チャールズが手首を掴んで言う。
「まさかお嬢さま、学校へ行くおつもりですか?」
「……まさかチャールズさん、止めるおつもりですか。」
チャールズは、綺麗なその顔を歪ませた。チャールズの必殺技、質問には質問で返すを盛大ブーメラン。
なんだかチャールズが過保護になっている気がすると、なんともなしに考えた。

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LOST MEMORIES CⅣⅩⅤ

「……。」
聴力に難はないはずだけれど。
「ごめん、チャールズ。たぶん、聞き間違えてしまったと思うの。なんて?」
チャールズはねめつけて、もう一度口を開く。
「2日、目を覚まさなかったんです、お嬢さまは。」
どうやら聞き間違いではなかったらしい。それにしても、2日という時間が流れていたとは。
「よく、お医者さまに診てもらおうという思考にならなかったね。」
何もかわりないのだ。目を覚まして、そういえば保健室にいたよなということを思い出さなければ、深夜に目が覚めてしまったことと何一つ変わらないし、違和感もない。
心配されたいなんてさらさら思わないが、変に過保護なチャールズがこの状態をそのままにしておくとも考えられず。
どこから聞けばよいかわからず、思ったことがそのまま口をついて出てきてしまったのは仕方ないとも思う。
チャールズが何も言わなければ、自分の着替えをまさかチャールズがやったのかと聞こうかなんて呑気に思っていると、
「ウルフの魔力にあてられた体調不良を、どうお医者さまに説明するんです?」
と返される。確かに。
じとっと向けられたその目を見つめていると、チャールズは深い深い、それはもうマリアナ海溝より深い溜め息をつき、再びベッドの、瑛瑠にかけられた布団へと顔を埋めた。

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LOST MEMORIES CⅣⅩⅡ

はっとしたときには、目が覚めていた。
「夢だ……。」
人間界に来てから見る夢は初めてではなかったが、ここまで鮮明に残っているのは今日が初めて。身に覚えのない夢。
しかし、心臓がばくばくいっている。いつぞやの、チャールズによる心臓の労働過多とはまた違う、嫌な感じ。
見慣れた天井。ここは自分の部屋。額には生ぬるく濡れたタオル。
「保健室にいたんじゃ……。」
左手の薬指には、確かに英人に借りた指輪がはめられている。
上半身を起こすと、嫌な汗が背中を伝った。
目の前には白。瑛瑠のベッドのふちに突っ伏して眠るチャールズの頭。
体が重い。そして、状況を把握できていない。さらに、身に覚えがないとはいえ、夢の内容はパプリエールの過去に違いなくて。
壁にかかる時計を見る。午前2時。どおりで暗いはずである。目はその暗さに慣れ、いっそカーテンから漏れている月の光が眩しい。
濡れたタオルと突っ伏し具合からみて、ずっと付いていてくれたのだろうと察する。
彼こそ、夢に出てきた彼。やっぱり、初めましてじゃなかった。そう思う。しかし、瑛瑠はチャールズを忘れ、チャールズは瑛瑠に嘘をついた。なぜ。
さらに、エルーナを名乗るあの少年も、きっと知っている。しかし、あんな過去は知らない。狐のことも、知らない。
最後の浮遊感。あれは、投げ飛ばされたのだ。ジュリアという彼女に。

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LOST MEMORIES CⅢⅩⅥ

もうふたりは口を開くことができなかった。
「入り口作るには……ここからならレイかスティールが声届くかな……。エレンに来てもらいたいけど……参謀が戦線離脱は痛いよね……。」
壁から中央をのぞき見るジュリアは、ぶつぶつとひとり呟く。
出てくるのは知らない名ばかり。
そうかと思えば。
「ああもう!チャールズのバカ!ジュリアにこういうの向いてないの知ってるくせに!」
急に叫んだと思ったら、振り返りだき抱えられる。
「とりあえず行こ。」
頷くしか選択肢はなかった。
「ちゃんとつかまってて。」
さっきよりもだいぶ速い。そして、もはや壁づたいではなく、直線的に進む。中央に近づくのは避けられない。
不安を抱きながら、ジュリアの細い首に手を回し抱きつく。
中央へ近付いている。子どもふたりにも何が起こっているのか、その一部を垣間見ることができた。
大きな狐。想像通りといえばその通りなのだが、黄金色の毛並みは目を奪われるくらい美しかった。これだけ暴れていながら、一切のくすみがない。そして、燃えるような赤い眼からは、遠くにいながらもあてられるような怒りが伝わる。しかしその声は、痛いくらい悲しみに満ち溢れていて。
一体、何に怒っているのだろう。何が、悲しいのだろう。
横ではジュリアが大きく息を吸った。
いっしゅん息を止めて吐き出したそれは、
「チャールズのバカー!!」
この台詞を聞くのは2回目だった。

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LOST MEMORIES CⅢⅩⅤ

どうしようと頭を悩ませる彼女を前に、どうすればいいかわからない子ども2名。
ジュリアの目が光った。
「ジュリアたちはね、指令を受けて人間界にいたの。その指令っていうのが、東雲を鎮めること。今暴れてる狐が、その東雲。」
時間がないのは百も承知である。彼女は説明することを選択した。
「東雲を鎮めないと魔界が危ない。なのに、東雲がここに来ちゃった。それを止めるために、ジュリアたちもここに来た。」
わかったようでわからない。
エルーナの質問、何してたの?どうしてここに来たの?
狐を鎮めろという指令に従っていて、その狐が魔界に来たから追いかけてきた。
その狐は何者なのだろう。なぜ魔界が危ないのだろう。
どうやらジュリアはエルーナの質問に答えただけ。それ以上を説明するつもりはないらしい。
「さっきので、東雲に見つかった。こんなに離れてるのに……。」
悔しそうに言うジュリア。
「君たち二人は、何がなんでも逃がさなきゃ行けない。」
「どうして……?」
思わず声が出てしまった。条件反射だ。
「未来のこの世界を背負う子たちだから。」
3人の隠れていた壁に衝撃が走る。
ジュリアが羽織るマントに、パプリエールとエルーナは包まれた。
「出口は塞がれちゃったけど、絶対に道は作るから。だから、ふたりは必ず逃げて。」
「姉ちゃんは!?」
エルーナが叫ぶ。もはや悲鳴に近い。
「大丈夫、エルをここから逃がすまでは一緒にいる。」
彼女の目はもうこちらを向いていない。
残酷な言葉だった。

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